街路樹の若葉が瑞々しく輝いている。
五月の光が降り注ぐ中、京はユキと手をつなぎ、広い通りを歩いている。早い時間から待ち合わせ、映画を見、カフェに立ち寄り、公園かどこかででも食べようと軽い菓子を買ったりし…と、気楽で平和な一日を過ごしていた。
あちこちと気の向くままに歩く間、しかし京はずっとユキに心を配っていた。できるだけユキが楽しくいられるように明るい話題を持ち出し、ユキが行きたいと言う店に入り、好きそうな菓子を買ってやり…それは京にしては珍しいほどの濃やかさだった。
罪滅ぼし…と言うとユキは怒るかもしれないが、去年の夏から放っておいたようなものだったのだ。たまにはこのくらいはしてやらなければ──京はそんな気持ちでいる。
そんな京の胸中を知ってか知らずか、ユキは機嫌良く、京の隣を歩いている。屈託ない笑顔を京に振り向け、花のように笑っている。
幸せそうなユキの姿に京も安堵し、今日という一日を楽しく過ごせるように思えた…のだが。
(なんでこいつがいるんだよ)
忌々しげに京は、ユキとは反対側の己の隣に並んでいる少年を横目で見やった。
矢吹真吾。
京やユキと同じ高校に通う、一学年下の後輩だった。桜の季節、屋上に居た京に向かって手を振ってきた少年でもある。京はもう来ないものと思っていたのだが、あれからも真吾は京に弟子入りを認めてもらおうと幾日も幾日も頼み込んできて、手を焼いた京がとうとう己の草薙流を教えてやるようになってしまったのだ。
とは言え、京は決して本気で取り組んではいない。草薙流の最たるところである炎を操る力は、一族の血を受けた者でなければ絶対に手にすることはできないし、体術も一朝一夕で会得できるようなものでは決してない。
京が真吾に教えているのはほんの表面、型に添うだけのただの真似ごと──であるのだが、それでも純真な真吾は感激し、熱心に「師匠」の指南を受けている。覚えもいいし、体も動く。教えがいがあると言えばあった。その上、使い走りのようなこともしてくれるので、便利な奴だと思う面もあったが──。
素晴らしく人なつこいというか、学内でも京を見かければすぐ走り寄ってくるのには京は毎回閉口した。そしてそれは街中であっても変わらないようだった。ユキの運動靴を見に入ったスポーツ店で出くわしたが最後、店を出た後でもまるで子犬のようにひっついてきたのだ。走り込みのための靴を探していたとか言っていたが、そんなことは京の知ったことではなかった。迷惑だった。一目で自分たちがデート中だと分かるだろうに、ひょこひょこついてくる神経が分からない。
それでも、無邪気な真吾に悪意などはまるで無いのだろう。思いがけず憧れの師匠に出会えたのが嬉しいらしく、しきりに京に話しかける。
それが余計に腹立たしく、京は返事をしなかった。どうせ明日学校に行けば昼休みなどに修行をつけてくれとやってくるはずなのだ──だから、京は無視を決め込んだ。
しかし、ユキはそうはしなかった。真吾が何度話しかけても京が無反応でいるのを見かね、できるだけ真吾と話してやったりしている。
師匠の彼女に対し、真吾はさすがに遠慮しがちでいたが、柔らかなユキの佇まいに安心したのか、今度はユキと話をし出した。ユキが陸上部に所属していることが知れると、自身が水泳部であることから興味が湧くのか、
「…で、ユキさんは普段どのくらい走ってるんですか?」
などと、気安く聞いたりしている。
すぐ人のふところに飛び込む真吾の人なつっこさと、何か人をあたたかにさせる雰囲気を持つユキだからこそなのだろうが、見ている京は面白くない。正直言って「俺のユキに寄るんじゃねえ」と胸ぐらをひっつかみたい気分だったが、乱暴を嫌うユキの手前もちろんそんなことはできない。
どうしてやるかと腹の底をぐらぐらさせていると、
「あ〜なんかハラ減ってきたですねー…そうだ、これからどっか食いもん屋さんにでも行きません?うどん屋かどっか…」
と呑気に真吾が口走ったのには、京も頭に血を昇らせた。
「おい真吾!」
唐突なように京は怒鳴った。ユキは瞳を丸くさせ、真吾はひゃっと、縮こまった。
「調子に乗るのもいい加減にしやがれ、てめぇ少しは人の状況を見やがれってんだ!」
「え?人の…?状況って、その、みんなで歩いてる?ことですか?」
「あぁ?!」
案の定、少しも分かっていなかった様子の真吾に京は凄む。
「え、あ、そうじゃない?そうじゃなくって…あっ!もしかして、お二人がデート中だったってことですか?ひょっとして俺お邪魔しちゃってたんですか?」
「んなこと俺から言わせるんじゃねえ!とにかく今すぐどっか行きやがれ!明日は鬼焼き1000回だからな、覚えとけよ!」
