03 「あなたの体温」






 冬枯れの森の白雪を蹴立て、少女は必死に駆けていた。
 その蜂蜜の髪は風に乱れ、頬は上気し血の色に紅く染まっている。
 枯木立の間を縫うように走る。何が入っているのか、時々、ずしりと膨らんだ懐をしっかりと抱えたりする。水のように透き通った瞳には、必死の光が宿っていた。
 その背を征矢のように追うものがある。牙を持つ四つ足、狼。執拗に少女を追っている。冬に獲物を見つけた歓喜に、金色の目が輝いている。
(逃げないと)
 地を覆い隠す深い雪に、時々足を取られながら、少女…雪は、そのことばかり考えている。
(せめてこの子だけでも)
 再び懐をしっかりと抱えた。純白の肌深くそこに隠されているのは、一匹の狸の子であった。


 若芽を捜して山に来ていた。
 川辺の雪が解けかかる頃だった。厳しい季節はもうすぐ終わる。冬を越えた喜びに、一日も早く、食卓を春の息吹で飾りたかったのだ。
 狸の子と出会ったのはその時だった。親とはぐれたのか、春の気配に誘われたのか、ただ一匹でぽつねんと楢の木の下に立っていたそれと、雪ははたりと目が合った。
 冬の山中で生き物の姿を見たのは久々だった。親しみを覚えた雪が近づくと、狸の子もすぐに雪の姿に気付き、緊張で身体を縮めた。
 その時、雪のかたわらの枝から、積雪がさあっと崩れ落ちた。
 ただでさえ人の子に警戒していた狸の子は、予期せぬ大音にさらに尾を膨らませ、四肢を攣らせて、こてんと横に倒れてしまった。
 俗に言う狸寝入りというものだ。狸が危険を回避するために仮死状態に陥るその現象を、雪は師や兄から聞いて知っていた。
 捨てておいても目覚めるのだが、稀に、そのまま本当に死んでしまうこともあるらしい。
 雪は、放っておくことができなかった。すまないことをしたと、凍ったようになった獣を両手に掬い上げ、懐に抱いた。肌で暖めていれば大丈夫だろうと思ったのだった。
 そして、何事も無ければ、そのまま家へ戻っていたはずだった。
 途中で、狼に出会いさえしなければ。
 目が合った時、そのまま何気ふうで遠ざかればよかったのに、思わず背中を向けてしまったのがいけなかったのだろう。
 狩りをする獣から逃げる時、決して背を向けてはならないという師父の訓示を、危機にあって雪は実践することができなかった。
 しかも逃げる最中、突き出ていた山査子の枯れ枝で足を傷つけた。白雪を点々と赤く染めた、流れ落ちる温かな血に、獣が狂喜したのは想像に難くない。
 重い雪に足を取られた。そのまま倒れるのを、体をひねって雪は回避した。視界に狼の姿が入る。雪は、制止してしまった。
 狼も立ち止まった。一足に飛べる距離を、唸りながらも探り出した。
 雪は足を引くようにして後ずさったが、背中が大樹にぶつかった。
 逃げ場が無い。青ざめかけたが、すぐに気を取り直した。こうなってはと、懐の狸を庇ったまま、そばに落ちていた枯れ枝を拾う。槍に使うには短かったが、頓着せず枝を低く構える。
 立ち向かうつもりだった。同時に、歯の立つ相手とも思っていない。相手は血と狩りに明け暮れる森の精だ。人の子が勝てる道理が無い。
 しかし、追うことぐらいはきっとできる。ともすれば深手を負うかもしれなかったが、何もしないわけにはいかなかった。
 この身に、一つの命を抱えているのだ。
(守るんだから…!)
 懸命となった雪の猛気に反応したか、獣もまた牙を剥き頭を低く構えた。爪を白雪へ突き立てる。
 来る、と、雪は身構えた。
 耳を裂く、烈風が起こった。
 大きな音が通り抜けていった。
 雪は顔を上げた。その音は、人の声に似ていた。
 顔を向けると、白い木立の中に、雪の義兄、御名方守矢が立っている。
「…守矢?」
 思わぬ人影に雪は呟く。守矢は、片手に首巻と綿入れを抱えていた。雪を探しに出てきたのかもしれない。
 しかし守矢は雪を見ず、ただ狼を見つめている。遠目にも分かる、青白い眼が殺気を含んで据わっていた。
(去れ)
 一言も言葉には発さない、その眼には凄愴の気があった。
(さもなくば殺す)
 無言でそのまま近づいてくる。
 距離が、縮んだときだった。
 狼は、あっという間に尾を翻し、木立の中へ消えていった。
 静けさを取り戻した森の中、雪はなすすべもないように、義兄の背中を見つめていた。
 守矢はしばらく狼の去った先を見つめていたが、やがて、振り返った。まともに目が合い、雪はどきりとする。目から殺気は消えていたが、何を言われるかと、雪は緊張した。
 だが、守矢はただ、手に抱えていた首巻きと綿入れを黙って雪に差し出しただけだった。雪の腕の傷に気づき、自らの着物を裂いて止血もしてくれる。
「…あ、ありがとう…」
 黙々としたまま手当てを終えた守矢に、雪はそう言った。守矢は無言で頷く。
 雪は首巻きを巻こうとして、懐の狸を思い出した。そっと、両手で取り出す。
 雪の掌のそれを見て、守矢が尋ねたそうな目を向けた。
