白い月が、淡く地上を照らしている。
ユキの身体を胸に抱いて、京は瞳を閉じていた。
仄かな香りがユキの髪から漂ってくる。柔らかな匂い。安らぎが胸に広がっていく。
無意識のうちにユキの髪に頬を寄せ、その背を撫でようとして、京は、今の姿勢に気が付いた。
腕の中にユキがいる。
ユキを、抱きしめている。
かっと、京の頬が紅潮する。すべてが夢中で気が付かなかった。
ユキは、京に体を預けたまま動かない。まるで、京の拍動、そして温度に寄り添っているかのように。京は己の血が全身を熱く駆け巡っていくのを感じた。塞き上げたものを堪え切れずに、深い、溜息を吐き出す。
「…?」
髪にかかった熱い吐息に、ユキは顔を上げてくる。京の瞳とまともに出会った。
「…あ」
ユキも、京との今までになかった近い距離に気付いたようで、小さな声を上げた。強い羞恥を瞳に浮かべ、京の腕から逃れようと、もがいた。京の鼓動が加速していく。静かに、ユキへと顔を寄せていく。京が何をするつもりなのか感じ取り、ユキは息を詰めた。恥じらいのあまりに顔を逸らすが、京はすぐに両手を伸ばしてそれを阻止した。
「…京っ…!」
心の準備ができないまま、制止を求めるユキの悲鳴を、京は聞かなかった。
唇を、ユキの唇に押し当てる。
ぎこちない、羽の触れるようなかすかさで。
「…」
崩れ落ちそうなユキの身体を、助け上げるように京は抱いた。ユキはみるみる、震える瞳に涙の粒を溜め込んでいく。許しを求めるように、京はありったけの愛しさを込めきつくユキを抱きしめた。
どれほどそうしていたか…ユキは、京の腕の中で身じろぎをした。京はどきりとした。苦しかったのかもしれないと、すぐに腕の力を緩める。
自由になった両腕を、しかしユキはおずおずと、京の背中へ回してきた。そのままきゅうっと、か弱い力で抱きしめてくる。それは許し。京だけに与える。頭からつま先まで一つに締め上げられたような感覚に、京は、目が眩んだ。
透き通った、風が吹いた。
「あっ…」
ふと、ユキが驚いたような声を上げる。京に巻かれた白い包帯が目に入ったようだった。慌てて手を離し、京に触れないようにする。
「京、ご、ごめん、ケガしてるのに…」
「…ん?なんだ、そんなの気にすんなよ」
京は構わずユキを抱き寄せる。
「そんなっ…」
ユキは泣きそうな目になった。京は軽く息をつく。
「…おい、そんな顔すんなよ。もう大丈夫なんだって。…それとも……俺から離れたいのかよ?」
決してそうではないはずと思いながら、京は聞いた。そして京の思った通りに、ユキは硬直してしまう。京は笑った。
「…だろ?だったらいいじゃねえか」
「…そ、そんな。でもっ」
「でも?でもってなんだよ?」
わざと近く、唇をユキの耳元に寄せていった。ユキは小さくなっていく。
「京…ばかっ。そんなにこっち来ないで…!は…恥ずかしいっ」
赤い顔のままユキは俯く。ユキを困らせているとは知りながらも、京は自分を止めることはできなかった。自分の言葉に容易く翻弄されるユキが、愛しくて愛しくてたまらない。
「何で恥ずかしいんだよ」
「そ、そんな…決まってるでしょ!さっきだって……その、心の準備だって出来てなかったのに…!」
「準備?」
新しい的を見つけたように、京は聞き返す。ユキはしまったという表情になる。
京は意地悪く笑ってみせた。
「じゃあ、準備が出来たらいいんだな?」
「ちょ、ちょっと…!」
ユキは言葉を詰まらせる。京はユキの頭を抱いた。
「…いいんだろ?」
ユキの瞳を覗き込む。ユキは、恥じらいに頬を燃え立たせたまま、責めるような目で京を見返す。しかし、そのユキの目さえも楽しんでいるかのような京の様子に、諦めるようにうなだれた。やがてこくりと、消え入りそうに小さく頷く。京は、笑う。絹のようにすべらかな頬を、そっと撫でた。
「…目、閉じろよ…」
「…」
京に言われるまま、きゅっと、ユキは目を瞑る。いじらしささえ感じて、京の胸に切なさがこみ上げた。
ユキの手を、握る。
…好きだ。
小さく、そう呟いた。その声にユキが目を開きかけた時、彼女の内側にその言葉を封じ込めようとするように…唇を、重ねた。
京の手をユキは握り返してくる。包み込むように京はユキを抱きしめた。
甘く、ゆるやかな時が流れる。
頬を染め、夢を見ているようなユキの眼に、京は微笑む。柔らかな京のまなざしに気が付いて、ユキも微笑った。そっと、抱き合う。
「京…」
「ん?」
「…帰ってきてね?」
「ああ」
「できれば、あんまりケガしないで…」
京は頷く。ユキの頭を撫でた。
「大丈夫だって。心配すんな。大丈夫だからさ…」
安心させてくるような京の手を受け、ユキは、頷いた。月に煌く瞳を伏せて、静かに、微笑みながら。
「うん…なんだな」
京は、呟く。柔らかな幸せに照り映えるようなユキの笑顔が眩しいように、いたずら好きの少年がするような仕草で、鼻に手をやった。
「続きについては、また考えようぜ」
「え?」
ユキは瞳を丸くした。頬を染めたまま、何のことを言っているのか分からない、という顔で京を見つめる。京はそっぽを向いている。照れ隠しのつもりだったのだが、言うんじゃなかったかもしれない、と、京は軽く後悔した。
「続きって……」
聞き返すうちに思い至ったらしく、ユキの顔がさっきとは比べ物にならない勢いで紅潮していく。
「…いやっ、京!何考えてるのよ!ばかぁ!最低!!信じられない!」
悲鳴をあげ、京の胸を叩いてくる。
「悪い!悪かったよ!ユキ!」
ある程度予測できていた潔癖そのもののリアクションに、京は思わずからからと笑った。
帰ってくる。必ず、勝利を掴み取って。
自分の言葉にこうもたやすく右往左往する、自分をどこまでも想ってくれる、愛しい彼女のために。
ユキのか細い拳を何度も胸に受けながら、泣けてくるような幸福感の中で京は思った。
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