雪が降っている。
夜明け前、赤い欄干の橋の上。
夜中から振り続く雪は町の景色を白に染め上げ、なお飽かぬように降り積もる。全てが白く照り映える中、欄干の赤が疼くように光っていた。
橋の上に立つ御名方守矢は、その光景を、見つめるともなく見つめていた。
さくりと、雪を踏む音が落ちた。
朝とも呼べない刻限。人通りは無く、雪の上には守矢一人の足跡しか残っていない。そして足音の主は、その足跡を辿るようにしてゆっくりと守矢に近づいていく。
守矢は振り向きはしなかった。その足音が誰のものかは分かっていた。
狭い歩幅。細い足音。それだけで佳人と偲べる、楚々としたもの。
そして何より、気配で分かる。透き通った氷のように、冬のように凛としている。幼い頃から知っている…義妹の、雪。
足音が、徐々にゆるやかになっていく。
まるで何かを待つように。
そう。彼女は…雪は、待っているのだろう。
守矢を。
守矢は。
知っている。分かっている。
自分が。
ここで振り返り。
声をかけ。
その肩にでも手を置いて、「一緒に歩こう」と言ったなら、彼女はどこまでもついてくるはずだと。彼女はそれを待っているのだと。
だが、それはできない。
今更彼女に何をしてやれるというのだ。養父を眼前でむざと殺され、彼女と義弟を不幸の底へと叩き落とした…自分が。
義弟が…楓がすでに仇を討ち、師の無念は晴らされたのだとしても。その事実は永劫に変わることはない。
足音が止まった。
長い、時間。
そのように思えた。
泣いているのかもしれない──そう思いながら、守矢は動こうとはしなかった。
守矢は雪を知っている。
肉親の縁薄く生まれ育ち、幼い日から望みを多く持つ子ではなかった。人の心も敏く読み取り、人よりいつも先回りして懸命に働く。
だからこそ、雪から声をかけてくることはない。守矢が雪を知るように、雪も守矢を知っている。
守矢が決して振り返らないことを知っている。
それでも疾くに立ち去ろうとしないのは──。
さくりと──雪を、踏む音。
遠ざかっていく。足音が。川面を流るる花弁のように。再び戻ることもなく、最早音も届かぬところへ…。
そうだ。それでいいんだ。
守矢は目を閉じる。
おれのことは忘れてくれ。お前はお前の生を掴んで。
こんな不出来な兄のことなど忘れてしまえ。
忘れて、しまえ…。
今、御名方守矢は、吹雪の中に立ち尽くす。
眼前に広がる最果ての光景。枯れ果てた木々。注連縄の張られた巨大な岩。雪が厚く積もっている。
封印の地。人の立ち入りを拒む、厳しい霊威が満ちた場所。
守矢は、崩れるように膝をつく。己の体を支えきれずに手をついた。その手にも静かに雪は落ちる。すぐに溶け、消えた。守矢の瞳が細かに震える。
ここで。
彼女は。
命を使った。
それは彼女にしかできないことだった。
封印の巫女。地獄門の封印の鍵。
彼女と、門を守護する四神の人々の守りによって、自分はここに立っていられる。
秩序は保たれた。
世界は、救われた。
…だが。
彼女は?おれの妹は?
巫女は戻ってこなかった。あの日を境にうつし世から消えてしまった。
こんなことが。
あの時声をかけなかったのは、こんな光景を望んでのことではなかった。
幸せになってほしかった。
他の幸せを見つけてほしかったから。
情なきように接したのもそれを願ってのことだったのに。
こんなことになるなんて。
守矢は白雪に爪を立てる。握り締めた拳の中で、冷たいものはたやすく砕けた。
おれは。
おれは…。
どうしてあの時振り向いてやらなかった。どうして彼女ために動いてやらなかった。
どうして…。
ああ…あの時…こんなことになるということを、知っていたのだったら…!!
雪は降る。あの日のように。
ただ香を残し過ぎ去った、あの日のように。ただ、静かに。
音も無く降る永遠の歌。時軸の香。