「狸の子…私が驚かせて、気を失ってしまったの」
「…ずっと抱えていたのか」
「ええ」
 気に障ったことがあったように、守矢の眉間に皺が浮いた。
「お前は足が速いだろう。捨てていれば逃げ切れた」
「そんな」
 思いがけない守矢の言葉に、雪は声を大きくした。
「しないわ。できないわ」
「…」
 守矢は皺を深くして、雪の目を見つめている。
「どうしてそんなこと言うの。私のせいでこうなったのよ。そのままじゃ死ぬかも分からなかったのに、捨ててなんていけないわ」
「狼を相手にしてもか」
「ええ」
 雪は怯まない。
「守るもの」
 あくまで気丈に言い張る雪に、守矢は、ため息をつくように呼吸をした。
「…それでお前が怪我をすれば、師匠や楓がどう思ったと思う。一生残るような傷を負いでもしたら」
「…」
「どうなんだ」
 詰問するように守矢は言う。雪は、普段は静かな守矢の目が、いつになく厳しくなっていることに気づいた。そういえば、口数もいつもよりずっと多い。
「…守矢、怒ってるの?」
 思わず尋ねた。
「…」
 雪の言葉で、守矢は、常ではなかった己自身の態度に気づいたか、息を詰めたように黙ったが、
「…平気でいられると思うのか」
 低く、言った。絞り出すような声だった。
 その声を聞き、雪は首を横に振った。
「…ごめんなさい」
「…」
 無口な守矢はそれきり黙った。雪は言うべき言葉を探した。守矢は自分を探しに来てくれたのだ。
「…守矢」
「…」
 守矢は雪を見ず、木立に目を向けている。
「…ありがとう…」
 守矢は、頷いた。
 無言で、雪の手から狸の子を引き取り、己の懐深く納めた。
 それから雪に背を向け、片足をついて白雪に屈む。
「?」
 守矢の意図が分からず、雪は首をかしげる。
「…乗れ」
「え」
「おぶってやると言うんだ」
「そんな。歩けるわ」
 雪は驚く。しかし、守矢は聞かなかった。
「早くしろ。傷のせいでお前は冷えている。凍える」
「…」
 雪は逡巡した。この年齢で幼児のような真似をするのは躊躇われた。
 遠慮しようと思ったが、守矢はまるで地蔵のように、動かない。
「…」
 朱が頬に昇る。雪は着物の裾をからげた。
 守矢の肩に手を置き、守矢の背中に重みを預ける。寒空の下で、霜か氷のようになっていた雪の冷たさに守矢の体は驚いたようだったが、守矢は、声一つ上げなかった。
 辛抱強く、雪原を踏みしめる。
「…楓は?師匠は?」
「家だ。俺だけ出てきた。お前は…山菜を摘むつもりだったのか」
「うん」
「…」
「…」
 呆れたか、口を閉ざした守矢に赤くなって雪は黙った。きっと守矢は、探しに出るといった楓をとどめ、師匠のかわりに外へ出たのだろう。向こう見ずな楓だと彼こそが迷いかねないし、師匠を行かせて弟子が残るわけにはいかない。
 雪は守矢の背にすがった。迷惑をかけたと、心底思った。
 言葉を多く必要としない守矢は、同時に、人の多弁も好まない。くどくどと分かりきった礼などを言うと、また彼の機嫌を損ねかねない。
 すがりつくと同時に、感謝の思いも、それにこめた。
 ぴぃっ。
 犬の仔が啼くような声がした。
 どうやら狸の子が息を吹き返したらしく、守矢は立ち止まり、雪を負ったまま膝を屈めてゆっくりと懐を開いた。
 飛び出た四つ足が雪に立つ。
 狸の子は、まだ寝惚けているようにぼんやりと兄妹を見据えていたが、やがて正気に返ったようで、しっぽをいっぱいに膨らませて一目散に駆け去ってしまった。
「あれだけの元気なら、な」
 その背を見送り、呟くように守矢は言った。狸の子はもう見えない。
「良かった」
 雪は目を細めた。
「ああ」
 短く返し、守矢はまた立ち上がる。
「守矢」
 雪は悲鳴のように叫んだ。
「もう下ろして。寒くないわ。狸の子も元気になったし、もう歩ける…」
「うるさい。そのままにしていろ」
「だって」
「薄くて冷たい、お前の体は。狸より己の心配をしろ。本当に冷えて死んでしまうぞ」
 普段は貝のように無口な守矢にここまで言われてしまっては、雪は、大人しくしているしかなかった。
 黙って、おぶられたままになった。まるで子どもに返ったようで気恥ずかしくもあったが、雪はそのまま、守矢の体温に甘えた。
 暖かい、と雪は思った。
 寡黙であっても、本当は人一倍、守矢は家族を思っている。
 本当に、心配かけさせてごめんなさい。
 雪は、守矢にしがみついた。
「…。…あつい」
「…うん」
 分かっている、というように雪は微笑む。手を離そうとはしなかった。
 守矢の優しい背の拍動を、直に胸へと響かせるうち、雪は眠りに、落ちていった。
 雪が寝入ったことに気づいた守矢は、もう一度、雪を負い直した。
 決して彼女を起こしたりせぬよう、この上もなく、細心に。







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