浪漫人に30のお題−29「最後の鍵 」


29 「最後の鍵」






 立ち枯れた木が悄然と佇む、荒れ果てた丘を登り切った。
 風が、冷たい。
 息をつこうとした楓は、ふと人影に気が付いた。
 乾いた大地に、一人の男が立っている。
 白い外套。鮮やかな朱鞘の、反りの無い刀。
 長い前髪から覗く瞳は泰然として落ち着いている。
 視線がぶつかった時、楓は、歯から声を軋らせるようにして呟いた。
「嘉神…」
 己の刀、疾風丸を強く握る。
「慎之介」
 四神の一人、朱雀の男。楓とつとめを同じくする者。
 その男はあくまで静かな瞳で、楓を見下ろす。


 楓は東を。
 嘉神は南を。
 立ち止まって、二人は丘に佇む。
 時折、楓は嘉神を気にする目を向ける。
 嘉神慎之介。
 楓の心がざわざわと騒ぐ。
 今、楓と共に居るこの男こそが、真に慨世を斬った男なのだ。
 慨世を斬ったのは、楓が思っていたように義兄である御名方守矢の所業ではなかった。
 この嘉神こそが、四神の一人でありながら地獄門を開こうという許されざる野望を抱き、その護りの一角を殺ぐために…前の青龍であった慨世を斬ったのだ。
 楓がその真相を知ったのは半年前。あくまで口を閉ざす守矢に代わって、義姉の雪が教えてくれた。
 そして楓は、新しく目覚めた青龍として、四神の一人として、嘉神を倒したのだ。
 そのまま嘉神は自ら開いた地獄門へと身を投じ、楓の目の前で命を断ったはずであったが…。
「…生きていたのか」
 絞るように楓は言った。師が受けた無念と苦しみは先にすでに嘉神に下したつもりでいたが、それでも、楓は平静でいることができない。
「業の深さ故」
 嘉神の言葉は短かった。
「貴様は…」
 今度は、嘉神が口を開く。
「翁より巫女を探すよう命ぜられていたのではないのか。義姉と動いていたとも聞いていたが…姉はどうしたのだ」
「知らない」
「知らない?」
 むくつけになった返答をまともに問い返され、楓は口を噤んだ。
「…子どもじゃない。それぞれの思い当たりがあるはずなんだ」
 確かに雪は、去る日、巫女の手がかりを玄武の翁より聞いた夜に姿を消した。おそらく何か思い当たりがあってのことだろうと楓は思っている。
「ならば貴様は?」
「僕は青龍だ」
 楓は言い放った。
「巫女を探すのも大事だと思ったが…門の瘴気が黙っていられないほど濃くなり過ぎている。嫌でもここへ来なければ、と思わされた」
「四神として」
「そうだ。それはお前も同じのはず」
「確かに…黙し難きものがある。これ以上あの門を放ってはおけぬ。他の二人もおそらくは同じ思いでいるだろう」
「他の二人…翁と示源さんか。皆あの場所を目指す、と」
「四神の心のまま、おそらくは。封印の時が近づいているのだ」
「では、後に残るのは…」
 楓は呟いた。嘉神は頷く。


「封印の巫女」
「最後の鍵」


「封印の儀式とは…」
 楓は、尋ねた。
「どういったものなんだ?翁も詳しいことは知らなかった」
 嘉神は、かぶりを振った。
「太古のことだ。誰も知らないことなのだ」
「巫女という人のことも?」
「誰にも分からぬ。だが封印の時は必ず訪れる。必ず、巫女もそこにいる」
「何故そう言い切れる」
「明白だ。我々がここにやってきた。それと同じこと」
「…」
 楓は、沈思した。
 四神が揃う。巫女が居る。それが儀式に必要な力。
 暴かれた地獄門を再び封印する。
 生死の狭間を分かつはずのあの門が開いたままでは、命の秩序が狂ってしまう。それは混沌と言う他無い。
「だが」
 楓は疑問を口に出した。
「どうしてここに来たんだ。一度は門を開いたお前が…」
 言っても栓の無いこととは知っていた。責めるつもりもなかった。ただ、理解できなかったのだ。
 同門を斬り、友を封じ、老いた師匠に爪牙を向けた。そこまでして暴いた地獄門を、何故、今またこの男は封印するためにやってきたのか。
 楓の言葉に嘉神は暫く沈黙していた。
 が、
「先ほど貴様は私に、生きていたのか、と言ったが…」
 首を横に振る。
「…生きていたのではない。生かされたのだ。私は」
「何…?」
「私は貴様に敗れた後、地獄門に身を投じた。本当はそこで死ぬはずだったのだ。それでもこうして、死なずに永らえている…それはおそらく、この時のために生かされたのだ。最も犯さざるべき大罪を犯した私に、自裁など許されよう訳がない。朱雀として、四神としての使命を遂げる。再びあの門の前に立つ。それが私に許されている、たった一つの道だ」
 淡々として語る嘉神に、それでも悲愴なものを感じ、楓は地面に目を落とした。
 この男も、苦しんだのだ。
 この男は確かに多くの罪を犯したが、それも地獄門の向こうの穢れを目にしてしまったからだと、楓は翁より聞いたことがある。誰よりも己の使命に忠実な、純粋な人間だったのだ。だからこそ、妄執に喘ぐ人の醜さが許せなかったのだろう。それが人の本質だと思ってしまった。
 この男は確かに師匠を殺した、憎い仇だ。
 だが、同時に、必死に再生を果たそうとしている、一人の生身の男でもある。
 罪を許すことはできない。だが、この男は、許されるべきなのではないかと、楓は思った。
「楓」
 嘉神の声に、楓は顔を上げる。
「貴様は…?どうなのだ、楓。私のことよりも貴様自身、己の心に確かなものはあるのか?」
「…」
「この先に迷いは許されぬ。つとめは必ず果たさねばならぬ。猶予は無い。我々がやらねばならぬのだ」
「…分かっている。僕は」
 顔を上げる。強く前を見つめている。
「僕の知る人たちに平和に暮らしてもらいたいだけだ。これまで多くの人たちに出会ってきた。その殆どの人たちが、四神のことや地獄門のことなど何も知らないで生きている…自分の生を、ただ精一杯に生きている。生きているんだ。善も悪も無い。それは人が決めていくこと。滅んでほしいわけがない」
 楓は、嘉神を見る。
「僕にはそれだけだ」
 楓の言葉に、嘉神は頷くように目線を下げた。
「…貴様は、シンプルでいいな」
「?」
 聞き慣れない言葉の意味を楓は推量しかねた。聞き返そうとして、驚いた。この男が笑っている。
「それもよかろう。いや…そういうことであるのだろう、人が人を信じることとは…」
「…」
 すうっと、楓の髪が金色の光を帯びていく。
「…俺は師匠に、そのことが大事と学んだだけだよ」
 足を踏み出す。
「幸せになりたくてみんな生きているんだ」
 歩き出す楓に、嘉神も続く。
「護るんだ。それが俺たち、四神のつとめ」
 この先で未来が震えている。親しい人らの生きるうつし世。自分たちで護っていく。
 大地を踏みしめた楓の頬に、ふと、ひとすじの風が触れていった。
 その風に呼び起こされたように、楓は唐突に姉のことを思い出した。
 そうだ。姉さん。
 結局、会えなかった。姉さんは今、どこでどうしているのだろうか…。
 茫漠として姉を思う楓の脇を、冷たい風がすり抜けていった。






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