28 「甘い一時」



「お前さぁ、緊張しすぎだって」
 京にそう言われてから、ユキは初めて、自分がさっきから正座の姿勢を崩していないことに気が付いた。
「え…そ、そうかな」
 たどたどしく答える。京は呆れ顔で頷く。
「お前、その分じゃ昨日ロクに寝てねえだろ…ばかだな」
「ばかとは何よ、だって…」
「…別にそんなにガチガチになるようなことじゃねえだろ、人のおふくろに会うことくらい」
「う…うん」
 ユキはつとめて強く頷いた。そう、そうなのだけど、と、改めて、周囲を見渡す。
 据付のクローゼット、決して大きくはない本棚、カバーのかかったベッド、教科書の並んだ勉強机。キャスターつきの椅子にまたがる京は、背もたれにのしかかってユキを見ている。
 ここは京の家、彼の自室だった。そしてユキと京は、今は菓子を買いに外に出ているという、京の母親の帰りを待っている。うっかり忘れてたらしい、と京は言った。
「ユキ、いっぺん俺ん家来ねえ?おふくろが一度ゆっくり会ってみてえって言ってるんだ」
 数日前、太陽の光がじわりじわりと夏の強さを帯びてきた頃、電話口で京はそう言った。
「次の日曜。いいだろ?」
 突然の誘いにユキは頭の中を空白にしたが、
「うん」
 そう答えた。嫌だと言うのもおかしな話だし、京の家に行くのも初めてだった。それにお母さんがせっかく会いたいと言ってくれているのだから──。
 その時は特に気負うつもりは無かったのだが、ユキは日曜が近づいてくるにつれ緊張を感じるようになってきていた。
 京の母とは、初対面というわけではない。何度か会ったことはある。去年の夏、京がKOFに出て行くより前…京が何者かに闇討ちされ、入院してしまった時。その時、幾度か顔を合わせた。だが、状況が状況だっただけに落ち着いて話をしたことはない。時間帯が合わなかったのか会うことすら稀であったし、京のほうは退院したと思ったらすぐにKOFに出て行ってしまったし…それきり、会ったことはなかった。
 だから京の母とまともに顔を合わせるのは、初めてといえば今回が初めてなのかもしれない。
 普段はどんな人なのだろう?何を着ていけばいいのか。ご挨拶はどんなふうにして、どんなお話をすればいいのか?思えば思うほど期待と不安はどんどん膨らみ、夕べユキは、京に指摘された通り殆ど眠ることができなかった。
 そして今日、愛車のバイクで迎えに来た京にこの家まで連れて来られてから、ユキは自分を縛る緊張の糸が、ほとんど極限まで張り詰めていくのを感じた。
 どこまでも続くかのような外壁、シャッター付きのガレージの隣の、どっしりとした門構え。玄関までの距離、京がバイクのメンテナンスに使っているだろう小屋、手入れの行き届いた庭木たち、十分な世話を受けているのだろう、花を咲くのを待っているような植木鉢たち──。
 広い広い敷地の中に、瓦葺きの立派な建物(道場?)を見た時には、ユキは京の生まれた「家」というものを否応なしに思い出した。京は常人からは想像もつかないような古い血筋の生まれであり、その背に、ユキの量り知ることができないような重いものを背負っているということを。
 母屋そのものは現代的な和風建築であったので、幾分ユキはほっとしたのだが、たっぷりと広い玄関や襖を開いても開いても奥へと続くような間取りにくらくらとして、京の部屋を見てみたい、と、尤もらしいことを言って、玄関そばの階段から、二階にあるこの部屋まで案内してもらったのだった。座敷などで待たされては、息ができるかどうかも分からなかった。
 京の部屋は何の変哲も無い…やっぱり相当広いけれど…白い壁紙と大きな窓に飾られた、簡素なものであったので、ユキはやっと人心地つく気持ちがした。
 人のおうちでプレッシャーを感じるのなんか初めて…それは、広大なこの家を管理しているだろう京の親に対してのものかもしれないが…ユキはそう思った。
「意外とキレイなお部屋なのね」
 心を落ち着かせようとして、周りを見回したユキはそう言った。事実、思っていたより京の部屋はすっきりしていて、何よりも物が少ない。ユキの前の、ジュースを置いている折り畳み式のテーブルも最初はここにはなく、京がどこからか運んできたのだった。
