23 「眠り姫」



 自販機で買ってきた缶コーヒーを二つ持ち、京は、元いた桜の木まで戻っていく。
 ユキの姿が見えた。木の下におとなしく腰掛け、膝の上に手を組み合わせて俯いている…ように見えたが、近づいていくうちに、どうやら眠っているらしいことが分かった。
 生まれつき薄い色をしている茶色の髪が、こくりこくりと、舟を漕いでいる。春の陽気に誘われたのか、京が離れて緊張が解けた反動か…。
(おいおい…)
 なんて無防備なんだ、と、京は呆れてしまった。海外の大半の国では、とてもこんなことはできまい。日本であるからこそ許されるような光景なのだろう。
 京はユキの隣に腰掛けた。起こそうとは思わなかった。ただ、そっと、ユキを見る。
 薄茶の髪が陽に透けて、まるで黄金のように輝いている。肌はあくまで雪のように白い。そこだけを見ると、とても陸上競技を愛する子のようには見えない。まして、木にひっかかったボールを見過ごせずに、自ら飛び上がって落とそうとする子なのだと…。
 着地点を見ないで、転びかけた時には京も肝を冷やしたが、とにかくは間に合って良かった。みすみす怪我をさせるつもりなどなかったが、心底京はそう思った。
 おとなしく見えるけど、結構激しいところもあるんだよな…。
 ユキの寝顔を見つめ、京は思う。
  …でも、俺を受け入れてくれた。
 去年の夏にKOFに出ていってから、春まで日本に帰ってくることはなかった。
 かつて自分を負かした男…KOFに現れた、ゲーニッツと名乗った男を倒してから、世界中を渡り歩いていた。自分の強さを確かめたかった。どこまで通用するのか、今よりも上を、さらに上を、目指したかった。
 ユキには悪いことをした、とは、思っていた。一度や二度ではなかったにしても、電話をかけるだけで日本にはなかなか帰らなかったのだから。その上、また留年までしてしまって…。
 それでもユキは、KOFに行く前と変わらない態度で迎えてくれた。恋人を省みずに世界中を歩き回るような青年に、とっくに愛想を尽かしてもおかしくないはずなのに。確かに怒りは見せたものの、今もこうして、そばにいてくれる。
 京も信じていた。
 ずっと日本に帰らずにいて、ユキは怒るかもしれない。だけど、自分を本当に嫌うようなことはしない、と。
 ひどい自惚れだとは思う。それでも、ユキに限ってそんなことはないと、心配することさえしなかった。それは全く根拠の無いことであっても、他の誰でもない、ユキだからこそ信じることができたのだ。
 そしてその信頼は、一筋も裏切られることなく、京の目の前に存在している。
 こうして変わらず、そばにいてくれることが…京には嬉しかった。かけがえのない、大切な子だと京は思う。もしもこの子に何かあったら…それがもしも、自分と関わっているために起こってしまったことであったら…おそらく京は、それを引き起こした相手は勿論、何よりも自分自身を許すまい。
 桜の花びらが、ひらりとユキの髪に降りてきた。
 払ってやろうとして、ユキの髪に触れた。すべらかな、まるで絹のような、髪だった。かすかな風に乗った香りが、匂やかに京の鼻先になびいた。
 桜の香りか、ユキの香りか。京の胸が疼きを持って高鳴った。この腕に抱き上げた柔らかなユキの重みと温もり、恥らって暴れた、雛鳥のようなか弱い抵抗の感覚が、腕の中に甦った。
 眠り込むユキをじっと見つめる。
 閉じられた瞼の、長い睫毛。その淡い影。小作りな鼻梁、細い顎。…赤い、唇。京の鼓動が加速する。
 安らいだ表情でユキは眠っている。彼女の眠りを妨げてはいけない、起こすような真似をしてはいけない…そう、思いながら。
 止められなかった。眠るユキの唇を、そっと盗んだ。
 一瞬のことですぐに離れた。誰かに見られた訳も無かった。
 ユキの手が膝から落ちている。京は手に取り、握った。ユキが目覚めるまでこうしていようと京は思った。ほんの少しだけ、できそこないの騎士を気取って。
 風が渡り、桜の花びらが、青空に向かって舞い上がった。




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