49 「自分の居場所」



 鏡を見つめる。
 やつれてはいるが、顔色は悪くない。
 髪の形、衣服に乱れがないことを入念に確かめて、そこを離れた。



 百舌が鋭い声を立て、鳴いている。
「……本当にね」
 広いリビングルームで、ユキに暖かい茶を淹れながらしみじみと京の母は言った。
「あの子には色々経験させられるわ」
 そう言って、ユキに茶を勧める。
 京の生まれた草薙家の……京の母のもとを、ユキは時々こうして訪れている。京の母は相変わらず仕事の都合で忙しく、家にいないことのほうが多かったが、ユキが来るときにはいつも暖かく迎えてくれた。
 京からの連絡は今もない。
 柔らかな湯気の昇る湯呑を両手で持って、京の母はひとりごちるように言った。
「あの子だけじゃないわね……あの子のお父さん、柴舟にも」
 痛ましさに、ユキは目を伏せる。
 聞けば、京の父親も長く行方不明だという。一人息子の京に草薙の技の全てを教え込み、十五歳の京が父親に勝利した日、姿を消したのだと。遠い昔から炎を操る武術を受け継ぐ草薙家の、それは宿命のようなものなのかもしれなかった。
「子どもの頃は毎日柴舟が京に稽古……いいえ、あれは稽古なんてものじゃなかったわね。殆ど動物を躾けているような感じ。京が泣いても喚いてもやめようとしないで……見てられなかったわ。それでも、あの子は父親にちゃんとついていったし、柴舟も修業を離れたところではちゃんと京の面倒を見てくれた。みるみる男の子の顔になっていって、強くなっていって、日本だけじゃなくて世界に出ていった時には、立派な草薙家の男になってくれたのねって思ったけれど……」
 小さく嘆息した京の母は、顔を上げてユキを見た。
「ユキちゃん、ありがとうね。京だけじゃなくて私のことまでいつも気にかけてくれて」
 思いがけない言葉に、ユキは懸命に首を横に振る。
 本当はユキのほうがこの母に力をもらいたいかもしれないのだ。便りも無く愛する人を待ち続けることに、ずっと一人で耐えているこの人に。
「京は帰ってくるわよ。その時は、きっと一番にあなたのところに帰ってくるわ」
「そんな」
 思わずユキは言う。自分だけが京を待っているわけではない。この人はずっと昔から、生みの息子を案じていた。その人をさしおいて、どうして自分が……。
「おばさまだって待ってるのに」
「分かるのよ」
 京の母の目は穏やかだった。母として、息子の心を見通す瞳がそこにある。それがくっきりと感じられ、ユキは泣きたくなった。
「だめです、そんなの……。その時はきっと、京を引っ張ってきます。絶対にそうしてきますから」
 京の母は静かに笑うだけだった。穏やかなその眼を見るだけで本当に涙が出てきてしまいそうで、ユキは、下を向いていることしかできなかった。



