やがて河原に辿りついた。夕暮れ近いということで、散歩する人々の姿が見かけられる。西の空は雲のベールに覆われている。今日は夕陽は望めそうにない。
京とユキは、傾斜の芝生に腰掛けた。
場所を変えたからと言って、簡単に会話が生まれるわけでもなかった。
むしろ、二人きりで並んで座っていることで、無言であることへの気まずさがより際立つようでもある。
時だけが流れ、太陽の光も様子を変え出す。人影も徐々に減っていった。
「…なぁ」
川のきらめきを見つめながら、京はユキに呼びかけた。
「…なあに?」
小さな声で、俯いていたままのユキが答える。
これから話すことへの重さを思い、京は一瞬、ためらったが、
「俺、お前に何かしちまったのか?」
素直な疑問を、口に乗せた。
「え?」
驚いてユキは京を見る。
「何でまっすぐに俺のほう見ねえんだよ?いや、たまに見てるみてえだけどすぐ目ぇ逸らすし。今までそんなことなかっただろ?俺、何か悪いことしたのか?」
未練がましいと思いながら、京は食い下がるようにして聞いてしまった。やはりこのユキに嫌われてしまったなどと、本当には思いたくないのだ。
「…そんな、そんなことないわよ」
蚊の鳴くようにユキの声は細かった。はっきりとしない彼女の態度に、京は頭をかきむしった。
「ああくそ、そんじゃ一体なんだってんだよ?何かあったのか?話せよ」
「そ、そんな」
ユキは顔ごと下を向く。何かあったか、と言われてユキが思い出すのは、陸上部の先輩たちとの会話だった。京が好きだと意識してしまった瞬間だった。ユキは一人でまた頬を赤くさせてしまったが、顔を落としそうなほどに深く俯いているせいで、それは彼女より上背のある京からは見えなかった。
一向に口を開こうとしないユキに、京はひと呼吸、間を置いた。
「…じゃ、念のため、聞いちまうけどよ…俺の噂のせいでそうなってるんじゃ、ねえんだよな?」
絞り出すように京は言う。そんなわけはないと自ら信じながらも、万に一つの可能性も無いとは決して言い切れないそれを、思わず京は口にしてしまった。
「え?」
ユキは顔を上げた。まともに視線が合う。ユキは初めて、京の瞳が異様な光を放っているのに気が付いた。浮ついた己の動揺を忘れ、ユキは京に見入った。
「部活…いいやクラスでもか、とにかく、俺の変な噂とか聞くだろ?それでお前、そんなふうになってるのか?」
ユキはきょとんとして、ユキは京の動く口を見つめていた。
「どうなんだよ」
強いて京は返答を求めてくる。
「…違う、わ?そんなの」
ユキは慎重に言葉を選んだ。京が何を気にしているのかは知らない。しかし、生半可な答えを許してくれるような京の雰囲気ではなかった。
「そっか」
それだけを言って、京は、安心したように、しかし、微笑みもせずに頷いた。緊張した表情でいる。今度はユキが怪訝に思う。どうしてこんな顔をするのだろう。
「京。京のほうこそ、どうしたの?今までそんなこと聞いてこなかったじゃない。念のためなんて、どういうこと…?」
「いや…」
京は黙りかけ、また、顔を上げる。
「お前のほうこそ、だろ。何でそんな態度取ってんのか、こっちはちっとも分からねえからだよ。そんな態度、俺のせいじゃねえなら、ガッコで流れてるらしい噂のせいかなって思ったからさ」
「そんな、京」
思わずユキは反駁しかけた。噂などと。自分がそんないい加減なもので人を判断する人間だと、そんなふうに京は思っていたのか。
眉を吊り上げかけたユキの表情の変化を読み取ったのか、京はすぐに否定する。
「分かってるよ、お前がそんな奴じゃねえってことは。悪かった。悪かった、けど…お前は、本当に噂は、気にしてねえのか?」
「気にしてないって?」
「だから俺の噂だよ。留年してるってのや、炎…を、出せるとか。どう考えたっておかしい奴だろ?聞いたことあるってのに、何でお前は」
「京、何を言ってるのよ」
ユキは声を強めた。
「噂なんて勝手に広がるものじゃない。目の前にあなたがいるのに、どうしてそんなのを気にすることがあるのよ?」
抗弁のように、しかし、何でもないことのようにユキは言った。それは、ユキの本心以外の何者でもない。
「…お前…」
放心したように、京はユキを見つめた。その表情で、ユキははっとしたように我に返った。
「ご、ごめんなさい京!」
顔を赤くして俯いた。京に不審を抱かせたのは、他でもない、さっきまでの、京が言う通りのおかしな自分の態度だったではないか。恥ずかしくて、とても彼の顔を見ることができなかった。
そう思うと同時に、ユキは京に対する恋心の認識をまた強めてしまい、我知らず頬を赤くした。
「いや…」