「鬼焼き、鬼焼きというと百式…」
メモを取り出そうとしたのか、ごそごそとポケットをまさぐり出した真吾に京は拳を握った。
「うるっせえ!いいから行けって言ってんだろうが!!」
「ごっごめんなさ───い!!」
悲鳴を上げ、真吾は駆け去っていった。
京は大きく息をつき、ユキは、まだ驚いたままの表情で京を見ていた。
「…ったくよ」
河原に腰掛け、乱暴に足を投げ出した。
真吾が去ったあと、強引にユキの手を引いてここまで歩いてきた。結構な距離を歩いてきたと思うのだが、それでもまだ、腹は治まらなかった。
「ひどいわ京、どうしていきなり怒ったりしたの?」
京のすぐ隣に座り、ユキは尋ねる。
「どうしてってあいつが非常識だからに決まってんだろ、なんで人のデートに入り込んできて平気なツラでいやがるんだよ。だいたいお前もお前だぜ、俺が無視してんのに相手してやったりしてよ」
「そんなの、矢吹くんがかわいそうだからじゃない。ずっと京に話しかけてるのに、京ったらず──っと無視して」
「いいんだよあんな奴!どうせ月曜になったら平気なツラして寄って来るんだからよ」
「何それ、ひどい先輩っ」
ぷい、とユキはそっぽを向いてしまった。
京もユキとは違う方向を向いた。
京は心の中で、大きな溜息をつく。
どうして、こんなことに。
確かに真吾に対する態度は少々荒っぽかったかもしれない。それでも京は、真吾という少年を少しは分かっているつもりだった。どれだけ突き放そうと、すぐ何事も無かったように寄ってくる。よく言えば健気、悪く言えば呆れるほどのポジティブさを持っているのだ。ユキに言った通り、明日になれば平気な顔で──必死に鬼焼きの復習をしてくるかもしれない──京のところにやってくるはずだ。
だが、ユキは真吾のそういう側面を知らない。心の優しいユキが京の激しい態度を責めるのも無理のないことかもしれない。
京は頭をかいた。何とか機嫌を取り戻させたいが──。
「あ」
京は思い出した。
「ユキ、ほら」
言って、差し出す。眉をひそめさせたまま、ユキは振り向いた。
紙パック入りの紅茶と、ワッフル。
街でユキが好きそうな菓子だからと買ったものだ。長く歩いていたのでどちらも冷えてしまったが──。
袋から取り出し、ユキに渡そうとする。
「食うだろ?」
「…いらない。おなかすいてない」
ユキはかたくなだった。甘いもので機嫌を取ろうとしている京の態度があまりに丸見えでいるのかもしれない。
…参ったな。
京は落ち込む。真吾のせいだと八つ当たりぎみに思ったが、そんなふうに思っても仕方が無い。
そんな京をちらりと見て、ユキは小さく唇を緩める。
「やだ、そんな顔しないでよ…もう」
そう言って、京に向かって手を広げる。ちょうだい、と言っていることに気がつき、京はワッフルを差し出した。
ユキが食べ始めたのを見て、京も袋に手を伸ばす。
金色に輝く陽光を受け、川が穏やかに煌いている。どこかから子どもたちの遊ぶ声が聞こえてくる。食べている間、京もユキも口を聞かなかった。
粉っぽくなった口の中をぬるい紅茶で潤すと、
「…私も悪かったかもしれないね」
そっと、ユキが呟いた。
「今日はずっと京が色んなことしてくれたのに、他の男の子ばっかりと喋ったりして。…ごめんね」
「…」
京は黙った。ユキは気付いていてくれたのか──そう思った。途端、京の心に反省が起こる。
「…いや。いーよ。俺も大人げなかったし」
真吾の奴は…鬼焼きは500回くらいにしといてやるか。そんなことも京は思った。
「本当よね」
「…ふん」
鼻を鳴らす京に、ユキは微笑む。いつもの穏やかな空気が戻ってきたようで、京も笑った。
対岸で犬の散歩をしていた人物が、土手を登って道の向こうに消えていく。
京はその様子を見送ってから、周囲の人通りが絶えていることを、さりげなく確かめた。
「ユキ。なんかついてるぜ。ここ」
そう言って京は顎あたりを示した。小さな粉で白くなっている。
「えっ…」
確かめようとしたユキの手を捕らえる。そのまま顔を寄せ、京はその唇に唇を重ねた。
ユキの温度が上昇したのが分かった。手の温もりを強く握る。砂糖の味と紅茶の香りが、淡く京に漂った。
長くは続けなかった。そっと離れる。
「…」
真っ赤になったユキは暫し茫然とした表情でいたが、
「…もう」
それだけ言い、京の肩にもたれかかった。京は笑って、ユキの髪に頬を寄せる。
きらめく川の輝きに浸りながら、二人はずっとそうしていた。
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