「また、いつでもおいでなさいね──」
 京の母の言葉に何度も頷きながら、ユキは草薙家をあとにした。
 夕暮れ近く、西空には朱色の輝きが萌している。渡り鳥が幾度も細い姿を折り曲げつつ、雲の間を横切っていく。
 京は帰ってくる。
 日増しに強くなるその思いを、ユキも、京の母も、信じて疑わない。
 京。帰ってきて。待ってるから。
 会いたい──。
 涼やかな風が頬に触れ、ユキは足を止めた。
 いつの間にか河原に来ていた。京と幾度も訪れた場所だ。
 一日が終わっていく緩やかな時を感じられるこの場所は、京とユキのお気に入りの場所だった。散歩を楽しむ人、日常を過ごす姿……今日も、いつもと変わらぬ人々の姿が見られる。
 川面が夕陽の光を受け、柔らかな朱色に染まっている。
 京の炎と同じ色。ユキはそう思った。この時間のすべては、京の色に染まっているような気がする。
 あたたかなものは全て、京につながっている気がする。
 京が初めて炎を見せてくれたのも、ここだった……。
 ユキは土手を降り、小石の散らばる河原に立った。朱金色の輝きに、己の身を浸す。
 ふと、靴音が聞こえた。
 厚い靴底で小石を踏む音だった。一歩、一歩と、その足音はユキに向かって近づいてくる。いやにゆっくりと、まるで、何かを確かめているかのように。
 ユキは、自分の背中が冷たくなったように思った。
 どうしよう。変な人かしら。
 いつかのこととも思い合わせて、そう思った。
 あの時みたいなことになったらどうしよう──。
 しかし足音の主は、ユキからやや離れた位置で足を止めた。じっと、ユキを見ている。ユキははっきりとその視線を感じた。
 いつでも走り出せるように足先に力を込めた時、
「……ユキ──?」
 尋ねかけるような、声がした。
 西日が急に眩しくなったような気がした。
 眩暈がするような既視感に襲われる。
 ああ、前にも確かこんなことがあった。唐突に後ろから話しかけられた。あれはいつのことだった? 確かひどい喧嘩をしていなかったか? もう随分と昔のような気がするけど……。
 ユキはこわごわ、後ろを振り返る。
 長めの前髪が夕風になびく。均整の取れた長身と、見る人の目を引く端正な顔立ち。そして、何よりもユキが求めていた、懐かしい黒い瞳が、ユキの姿を見つめている。
「よう、帰ったぜ」
 ウォレットチェーンが下がったジーンズのポケットから手を出して、京は言った。
 言葉を忘れてユキはその場に立ち尽くした。
「なんだよ、その顔……」
 不平そうに京は言った。
「京……?」
 夢でも見ているようにユキは呟く。
「ああ。……まさか…………俺じゃないように見えるのかよ」
 何故か、どこか怖じたような声で京は言った。
 その、尖らせた唇。すねたような表情。今までに何度も、ユキがよく見た……。
「ううん、ううん…………京……京!」
 迷いはなかった。一息に、京の胸に飛び込んだ。そのまま強く、京の身体を抱きしめる。
「京よ、あなたは京。私の…………私の……」
 京の胸に顔を埋め、頬を幾度もすりつける。
「ユキ……」
 ユキの腕に抱きしめられるままになっていた京は、おずおずとユキの肩に触れた。ゆっくりと背中へ腕を回す。
 ぎこちない仕草で、ユキの背を撫でる。まるで、ユキのかたち、その温もりを確かめているかのように。
「……」
 京は短い吐息を発した。ゆっくりとした時間をかけて、きつく、きつく、京はユキを抱きしめた。
「……京」
「……」
「苦しい……」
「……悪い。でもよ……」
 なお強く、京は腕に力を込める。ユキは微笑み、そっと、京の背中に手を回した。
   やがて顔を上げ、見つめ合う。京の姿を瞼の裏に閉じ込めるようにユキは瞳を閉じ、京はユキの唇に、唇を重ねた。
「待たせちまったよな。けど……約束は守ったぜ」
 静かだが強い響きが込められた京の言葉を、京の胸の中でユキは夢のように聞いていた。
 淡く桃色に染まった顔を上げ、ユキは京の顔を見守った。言葉はなかった。再会できたことの喜びの光が、ユキの瞳に煌めいている。
 そんなユキを京は眩しそうに見つめ、
「……そうだな……ユキ、なんだったらこれからどっか行くか? どっかで休憩……」
「?」
「いや、だから……街のどっかの」
 京が何を言っているのか理解できず、ユキはきょとんとした。京はわざと違った方向を向いている。何かおかしなことを言ったことを自覚している時の京の癖だった。そういう時の京は、いつもまともにユキを見ようとしない……やっと、京の言葉の意味を察し、
「ば、ばかっ! 何てこと言うのよ! 信じられない!!」
 大声で叫んだ。河原を歩く人たちが驚いて振り向く。京までもが目に見えて肩を竦ませたが、ユキは構わなかった。
「ばかばか! もうっ、何考えてるのよ、みんな待ってたのよ? 紅丸さんも矢吹くんもおばさまも……ああ! おばさまも! それなのに人の気も知らないで! ばか! ばか! 京のばかぁっ……!!」
 激情を迸らせるままそう叫び、とうとうユキは泣き出してしまう。
「お前、おい、何泣いてんだよ!」
「知らないわよそんなの! 京のばか! 京の……京の……」
 必死になってなだめようとする京に、すがりつくようにユキは抱き付いた。人の目などは気にならない。もう、京しか、見えていない。
「京……ううううっ、京、京おっ……」
 嗚咽を繰り返す。
「う…う…うわああああああああああああああん」
 声を放って泣き出した。子どものように開けっ広げなその泣き方に、京は慌てて周りを見回した。
「なっ……なんて声出すんだよ! ユキ! 泣くな! 頼むから泣かねえでくれ!」
「だって、だって…ああああああああああん」
 止められるわけがなかった。京が帰ってきてくれたのだ。ずっと帰りを待ち望んでいた京が……帰ってきてくれたのだ!
 京は今度も約束を守ってくれた……!
 泣き続けるユキの頭を、京は声だけでもどうにかしようとして胸に抱える。髪や肩、背を撫で、なだめるように優しく叩くが、ユキは少しも収まらない。
 泣きながら、身体が溶けゆくような安堵をユキは全身に感じていた。胸を、背を、京の温度に包み込まれて、涙は次々溢れてくる。
 ここまで感情を解放したのはどれほどぶりになるだろう。
 泣き続けながらユキは思う。
 だけど、京だからこそ見せられる。
 京にだったら何でも言える。何でも話せる。喜びも悲しみも、恥だって誇りだって。
 京のそばなら自由でいられる。そう強くユキは思いを噛みしめる。
 だってそう、この人のそばが。
 一番安らぐ、自分の居場所。




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