呟いて京は、ユキとは反対の方向を向いた。そっぽを向き、ユキに表情を見せないようにする。
「…京?」
心配になって、ユキは呼びかけた。自分は何か、違ったことを言ってしまったのだろうか。
その心を見透かしたように、京は顔を背けたまま、ユキに向かって片手をひらひらと振った。
「いや、あの…悪ぃ、誤解すんじゃねえぞ」
照れくさそうな声が返ってくる。まるで少女のように、頬に手のひらを当てている。
「その…さ、俺今…感動してんだ」
思いがけない京の言葉に、ユキは瞳を丸くする。
京はきつく目を閉じている。少々、彼女を混乱させてしまったようだが、とにかく、自分は間違っていなかったのだ。やはり彼女は聡明な子だった。自分が信じていた通りの、子だった。
ユキの視線は感じていた。自分を心配してくれているのだろう。京は、顔を上げた。
「悪ぃ。変なこと言わせちまってよ」
そう、言った。強い含羞を隠せないまま、不器用に笑う。
その笑顔を見て、ユキは、目を和らげさせた。その笑顔は、普段の見慣れた京のものだ。
「おかしな…人ね?」
ユキは微笑んだ。
「…かもな?」
京はまだ照れくさそうにしながら、そう、答える。
それから、小さな氷が水に溶けたように柔らかに、二人で笑った。
空を、明滅する光が横切っていく、見上げてみれば、陽は雲へと没していく最中で、あたりは薄闇に包まれつつあった。藍色に落ちる東の空には、小さな星が瞬きつつある。光は、飛行機の灯りだった。
ユキは光の行方を見送っていたが、京は、ユキを見ていた。まだ、ユキに言わねばならないことがあった。それを伝えない限りには、本当にユキとは向き合えない。
「…ユキ、こっち向いてくんねえか」
「?」
ユキは言われるまま、無心に京へ膝を向けた。透明な瞳だった。京は思わず視線を落とした。それでも、
「…ユキ…見せてやろうか?いや、お前に見てほしい」
「…?」
「炎、さ。俺の出せる」
京ははっきりと言った。
「噂が本当だってことを知ってほしいんじゃない。俺がこういうことができるっていうことを、お前に知っていてほしいんだ」
宣告するように京は言う。
「京…?」
京が何を始めようとしているのか分からず、ユキは京を見つめるしかなかった。
そのユキの前で、京は両手を握り、次に花の開くような仕草で指を広げてみせた。
「見てろよ」
その声が合図だったかのように、突如京の手が目も眩む火炎に包まれる。
「京!?」
「俺の炎」
驚愕するユキに、京は平然と言い放った。
轟々と熱と光を発する、真紅の炎。
紛れもなく京から生まれている。
炎は、京の手を蝋燭の芯のようにして燃えながら、しかも決して、彼を焼くということがない。
「俺の家、草薙家の血を持つ人間はこういうことができるんだ」
赤い光を受けながら、京は言う。
「1800年も昔の話だ。日本神話に、スサノオノミコトのヤマタノオロチ退治の話があるだろ?あれを退治したのはスサノオじゃなくて、俺の先祖が、この炎を使ってオロチを払ったってのが本当なんだ。それからずっと俺の家は、この、炎を操る武術を伝えてきてる。草薙の家に生まれた人間にしかできねえこと、俺の、誇り」
ゆらめく炎を京は見つめる。
「…でもよ、フツーに考えたら、こんなことができる俺の家は、どう考えたってまともじゃねえ。お前にも…噂にはなっちまってるみてえだけど、できれば見せたくねえって思ってた。だけどそんなふうに、ずっとコレを見せねえでいるってのも嘘吐き続けてるみてえで嫌だしさ」
ユキは炎を見つめている。赤と黒との陰影が、彼女の顔を隈取っていた。
「こういうことができちまうのが、俺だ。家だってハンパじゃなくややこしい」
京はきつく目を閉じる。いつかは来る時だったのだ。最も考えたくなかった場面。しかし、この炎を見せてしまった以上は、これだけは、言わなければならなかった。
「…変だろ?嫌ってくれても、構わねえんだぜ」
口なんか裂けろと京は思った。一番言いたくなかったことを言ってしまったのだ。
ユキに話したことは全てが真実だった。京が生まれた家、草薙家の起源は神代の時まで遡る。京は物心ついた時から、いや、おそらくはそれ以前から…草薙の家に生まれた男として、初代から綿々と受け継がれてきた炎を御する古武術を、父親から厳しく教え込まれてきた。それは指導や教育といった生ぬるい言葉では表せない、殆ど本能に叩き込むような修練だった。
