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21 「翼さえ残れば」






 濃く、白く。手で割って分けることができるのではないかと思えるような、濃密な霧。


 己の足元を確かめるのがやっとの、そんな霧を初めて楓は経験した。
 帯も袖も、すっかりと山の吐息に悩まされ、重く湿ってしまっている。
 絞れば水気が出るのではないかと楓は試みかけ、そばに、師匠の姿が無いのに気づいた。
「お師さん!」
 思わず呼んだ。
「おお、こっちだ、こっちだ、楓」
 がささと草を分ける音と共に、さびある声が返ってくる。
 霧のせいでうっすらとしか師匠の姿は見えなかったが、確かに前を歩いている。楓はその低く柔らかな声に安堵して、師匠の影を追って歩いた。
「お師さん」
 不安なので呼びかける。
「どうした」
 声はすぐに返ってきた。
「すごい霧だね」
「そうだな」
 山を歩いていた帰りだった。突然の激しい雨に打たれ、大樹の下で暫く休んだ。日はほどなくして顔を出したが、それに伴うようにして、うようよと霧が涌いて出たのだ。
 まるで雲の中だった。何一つ輪郭が確かには見えない。
「お師さん」
 胸中の不安を払うため、大きな存在の声を頼った。
「どうした」
 やはり、返事は早い。
「何も見えないね、お師さん」
「そうだな」
「僕はじめてだよ、こんなに何も見えないの、こういうこともあるんだねぇ…」
「そうか。しかし、こんなことはこの先きっと度々あるぞ」
「そうだよね」
「霧の中、或いは闇の中。何も見えず、何も頼れぬ。己の足で歩いていかねばならぬことが…」
「お師さん?…痛っ」
 楓は腕を庇った。何か鋭いものに手をやられた。
 手を上げてみると、赤い筋が走っている。恐る恐るあたりを探る。何かのとげに、指が触れた。
「お師さん、いばらだ」
 相変わらず影ぐらいものしか見えないが、どうやら周りに、刺ある木々が隠れているようだ。楓は足を止めた。前を歩いているはずの師匠は大丈夫だろうか。
「切っちゃったよ。お師さん、怪我しなかった?」
 傷をさすり、楓は尋ねた。
 返事はなかった。
「…お師さん?」
 楓はもう一度呼びかけた。
「お師さん!」
 大声で叫んだ。
「おお、こっちだ、こっちだ、楓」
 先ほどと同じ声が届く。しかし、遠い。
「お師さん、どこ、どこにいるの!」
 白の闇に向かって楓は喚く。
「こっちだ。楓。お前の先だ」
「先って…」
 楓は身を竦ませる。そちらには、今楓を傷つけた、いばらの茂みが待つではないか。迂回しようにも、霧があって道が見えない。
「お師さん、そっちはやだよ、帰ってきてよ!」
 叫んでも、返事はなかった。
「お師さん!」
 変わらず、無音。
「お師さ…」
 楓は呆然とした。
 周りは濃霧。いばらの茂み。
 どうして師匠は進んでいったのか?わざわざ、危険ないばらのほうを向いて。
 この道を乗り越えてこいというのか。それとも自分を置いていくのか?
 まさか。
「お師さん!」
 再び楓は叫んだが、結果は同じだった。
 何も、返ってこない。
「…」
 霧の果てを楓は見つめる。
 置いていかれるのか?このまま?
 楓は足踏みをした。
 こんな霧の中にたった一人で。
 待てば霧は晴れるかもしれない。しかし、師匠は行ってしまうかもしれない…。
 暫くの逡巡。
 楓は、強く駆け出した。
 案の定、茨の腕が絡んできて、ひどく楓の痛覚を乱したが、それでも楓は師父を追った。
 棘や痛みなど何でもなかった。
 このまま師匠に見放されるのではないかと、そのことのほうが楓には遥かに恐ろしかったのだ。



