鏡を見つめる。 
 やつれてはいるが、顔色は悪くない。 
 髪の形、衣服に乱れがないことを入念に確かめて、そこを離れた。 
 
  
 百舌が鋭い声を立て、鳴いている。 
「……本当にね」 
 広いリビングルームで、ユキに暖かい茶を淹れながらしみじみと京の母は言った。 
「あの子には色々経験させられるわ」 
 そう言って、ユキに茶を勧める。 
 京の生まれた草薙家の……京の母のもとを、ユキは時々こうして訪れている。京の母は相変わらず仕事の都合で忙しく、家にいないことのほうが多かったが、ユキが来るときにはいつも暖かく迎えてくれた。 
 京からの連絡は今もない。 
 柔らかな湯気の昇る湯呑を両手で持って、京の母はひとりごちるように言った。 
「あの子だけじゃないわね……あの子のお父さん、柴舟にも」 
 痛ましさに、ユキは目を伏せる。 
 聞けば、京の父親も長く行方不明だという。一人息子の京に草薙の技の全てを教え込み、十五歳の京が父親に勝利した日、姿を消したのだと。遠い昔から炎を操る武術を受け継ぐ草薙家の、それは宿命のようなものなのかもしれなかった。 
「子どもの頃は毎日柴舟が京に稽古……いいえ、あれは稽古なんてものじゃなかったわね。殆ど動物を躾けているような感じ。京が泣いても喚いてもやめようとしないで……見てられなかったわ。それでも、あの子は父親にちゃんとついていったし、柴舟も修業を離れたところではちゃんと京の面倒を見てくれた。みるみる男の子の顔になっていって、強くなっていって、日本だけじゃなくて世界に出ていった時には、立派な草薙家の男になってくれたのねって思ったけれど……」 
 小さく嘆息した京の母は、顔を上げてユキを見た。 
「ユキちゃん、ありがとうね。京だけじゃなくて私のことまでいつも気にかけてくれて」 
 思いがけない言葉に、ユキは懸命に首を横に振る。 
 本当はユキのほうがこの母に力をもらいたいかもしれないのだ。便りも無く愛する人を待ち続けることに、ずっと一人で耐えているこの人に。 
「京は帰ってくるわよ。その時は、きっと一番にあなたのところに帰ってくるわ」 
「そんな」 
 思わずユキは言う。自分だけが京を待っているわけではない。この人はずっと昔から、生みの息子を案じていた。その人をさしおいて、どうして自分が……。 
「おばさまだって待ってるのに」 
「分かるのよ」 
 京の母の目は穏やかだった。母として、息子の心を見通す瞳がそこにある。それがくっきりと感じられ、ユキは泣きたくなった。 
「だめです、そんなの……。その時はきっと、京を引っ張ってきます。絶対にそうしてきますから」 
 京の母は静かに笑うだけだった。穏やかなその眼を見るだけで本当に涙が出てきてしまいそうで、ユキは、下を向いていることしかできなかった。 
 
  
「また、いつでもおいでなさいね──」 
 京の母の言葉に何度も頷きながら、ユキは草薙家をあとにした。 
 夕暮れ近く、西空には朱色の輝きが萌している。渡り鳥が幾度も細い姿を折り曲げつつ、雲の間を横切っていく。 
 京は帰ってくる。 
 日増しに強くなるその思いを、ユキも、京の母も、信じて疑わない。 
 京。帰ってきて。待ってるから。 
 会いたい──。 
 涼やかな風が頬に触れ、ユキは足を止めた。 
 いつの間にか河原に来ていた。京と幾度も訪れた場所だ。 
 一日が終わっていく緩やかな時を感じられるこの場所は、京とユキのお気に入りの場所だった。散歩を楽しむ人、日常を過ごす姿……今日も、いつもと変わらぬ人々の姿が見られる。 
 川面が夕陽の光を受け、柔らかな朱色に染まっている。 
 京の炎と同じ色。ユキはそう思った。この時間のすべては、京の色に染まっているような気がする。 
 あたたかなものは全て、京につながっている気がする。 
 京が初めて炎を見せてくれたのも、ここだった……。 
 ユキは土手を降り、小石の散らばる河原に立った。朱金色の輝きに、己の身を浸す。 
 ふと、靴音が聞こえた。 
 厚い靴底で小石を踏む音だった。一歩、一歩と、その足音はユキに向かって近づいてくる。いやにゆっくりと、まるで、何かを確かめているかのように。 
 ユキは、自分の背中が冷たくなったように思った。 
 どうしよう。変な人かしら。 
 いつかのこととも思い合わせて、そう思った。 
 あの時みたいなことになったらどうしよう──。 
 しかし足音の主は、ユキからやや離れた位置で足を止めた。じっと、ユキを見ている。ユキははっきりとその視線を感じた。 
 いつでも走り出せるように足先に力を込めた時、 
「……ユキ──?」 
 尋ねかけるような、声がした。 
 西日が急に眩しくなったような気がした。 
 眩暈がするような既視感に襲われる。 
