交差点の信号が青へと変わり、静止していた人群が一斉に動き出す。 
 埃っぽい空気と息の詰まるような雑踏の中、ユキはふと、後ろを振り返った。 
 そこには誰もいない。確かに、数え切れないほどの人が歩いてはいた。それでもユキにとっては無人も同じだった。そこにユキが求める人はいないのだから。 
 ……京。 
 今まで何度繰り返した仕草だろう。振り向けばいつも京がそこにいるような気がしてユキは何度でも振り返ってしまう。そして、彼のいない光景にすぐに現実に引き戻される。 
 京がいない、その、現実に。 
 
  
 京が姿を消してしまった。 
 あの夏、KOFに出場するため日本を出て行った京は、いつまで経ってもユキの前に姿を見せない。 
 決勝戦でトラブルがあって、京はそれに巻き込まれたみたいで── 
 ──行方が分からないんだ。 
 ユキにそれを知らせに来たのは、京の戦友である二階堂紅丸だった。京と共にあの夏、KOFに参加していた。紅丸の後ろには真吾がいた。京に憧れ、憧れるあまりにKOFにシングル参加を申し込んでまで追いかけていった一途な後輩だ。 
 真吾は泣いていた。真吾の泣き顔など見たことがなかったユキは、ひどく驚いた。いつでも朗らかな笑顔を絶やさない、明るい後輩だったのに。 
 ひでえ火事みたいなのが起こったらしくて、それからどこにも京の姿が見えなくて──。 
 見ているユキのほうが痛ましく思うほど、紅丸は声を絞らせていた。行方知れずとなった戦友の恋人にその事実を伝えるのだ。いやな役目であるのだろう。それでも伝えに来てくれたのは、姿が見えなくなる最後まで京の近くにいた人間としての、責任を感じているからなのだろう。 
 だが。 
 どうして? 
 ユキは思った。 
 どうして。そんなにも辛そうな顔をするのですか。そんなにも泣いたりするの。 
 そんなの、まるで京が帰ってこないみたいに。 
 大丈夫。京は帰ってきますから。 
 そう、言った。 
 だって、行方が知れないだけでしょう? そんなことは前にもありましたよ。本当に勝手な人なんだから。 
 だけど……京は約束してくれたんです。帰ってくるって京は約束してくれました。京は約束を守る人です。できない約束は最初からしないくらいに徹底してた。高校を卒業するなんてことも、約束だけは絶対にしてくれなかったんですよ? 
 だから京は帰ってきます。帰ってこないわけがない……。 
 ユキがそう言うと紅丸は悲しそうに笑い、真吾はもっと大声で泣き出した。 
 ユキのほうが信じられなかった、陽気な二人がそんな姿を見せるなんて、想像したことさえなかった。 
 強がりを言っているように見えたのかもしれない。約束を空頼みして、まともに現実を見ていないように。ばかな女に見えたのかも。 
 それでも、例え彼らにどう思われたとしても、ユキには信じることができなかった。 
 京が帰ってこないなんて、そんなことがあるわけがない。 
 理屈ではない。根拠らしい根拠など、ない。 
 それでもユキは信じている。京は必ず帰ってくる、と。 
 ユキは空を見上げた。青空に溶け残る、白い月が浮かんでいる。 
 あの人はどうしているだろう。 
 ふと、ユキは思い出した。あれはいつのことだったか。 
 街中でトラブルに巻き込まれたことがあった。銃声までもが街に響いた……非日常の瞬間だった。 
 どうしてあんなことが起こったのか、詳しいことは今でも分からない。今日のように街を歩いていると、唐突に空から人が降ってきたのだ。人々の悲鳴が響き、突然のことに動けずにいると、一人の男がまっすぐに近づいてきた。 
「つけられているぞ」 
 低く冷たい、淡々とした声だった。次の瞬間には銃声が起こり、身体は宙に浮いていた。その男がユキの身体を横抱きにし、軽々と飛び上がっていたのだ。 
 旋回する光景、波のように割れる人垣をまるで影絵のように見ていた。恐怖はなかった。知らない男の人に抱え上げられるだなんて、普通なら絶対に悲鳴を上げていただろうに……。 
 既視感があったのだ。いつかの桜の季節……木の上のボールを取ろうとして足を滑らせたこと、その時に自分を助けてくれた、京のことを、あの猫のように俊敏な身のこなしを、ユキは思い出した。この人は、京に似ている。そうとさえ思った。 
 男と京は背丈は近かったかもしれなかったが、体格までが似ていたわけではなかった。髪はまるで血のように赤く、目には言い知れぬ迫力があった。京とは似ても似つかない。 
 それでも、似ていると思った。雰囲気というものとも違う……京が持っている魂のようなものに、とでも言えばいいのだろうか。 
 銃声が響いたような状況で命がなかったかもしれないのに、恐怖がなかったのはそのためだろうか。名前も知らないその男に、京に似たものを感じたからだろうか……。 
「会えると思っているのか?」 
 危難の去った後、男はそう言った。ユキには分かった。この人は京を知っている。 
 そして、この人も京が帰ってこないなどとは考えていないと思った。 
「待っています」 
 ユキは言った。約束をしたのだと──。そう言うと男は、返事もしないで去っていった。 
 彼が誰であったのか、どうして京を知っているのか、どうして自分を助けてくれたのか……ユキには何も知りようがない。 
 なぜ自分が尾行されていたのということも。 
 全く身に覚えが無い。だが、ひょっとして、と、これまでのことを総合して考えると、ユキはそこに京が姿を見せない理由があるように思えた。平凡なユキの生活の中での非日常といえば、今は京のことしかない。 
 きっと京には何か事情ができたのだ。それでどうしても帰れないのだ。そうでなければ、京が帰ってこない理由が見つからない。高校生活を投げ出したかのようなバツの悪さにユキの前に出てこられないとか──そんなふうに思える時期はとうに過ぎている。 
 もしかして、何かの事件に巻き込まれて──? 
 そうだとしたら、それはどういうものに? 
 ユキには分からない。分かりようがない。 
 だからユキは、ただ信じるしかない。京が帰ってくることを。 
 行方が分からなくなったからといって、死んでしまったともユキには思えない。 
 本当に京がこの世から居なくなってしまったのなら、こんなにも強く京のことを想っている自分に、それが分からないわけがない。 
 根拠が無いといえばこれ以上のことは無い。だが、その確信は殆ど実感としてユキの心に食い込んでいる。 
 きっと京はどこかで戦っている。一体どこで、何を相手にしているのかは分からないけれど──。 
 だけど、それが終わったらきっと──。 
 ユキは、鞄からグローブを取り出した。紅丸が届けてくれた、京が残した唯一のもの。傷だらけで、ぼろぼろの……。ユキはまさか京がこんな姿になっていないことを祈る。 
 人々が無表情に通り過ぎていく中、ユキは空を見上げた。 
 金色に輝く、太陽がそこにある。 
 …待ってる。 
 今まで何度も、何度も何度も、心の中で繰り返した。 
 信じている、たった一つのそのことを。 
「待ってるからね、京……」 
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