「まぁ、あんまりここは使わねえからな。寝るったってリビングのソファとか小屋ん中とか、俺どこでも寝ちまうし。ここには物を取りに来るぐらいだな」
「ふーん…」
 それでは、ひょっとしたら掃除などもお母さんがしているのかもしれない。ベッドカバーには埃一つないし、本棚もちゃんと整頓されている。勉強机だって少しも使ったような形跡が──と、そこまで見て、ユキは京を見た。
「京っていつ勉強してるの?」
「まぁいいじゃねえか」
 そう京が濁した時、玄関の引き戸が勢い良く開かれた音が、響いた。
「あ、帰ってきたみてえ」
 京は目を上げ、ユキは、身を硬くした。
「京──いるの、帰ってるの──?」
 よく通る、張りのある声が階下から突き抜けてくる。
「ああ──部屋だけど──?」
 ぞんざいにも聞こえる調子で京は答えた。階段を駆け上る音、廊下を急ぎ足で歩く音が近づき、ユキの視界に背の高い女性が飛び入った。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
 息を切らせ、女性は笑った。薄化粧をきりりと施した顔、清潔にまとめられた髪型。一年前に見た時と姿こそ変わらないが、優しげな笑顔から受ける印象は大分違う。あの時のこの女性は包帯だらけの息子の前でも沈着としていて、ユキにもよく気を遣ってくれた。気丈なお母さんだとユキは思ったのだったが…。
「何、また出てくの?」
 何か慌しい様子の母親の顔を見るなり、京はそう言った。
「そうなのよ、いきなり呼び出しが入って…急患でどうしても人が足りないって」
「行くの?」
「行かない訳にはいかないわよ。人手もないし、人の命のことなんだから。ごめんね、ユキちゃん。せっかく来てくれたのにろくにお話もできなくて──」
 久々に、唐突に名を呼ばれてユキはどきりとしたが、不思議と不快感は感じなかった。はたちの息子を持っているようには見えないほど若く見える京の母は、顔立ちがどことなく京に似ていたし、落ち着いて深みのある声も、ユキの耳に快く響いた。慌ててユキは首を横に振る。
「また改めてにすりゃいいじゃん、別にいつでもいいことなんだし。菓子なんてなくても良かったのによ」
「もう、そっけないんだから…京が家に女の子連れてくるなんて初めてだからお母さんせっかく張り切ったのに…はい」
 小言めいて言って、母は息子に洋菓子の箱を手渡す。京は顔を赤くして何か叫びたそうにしたが、すぐに口を閉じた。
「それじゃ行ってくるから。ユキちゃん、こんなことになって本当に申し訳なかったけど、今日はゆっくりしていってね?またいつでも遊びに来てね」
「はい。ありがとうございます」
 素直にユキがそう答えると、その返答の仕方が気に入ったのか、京の母はにこりと笑った。温かな人柄を感じさせるような笑顔だった。思わず、ユキも笑った。
 そのまま京の母は去っていった。先ほどとは逆回しのように、階段を降りる音、玄関を出ていく音が聞こえ、暫くしてシャッターが開き、車が出て行く──。
「急患って…?」
 ユキは言った。椅子から降りた京はケーキを取り出しながら、
「ん?ああ、医者なんだよおふくろ。外科医だからか知らねえけど、呼び出しがあったらさっきみてえに家を出てく。昼でも夜でも、休日でも何でもおかまいなし。大事な命を預かってるから、ってさ」
「すごいね……」
 外科医だったとは知らなかった。ユキは感嘆してしまう。それで、京が入院した時に見せていた落ち着きも頷ける。きっと真面目な、真面目な人なのだろう。
「あんなもんなんじゃねえの?もう慣れてる。まぁ、そんな中でも家のことはきっちりやってくからすげえと思うけど、どっかズレてるところもあるからなぁ……ってフォークついてねえじゃんこれ。持ってくるわ」
 最後のほうは独り言のようになりながら、京は部屋を出て行った。
 一人、部屋に取り残されたユキは、ぼんやりとさっきの出会いを思い出していた。
 医者という職業のイメージにあるような堅苦しい感じは一切受けなかった。去年に見せた冷静な一面もあるのだろうが、普段は朗らかで懐の深い人なのだろうとユキは思った。だからこそ、広い広いこの家や、留年を繰り返したり、世界中をふらふらしたりする息子を持っていられるのかもしれない。
 …そういえば。
 ユキは思った。
 京は何も言わなかったけど、京のお父さんはどこにいるんだろう?