 ああ、前にも確かこんなことがあった。唐突に後ろから話しかけられた。あれはいつのことだった? 確かひどい喧嘩をしていなかったか? もう随分と昔のような気がするけど……。 
 ユキはこわごわ、後ろを振り返る。 
 長めの前髪が夕風になびく。均整の取れた長身と、見る人の目を引く端正な顔立ち。そして、何よりもユキが求めていた、懐かしい黒い瞳が、ユキの姿を見つめている。 
「よう、帰ったぜ」 
 ウォレットチェーンが下がったジーンズのポケットから手を出して、京は言った。 
 言葉を忘れてユキはその場に立ち尽くした。 
「なんだよ、その顔……」 
 不平そうに京は言った。 
「京……?」 
 夢でも見ているようにユキは呟く。 
「ああ。……まさか…………俺じゃないように見えるのかよ」 
 何故か、どこか怖じたような声で京は言った。 
 その、尖らせた唇。すねたような表情。今までに何度も、ユキがよく見た……。 
「ううん、ううん…………京……京!」 
 迷いはなかった。一息に、京の胸に飛び込んだ。そのまま強く、京の身体を抱きしめる。 
「京よ、あなたは京。私の…………私の……」 
 京の胸に顔を埋め、頬を幾度もすりつける。 
「ユキ……」 
 ユキの腕に抱きしめられるままになっていた京は、おずおずとユキの肩に触れた。ゆっくりと背中へ腕を回す。 
 ぎこちない仕草で、ユキの背を撫でる。まるで、ユキのかたち、その温もりを確かめているかのように。 
「……」 
 京は短い吐息を発した。ゆっくりとした時間をかけて、きつく、きつく、京はユキを抱きしめた。 
「……京」 
「……」 
「苦しい……」 
「……悪い。でもよ……」 
 なお強く、京は腕に力を込める。ユキは微笑み、そっと、京の背中に手を回した。  
 やがて顔を上げ、見つめ合う。京の姿を瞼の裏に閉じ込めるようにユキは瞳を閉じ、京はユキの唇に、唇を重ねた。 
「待たせちまったよな。けど……約束は守ったぜ」 
 静かだが強い響きが込められた京の言葉を、京の胸の中でユキは夢のように聞いていた。 
 淡く桃色に染まった顔を上げ、ユキは京の顔を見守った。言葉はなかった。再会できたことの喜びの光が、ユキの瞳に煌めいている。 
 そんなユキを京は眩しそうに見つめ、 
「……そうだな……ユキ、なんだったらこれからどっか行くか? どっかで休憩……」 
「?」 
「いや、だから……街のどっかの」 
 京が何を言っているのか理解できず、ユキはきょとんとした。京はわざと違った方向を向いている。何かおかしなことを言ったことを自覚している時の京の癖だった。そういう時の京は、いつもまともにユキを見ようとしない……やっと、京の言葉の意味を察し、 
「ば、ばかっ! 何てこと言うのよ! 信じられない!!」 
 大声で叫んだ。河原を歩く人たちが驚いて振り向く。京までもが目に見えて肩を竦ませたが、ユキは構わなかった。 
「ばかばか! もうっ、何考えてるのよ、みんな待ってたのよ? 紅丸さんも矢吹くんもおばさまも……ああ! おばさまも! それなのに人の気も知らないで! ばか! ばか! 京のばかぁっ……!!」 
 激情を迸らせるままそう叫び、とうとうユキは泣き出してしまう。 
「お前、おい、何泣いてんだよ!」 
「知らないわよそんなの! 京のばか! 京の……京の……」 
 必死になってなだめようとする京に、すがりつくようにユキは抱き付いた。人の目などは気にならない。もう、京しか、見えていない。 
「京……ううううっ、京、京おっ……」 
 嗚咽を繰り返す。 
「う…う…うわああああああああああああああん」 
 声を放って泣き出した。子どものように開けっ広げなその泣き方に、京は慌てて周りを見回した。 
「なっ……なんて声出すんだよ! ユキ! 泣くな! 頼むから泣かねえでくれ!」 
「だって、だって…ああああああああああん」 
 止められるわけがなかった。京が帰ってきてくれたのだ。ずっと帰りを待ち望んでいた京が……帰ってきてくれたのだ! 
 京は今度も約束を守ってくれた……! 
 泣き続けるユキの頭を、京は声だけでもどうにかしようとして胸に抱える。髪や肩、背を撫で、なだめるように優しく叩くが、ユキは少しも収まらない。 
 泣きながら、身体が溶けゆくような安堵をユキは全身に感じていた。胸を、背を、京の温度に包み込まれて、涙は次々溢れてくる。 
 ここまで感情を解放したのはどれほどぶりになるだろう。 
 泣き続けながらユキは思う。 
 だけど、京だからこそ見せられる。 
 京にだったら何でも言える。何でも話せる。喜びも悲しみも、恥だって誇りだって。 
 京のそばなら自由でいられる。そう強くユキは思いを噛みしめる。 
 だってそう、この人のそばが。 
 一番安らぐ、自分の居場所。 
  |