 何も考えられず、ただただまろぶように山道を駆けた。
 ふと、つんと冷気が頬に触れたかと思うと、嘘のように、霧が晴れた。
「あ…」
 突然に目隠しを取り払われて、楓は自失とした。
「楓」
 楓は顔を上げた。
 慨世が、何くわぬふうで大樹の下に憩っている。
「お師さ…」
 呼吸も整えないまま、楓は呟く。
「喉が渇いただろう。少し休もう」
 慨世は竹筒を携えていた。楓はふらふらと師のそばへ寄る。
 根元に腰掛ける師匠の前に、礼儀も忘れてどさりと座った。
 慨世は竹筒を差し出してくる。汲み立ての清水が光っていた。
 差し出されるまま、楓は傷だらけになった手で、それを受け取った。



 冷たい水が体中に沁み通り、楓は息を吹き返したように、大きく呼吸をした。
 そして、己の姿に気付く。
 衣服がひどく綻んでいた。棘に掻かれた無数の傷も、血を流しているものが多かった。
 しかし楓は、何でもないことのように、己の傷を手でさすった。
 それだけでぴたりと血は止まる。傷も、見る間に消えていく。
 楓はもっと幼い頃から、こういうことができたのだった。ちょっとした打ち身や切り傷が、見るうちに治ってしまう自分の姿を、兄も姉も、不思議がって見てきたものだ。
 しかし慨世は、その様子を眼前にしても別段驚いたふうでもなく、楓の様子を見つめている。
 ただ、そのたった一つの瞳には、何かを悲しみでもするかのような深い光が、満ちていた。
「…お師さん?」
 気になる痛みも消えた頃、師匠の目に気付いた楓は、怪訝そうに師匠に尋ねた。
「ああ、何でもない」
 慨世は首を振ってみせた。
「楓」
 落ち着いた後、律と地面に正座する養い子に、慨世は言った。
「楓、お前には血のつながった父母がいない」
「はい」
 今更のような師匠の言葉ではあったが、それでも、楓は凛と返事をした。
「しかし、悲しむことは何も無いのだ。この限りない天地、それこそがお前を教える父と母。厳しくもあり、優しくもある。天地は、いつも大らかな手でお前を包み、お前の命を育んでくれるだろう」
「はい」
「辛いことがあろうとも、逃げてはいけない。それは、より強くお前を鍛えるための天よりの試練だ。それを乗り越えられた時、お前は、何をも護れる強い男になれるだろう」
 一語も逃さぬような顔で、楓は師匠の言葉を聞き入る。
「よく、茨の道にも泣かなかった」
 慨世は柔らかな表情になっている。
「何事も天命として立ち向かうのだ、楓。わしがいなくなった後でもな…」
 師匠の言葉の不吉な響きを聞きつけ、楓は顔を曇らせた。
「…お師さん?いなくなるって…どこかへ行ってしまうの?」
 慨世は首を横に振る。
「生命あるもの必ず死す。それがいつかはわしも知らぬが、いつか、お前や守矢たちの前から消えねばならぬ時が必ずやってくるのだ」
 楓は拳を握り締めた。
「お師さん、どうしてそんなこと言うんだよ。嫌だよ、そんなこと言わないでよ」
 目鼻が赤くなっている。喉がごつごつと痛み出し、苦しくなって楓は口を開けた。目の前の師匠がいなくなる。会えなくなる?そんなことを考えるだけで、楓は足元が崩れていくような、不明の恐怖を感じてしまう。そんなことは考えたくない。
「ああ、悪かった、楓」
 瞳いっぱいに湯を張ったようになった養い子に、慨世は手を伸ばし、その頭を撫でた。
「楓、しかし、お前は優しい子だ。いつまでもそのようであってくれれば、わしは嬉しい。如何なる時でも己の道を信じて、強く、優しく生きてくれ…」
 楓は俯く。慨世の手こそが優しかった。息ができない。楓は、口を開いた。
 わっと、泣き出す。どうして涙が出てくるのか分からない。だが、師匠の言葉が心細く、またどこまでも悲しいもののように思え、楓は、声を上げて泣き続けた。張り裂けるような胸の痛みに任せるままに、出せる限りの大声で、泣き続けた。







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