初夏、川の流れはいよいよ清い。
その日、慨世の家屋敷では襖の入替が行われていた。
夏にのみ立てるよしずの障子を、もれなく襖と入れ替える。
慨世の養い子たち、全員が手伝った。健気にも忙しく、蔵と座敷を往復していく。
昼なお蔵は薄暗かった。どこに何があるのか分からない。
「あっ…」
守矢を助け、少女の手で障子を運んできた雪は、無造作に転がっていたなにがしかに足をひっかけた。そのまま床板に倒れこむ。
ごとんと不穏な音が続いた。守矢の瞳がはっと細くなる。
もともと、この屋敷には慨世が一人で住んでいた。男所帯の蔵屋敷、三人の子を引き取ったといって、そうそう整理がされるものではない。
積まれるままに積まれただけの、数え切れぬほどの品々が、積年の不精の仇とばかりに雪に向かって押し寄せた。
「おい」
かけた声は一声だけだが、明らかに狼狽し切って守矢は雪を救い出す。
「ご、ごめんなさい」
出てきた声はしっかりとしていた。幸いにして怪我はない。ほっとして、しかし色には出さず守矢は頷く。顧み、あたりのひどい有様に無言でそこらを片付け始めた。
彼は師父を敬慕しているが、ここだけはひそかに、真似たくはないと思っている。
「…?」
ふと、その手が止まる。何気なく拾った赤い紐が、漆塗りの箱に続いていた。金銀蒔絵の施された、げに雅やかなものである。
「きれい、それ、玉手箱みたい」
守矢の手のものに気付いて、雪が言う。
確かにそうとも言えるような、由緒あるもののようだった。いかにも富貴のひとの持ち物であるが、慨世のものとも思われない。彼は質実剛健として、身なりも質素をきわめていた。調度や持ち物に余計な気を使う人間ではない。
それではこれは誰のものか。
蓋が外れて、中身が飛び出ていた。
手に取ると、香のかおりが漂う。
それは、一通の文だった。おそらくは慨世の名が書かれているのだろうが、糸や柳を散らしたようなその筆は、流麗、風雅の色が強すぎて、読めない。
雪が表情を変え、何か言いたげな目で守矢を見てきた。
守矢は黙ったままでいる。彼女の言いたいことは分かっていた。
これは女性からの文ではないか。
守矢が持て余すそれからは、開きもせぬうちに深い香りが薫ってくる。
文の折り目の一角一角から、見も知らぬ送り手の真摯な心映えが、ひたひたと打つように伝わってくる。
ただならぬもの。
ただならぬもの。
師匠はこれを隠していた。
これほど思い入れの感じられるものを、まるで封じ込めでもするかのように。
開いては、いけない。
守矢がそっと目で示すのを、雪は黙って頷いた。
息のかかるのも恐れるようにして、再び物物の奥深くに沈める。
目的だった障子を片付け、襖を引き出し、そのまま、その場をあとにした。
座敷へ戻ると、養父が楓に肩車をしてやっていた。揃って桟に手をかけて、鴨居障子を外そうとしている。
慨世はもとから天井に手をつけられるような上背なので、楓のために、かえって膝を曲げてやっていた。
「おう、どうかしたか?物音がしたようだったが…」
振り返り、のどかに声をかけてくる。その顔は、他愛ないまでの一家庭人の表情だった。
「あ、あの、私がつまづいて、いろいろものが落ちてきて…」
訳も無く頬を赤らめながら雪が答える。
「そうか。まぁ、そうだろうな。わしもずぼらが過ぎるなぁ。あとで直しておこう。怪我はなかったか?」
「は、はい」
「なら良かった」
にこりと微笑む。慈愛に満ちた顔だった。
守矢も雪も、思わずその顔を凝視した。
「どうした?」
慨世は問うてくる。その無心な顔は振り返った楓と揃い、二面の観音のようになっている。
「いいえ」
守矢がさっと答えた。
「お騒がせして申し訳ありませんでした。…雪」
「は、はい」
促され、雪は頷く。
すぐに、次の障子へ移る。再び蔵へ運び出した。ものが溢れて中に入れないので、戸のそばに立てかけるようにした。
その間、雪は時々、師の顔を窺った。
右目に走る刀創。日焼けた肌。老いてもいないが、血気盛んということもない。おだやかな佇まいの、人品溢れる壮年の姿。
どうしても、さきほどの文を思い出してしまう。
流水のような女人の筆跡。細く儚い、優婉な文字。
想いがそのまま変化したような、深く漂う妙なる香り。
それを固く閉ざしていた、蒔絵箱。
この人は…。
雪は、思った。
いつか、恋をしたことがあったのだろうか?
ひそかに思う。守矢も同じことを考えているのは、時々かち合う視線で分かる。
あの書に何がつづられていたのか、二人はもう一度戻って確かめたいような気もした。
が、それは、できなかった。
どうしても、できなかった。
何事も無かったように黙々と動きながら、どのような人にも歴史はあるということを、噛み締めるようにして、二人は知ったのだった。
鳥がどこかで、鳴いている。