 そう思った時、足音がして、盆にフォークと紅茶の入ったティーカップを乗せた京が戻ってきた。皿は無かった。どうするのかと見ていると、おもむろに箱の側面を畳み出した。そのまま食べるつもりらしい。面倒くさがりの京らしかった。
「食えよ」
 そう言って、逆さ向きにフォークを差し出す。ユキは頷き、受け取った。




 一分もしないうちにケーキを平らげた京を気にせず、ゆっくりとその味を楽しみながら、ユキは尋ねた。
「ねえ京、今日はお父さんは?」
 ティーカップに口をつけようとしていた京は一瞬動きを止めた。
「今はいねえよ」
 短く言って、一気に飲み干す。
「お仕事?」
「さぁ。どこにいるのかも知らねぇ。生きちゃあいるだろうが…」
「?」
 奇妙な物言いにユキは首を傾げる。
「まぁいいじゃねえか」
 京はそう言ったが、それでも訝しむ様子のユキの目が気になったのか、
「しょうがねえな…」
 そう言って、本棚に手を伸ばし一冊のアルバムを引き出した。ページをめくる。
「こいつ」
 一枚の写真を示す。
 そこにはうんと幼い京と、一人の体格のいい男性が写っている。川辺で釣りをしている様子を撮ったのか、二人とも、揃いのそれらしい格好をしていた。
「やだ」
 ユキは言った。
「京、そっくり」
 似たような服を着ているから余計にそう思ったのかもしれないが、確かに、写真の中の男性は京に似ている気がした。顔立ちというよりは、均整の取れた敏捷そうな体付きや、何よりも、その身が醸す雰囲気とでも言うのか、そのようなものが似ているようにユキには見えた。
「冗談じゃねえ、やめてくれ」
 心底嫌そうに京は言った。
 あまり触れて欲しくないみたい…お父さんのことが嫌いなのかな?明らかに様子を変えた京の態度にユキは少々面食らいながら、ページを繰った。見ていけば、ページを繰れば繰るほど父と写る子の表情はどんどん苦く、親子の距離は遠くなっているような気がする。一体どんな親子なのか、聞けば京がまた嫌がると思って黙っていたが。
「もういいだろ。返せよ」
 京が言う。
「…やだ。もうちょっと見たい」
 京の父についてはさておくとして、写真の中の小さな京が少しずつ、ユキが知る京に近づいていくのは面白かった。目が離せない。元気いっぱいの、いたずらっぽい目をした少年──今でも全然、変わっていない。もっと見たいとユキは思った。
 忙しい仕事のはずなのに、驚くほど写真は多かった。それは一人であったり、父親と写っていたりするものが殆どだったが、ごく稀に母親とのものもある。それは、父も母も、京をずっと見ているということなのだろう。
 京は愛されている。それがよく分かった。
 …と、ユキは手を止めた。
「京、何この写真?」
 子どもの頃の、一枚の写真を指差す。それを見た途端、京は表情を変えた。
「それは…!やめろ、見るなっ!見るんじゃねえ!」
 よほど恥ずかしい記憶でもあるのか目に見えて慌て、ユキからアルバムを取り上げようとする。咄嗟にユキはアルバムを抱えて立ち上がった。
「どうしてそんなに嫌がるの?こんなに可愛いのに」
「いいから見んな!返せ!」
 京は叫び、ユキを追った。体格差があるので高く差し上げるようなことはせず、ユキは胸に抱えてひらひらと逃げる。広い部屋なので容易だった。
「お前なぁっ…!」
 だんだん京がむきになってきたのが分かったので、
「もっと見たかったのに」
 あっさりとやめ、ユキはアルバムを差し出した。京は荒い息でそれを受け取り、
「…ったく…」
 テーブルの上に置き、そのまま床に寝転がった。
「見たけりゃ見ろよ。俺は寝る」
 手枕をして丸まってしまう。何を聞かれても聞かないつもりを決めたのだろう。
「スネなくてもいいじゃない」
「スネてなんかねえ」
 言葉に反し、十分頑なになっている。こうなると京は自分の好きなようにしか振舞わなくなる。ユキは笑って、京に構わずアルバムを開いた。
「…」
 ユキが本当にアルバムを見入り始めたのを見、京はどこか所在なげな瞳でユキを振り向いた。寝転んだまま、頭をユキの方へ向けていく。
「ユキ、膝貸せ」
「え?」
「膝。枕にする」
 言いながら頭を寄せてくる。急に京の温もりが近づいてきてユキはどきりとしたが、ひょっとして構ってほしいのかもしれない、と気が付いた。
「…いいわよ。…はい」
 そう言って、言われたように膝を差し出す。京は無言で頭を乗せた。
 まるで大きな猫みたい。
 京の重みを膝に受けつつ、ユキは思った。いつも気ままで、そのくせすぐに寂しがる。あたたかいものを胸に感じて、ユキは、京の頭に手を伸ばした。額に触れ、髪を優しく、繰り返して撫でる。
 窓からの風がカーテンを微かにそよがせた。
「…ユキ」
 ユキの手が心地よいのか、眠そうな声で京は言った。
「お前、いい匂いするけど…香水か何かでもつけてんのか」
「え?別に…どんな匂い?」
「…分かんねえ。でも、何かいい匂いだ…ほっとする…みてえな……」
 京の声が小さくなっていく。ユキは思わず京を揺すった。
「やだ、本当に寝るの?」
 すでに半分寝ているのか、京はうるさそうに手を振った。
「…昨日殆ど寝られなかったんだよ。……うちにお前が…はじめて来ると思ったら…」
 声が弱く、途切れていく。本当に寝入ってしまったようだった。
「…」
 ユキは京を見つめた。半ば、呆気に取られて。
「…ばか」
 微笑み、それから何故だか、泣きたくなった。深く眠り込んだ京の姿に胸を締め付けられるほどの切なさを──感じた。
 膝に感じる京の存在。初夏のやわらかな午後の空気。
 静かにユキはアルバムを閉じる。
 眠る京の髪をそっと撫でつけ、額に優しく、口づけを送った。




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