18 「時軸の香り」






 雪が降っている。
 夜明け前、赤い欄干の橋の上。
 夜中から振り続く雪は町の景色を白に染め上げ、なお飽かぬように降り積もる。全てが白く照り映える中、欄干の赤が疼くように光っていた。
 橋の上に立つ御名方守矢は、その光景を、見つめるともなく見つめていた。
 さくりと、雪を踏む音が落ちた。
 朝とも呼べない刻限。人通りは無く、雪の上には守矢一人の足跡しか残っていない。そして足音の主は、その足跡を辿るようにしてゆっくりと守矢に近づいていく。
 守矢は振り向きはしなかった。その足音が誰のものかは分かっていた。
 狭い歩幅。細い足音。それだけで佳人と偲べる、楚々としたもの。
 そして何より、気配で分かる。透き通った氷のように、冬のように凛としている。幼い頃から知っている…義妹の、雪。
 足音が、徐々にゆるやかになっていく。
 まるで何かを待つように。
 そう。彼女は…雪は、待っているのだろう。
 守矢を。
 守矢は。
 知っている。分かっている。
 自分が。
 ここで振り返り。
 声をかけ。
 その肩にでも手を置いて、「一緒に歩こう」と言ったなら、彼女はどこまでもついてくるはずだと。彼女はそれを待っているのだと。
 だが、それはできない。
 今更彼女に何をしてやれるというのだ。養父を眼前でむざと殺され、彼女と義弟を不幸の底へと叩き落とした…自分が。
 義弟が…楓がすでに仇を討ち、師の無念は晴らされたのだとしても。その事実は永劫に変わることはない。
 足音が止まった。
 長い、時間。
 そのように思えた。
 泣いているのかもしれない──そう思いながら、守矢は動こうとはしなかった。
 守矢は雪を知っている。
 肉親の縁薄く生まれ育ち、幼い日から望みを多く持つ子ではなかった。人の心も敏く読み取り、人よりいつも先回りして懸命に働く。
 だからこそ、雪から声をかけてくることはない。守矢が雪を知るように、雪も守矢を知っている。
 守矢が決して振り返らないことを知っている。
 それでも疾くに立ち去ろうとしないのは──。
 さくりと──雪を、踏む音。
 遠ざかっていく。足音が。川面を流るる花弁のように。再び戻ることもなく、最早音も届かぬところへ…。
 そうだ。それでいいんだ。
 守矢は目を閉じる。
 おれのことは忘れてくれ。お前はお前の生を掴んで。
 こんな不出来な兄のことなど忘れてしまえ。

 忘れて、しまえ…。





 今、御名方守矢は、吹雪の中に立ち尽くす。
 眼前に広がる最果ての光景。枯れ果てた木々。注連縄の張られた巨大な岩。雪が厚く積もっている。
 封印の地。人の立ち入りを拒む、厳しい霊威が満ちた場所。
 守矢は、崩れるように膝をつく。己の体を支えきれずに手をついた。その手にも静かに雪は落ちる。すぐに溶け、消えた。守矢の瞳が細かに震える。

 ここで。
 彼女は。
 命を使った。

 それは彼女にしかできないことだった。
 封印の巫女。地獄門の封印の鍵。
 彼女と、門を守護する四神の人々の守りによって、自分はここに立っていられる。
 秩序は保たれた。
 世界は、救われた。
 …だが。
 彼女は?おれの妹は?
 巫女は戻ってこなかった。あの日を境にうつし世から消えてしまった。
 こんなことが。
 あの時声をかけなかったのは、こんな光景を望んでのことではなかった。
 幸せになってほしかった。
 他の幸せを見つけてほしかったから。
 情なきように接したのもそれを願ってのことだったのに。
 こんなことになるなんて。
 守矢は白雪に爪を立てる。握り締めた拳の中で、冷たいものはたやすく砕けた。
 おれは。
 おれは…。
 どうしてあの時振り向いてやらなかった。どうして彼女ために動いてやらなかった。
 どうして…。
 ああ…あの時…こんなことになるということを、知っていたのだったら…!!

 雪は降る。あの日のように。
 ただ香を残し過ぎ去った、あの日のように。ただ、静かに。

 音も無く降る永遠の歌。時軸の香。







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