炎と武術のことだけではない、草薙家を取り巻く宿縁も少なからず存在する。例えば、八神家。古くに草薙家から袂を分かった、草薙家とは犬猿の間柄にある一族。一体過去に何があったのか京は知らないし、興味もないが…現代の八神家の男、八神庵は、京に対して生命を狙うほどの深い憎悪を抱いている。彼との間に遺恨を抱くような事があった訳ではない。顔を合わせたのも、記憶に残っている限りでは前回のKOFが初めてだ。それなのに庵は京を憎んでいる。それが過去の血に縛られているものだとすれば、京は庵も、八神家も、馬鹿馬鹿しいように思えてくる。
だが、そんな因縁が絡み付いているのが、草薙家だった。
そんな家に、今、自分は目の前の少女を巻き込もうとしている。自分が思いを伝えるということは、そういうことになってしまう。それでもユキを想う気持ちは止められなかった。そんなことが出来るなら、最初からここまで迷ったりしない。
炎は見せた。後はもう、彼女次第だ。拒まれれば京は自分がひどく打ちのめされるのは分かっているが、それでもこの先、彼女に辛い選択を強い続けるよりは遥かにマシだと京は思う。
こんな思いを抱くのは、後にも先にも彼女だけだと、心の底から、そう思う。
「…」
ユキは黙って、京を見ていた。
「…京」
静かに、言う。
「変なんかじゃないよ」
京の目を見て、はっきりと言った。
「その炎も、とても綺麗。それに…」
言葉を続ける。
「嫌いなんかしない。私は…あなたのそばにいるわ。いつだってよ。何も関係ないの。…京」
自然に、そう言った。思っていたことが言葉となって零れてきたかのように。
京が顔を向けると、ユキは、自らの言葉を肯定するように強く頷いた。瞳の光は、明瞭な意思の存在を伝えている。
「お前…」
京は呟く。
ユキはかすかに笑った。ユキには京の語ることは、漠然としか分からない。確かに炎の現象は、一般的に見れば特殊としか言えないことだろう。けれど、それはそれだけの話だとユキは思う。ユキが慕う京の姿に、炎は何の影も落とさない。
むしろ、暖かな火の色に照らし出されていた京の横顔は、ユキにはとても自然なように見えていた。そうあることが当たり前であるように堂々として、荘厳な美しささえ、ユキには感じられた。
京は手に燃える炎を、宙に向けてそっと散らした。すぐに消えゆく火の粉の行方を目で追いながら、喉に詰まる痛みを、どうにか堪える。ユキの笑顔は澄み切っている。自分にだけ向けられた笑顔。一途な思い。
「…そう、なのか?」
やっと、それだけを言う。
「うん」
穏やかに、ユキはそれだけを答える。
「そっ…か」
京は頷き、空を見上げた。今が黄昏時で助かったと思っている。これ以上彼女の心に触れると、涙を零してしまうかもしれない。
「さっきまでもね…京、おかしな態度しちゃったこと、自分がそう思ってたことに自分で気づいて…それに自分でびっくりしちゃって、恥ずかしくって、京の目をまともに見ることができなくて…。…ごめんね」
「ああ」
京は頷いた。もう、そんなことは、とても小さいことのように思えている。ユキも頷き、下を向く。
それから京は黙り込み、ユキも一言も口をきかなかった。自分たちが相手に伝えた言葉の意味を、一つ一つ胸の内で反芻し、間違いは無かったことを確かめている。その重みを噛み締めるにつれ、心に秘していた大切な想いをとうとう相手に伝えてしまったことへの恥じらいが、今更のように二人の頬に朱色となって昇ってきた。
「…」
「…」
頬も、額も、すっかりと紅色に染めてしまった二人は、それからは群青の空を眺めたり、自分の爪先を見つめたりするばかりで、お互いの目を見ようともしない。
夕は去り、夜がその手を広げ始めた。星の光が数を増す。
風も、冷たくなってきた。
「…帰る、か?」
ひっそりと、京は言う。
「うん」
ユキは頷いた。京は息を吸い込み、思い切ったように立ち上がった。
「明日も、その先も」
そう言って、右手をユキに差し出す。その目はまっすぐに、ユキを見ていた。
ひたむきなその目を受け止めて、ユキは、そっとその手を取った。陽だまりのように暖かい。しっかりと、手の中に握った。
「…うん!」
笑った。輝くような笑顔だった。この笑顔を傍で見られる喜びが、京の胸に込み上げる。微笑し、京はその手を引いた。ユキの手はか細く、柔らかい。花のように弱々しい手ではあったが、その手に込められた力は、決してそうではなかった。
京はもう一度、ユキの存在を確かめるように、ユキの手を強く握った。
包み込まれるようなその温もりに、ユキの胸に、例えようもない安息が広がる。
どうか。
強く、願った。
こんなふうに一緒にいられる時間が、いつまでも長くありますように。
京と共に、空を見上げた。
ああ、どんなときでも高くあり、どこまでも続いていくかのような。
この麗しい、空の下で。
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