日が沈んだ。群青の空に小さな星が瞬き出す。
「……なぁ、落ち着いたかよ」
小さくしゃくりあげるユキの肩を抱き、京は尋ねた。俯いたまま、ユキは無言で頷く。京は安堵し、その白い額に口づけを送った。
京の服の袖口を、ユキはそっと掴んだ。京を見上げる。
「京、本当に、おうちへ帰ろう? おばさま、待ってるから……」
「……」
赤いままのユキの目を、京はじっと見つめた。ユキはただ、何も言わずに京の返事を待っている。
「……分かったよ」
その透明な瞳に負けたように、京は頷いた。
ユキによって鳴らされた呼び鈴への返事もそこそこに、京の母はまろぶように表に出てきた。
「ああ……京……!!」
息子の顔を見るなり、母親は息子を抱きしめた。京はきなくさいような顔をして、黙って母親に抱きしめられるままになっている。それを見、ユキはまた、目を潤ませた。
「ねぇ、おばさま……京が、京が……」
「うん、ユキちゃん、そうよね……」
瞳に柔らかな光を浮かべ、京の母は幾度も頷く。門灯に照らされるその笑顔が、薄く化粧されていることにユキは気づいた。よく見てみれば、京の母はユキが幾度となく見てきた仕事用のスーツに身を包んでいる。
「おばさま……?」
いやな予感に表情を曇らせたユキに、京の母は頷いてみせた。
「……仕事の電話が入っちゃったところでね……これから出るのよ」
「そんな」
「行かないわけにはいかないから。だから」
京の母は不意に手を伸ばし、ユキの手を引っ張って京に背を向けた。
「今日は泊まっていきなさい。家の中はだいたい分かってるわね? 何でもユキちゃんの自由にしていいから。あのぼんくら息子に何でもぶつけてあげて」
ユキにしか聞こえない声量でそう耳打ちする。ユキは声を失った。
「京をお願いね。あなたなら安心。あなたしか、いないわ」
母は息子を振り返った。
「京、話したいことはたくさんあるけど──お母さん今日は向こう泊まりだから」
きっぱりと、京にそう言い放つ。
「え──」
京は無防備に唇を開いた。
「それじゃあね、二人とも。ああ、明日は帰りは遅くなるから、心配しなくてもいいわよ──」
そう言い残して京の母は颯爽と去っていく。母親の言葉が頭にこだまして、ユキは、ユキと母との会話を知らず立ち尽くしている京よりも、さらに茫然としていた。
暗い屋敷の中を、ユキは迷う様子も見せずにリビングへ向かっていく。次々と電灯を点け家の中を明るくしていくユキの後ろ姿を、京は半ば呆れながら追っていた。
自分がいない間、ユキがこの家に幾度となく出入りしていたであろうことは、台所に足を踏み入れ、戸棚に向かって手を伸ばそうとするユキの様子ですぐに分かった。
ひょっとしたら、俺がいない間もおふくろを気遣ってくれていたのか──京はそう思い、胸が苦しくなった。
「ユキ──茶ぐらい俺が入れるぜ」
我ながら柄にもない言葉だと思いながら、胸の痛みをごまかすように京はそう言った。しかし、ユキは京がそっけなく感じるほどにあっさりと首を横に振る。
「いいよ、私がするから」
「なんでだよ。そのくらい俺にやらせろ」
半ば強引にユキの横に割り込むが、戸棚の中を見て手を止めた。
「えーっと……」
久々となる家で、勝手をすっかり忘れてしまっている。どの缶が何の茶葉入れだったか……。見るからに惑っている京の後ろ姿を見て、ユキはくすりと笑った。
「ほら、京はゆっくりしてて。お茶が入ったら呼ぶから。おうちの中を見て来たら? ほんとに久しぶりなんだから……」
そう言いながらユキは缶の一つを手に取り、次にてきぱきと湯を沸かしにかかる。京が手を出す隙もなかった。
「……ああ。そうする……」
しぶしぶそう言って、京は居間を離れた。
廊下を歩き、家の中を、次の間、座敷と見て回る。この家を出ていった頃と特に変化があったようには見えなかった。古びた掛け軸も、床の間に生けられている花々も。
どこも変わらない。変わっていない、自分の家。
踵を返し、京は二階への階段に向かった。一段一段、ゆっくりと登っていく。
自分の部屋の戸の前に立つ。一つ息を吸い込んだ後、扉を開いた。
手探りで電灯をつけた瞬間、京は軽い眩暈を覚えた。あまりにも記憶と変わらない光景だったからだ。……机、本棚、シーツのかかったベッド……まるでこの部屋の持ち主が、昨日出ていったかのように。
もともと使ってなかったみてえな部屋だったけど……。
椅子に腰かける。
階下では、ユキが立てる物音が続いている。
……ユキ。
目を閉じ、京は胸に呟いた。何よりも京に安らぎを与える、その名を。今まで何度、その名を呼んだか分からない。
会いたかった。ずっと。それこそ、気が違いそうなほど。
本当は会いたかったのだ。思い焦がれて、魂だけでも彼女のもとに赴きたいと、幾度願ったことだろう。
きっと次に会えた時は何を話そう。どんなことをしてやろう──そんなことさえ、まるで夢を見るように──思い続けていたはずだった。
それなのに、いざユキを目の前にすると何を話していいのか分からなくなる。どうして帰ってこなかったのか、一体何があったのかと──そう聞かれるのが怖かった。
本当は自分から話すべきなのだと思う。だが、京は決して、これまでに何があったのかをユキに話すつもりはなかった。
思い出したくも無いのだ。
一体誰が信じるだろう、滑稽めいたこんな話を。あの夏のKOF、その最後に、神楽ちづるがあれほど怖れていたオロチが自分たちの目の前で本当に甦った。千八百年前と同じようにそれに立ち向かい倒した、草薙と神楽と八神……三種の神器の自分たち。その戦いで力尽き、倒れてしまった後に……ここからが冗談にもならない話だと京は思うのだが……「ネスツ」と名乗る謎の組織に拉致されてしまい、己の姿と力をそっくり模したクローン人間を作られて、草薙の力、炎までもを奪い取られたことなどを。
京は拳を握った。指の隙間から、小さな炎が噴き上がっては消える。
ここまで回復するのにさえ相当の時間を費やした。
あの時のことを思い出すと、京は今でも全身が凍り付く思いがする。
あの組織に囚われた場所で見た、あの光景──。
目が覚めたのは固いベッドの上でだった。身体には訳の分からない管のようなものが無数に張り付けられていた。全てを引きちぎり、冷たい床を蹴るようにして部屋の外に出て……そこで見たものは、累々と連なる「自分」の死体だった。自分と寸分違わぬ同じ顔をしたものが、合わせ鏡の影像のように延々と連なり、積み重なっている。
訳が分からなかった。
なぜこんな光景が在るのか。何がどうなったら、一体。
こいつらは誰だ? どうして俺と同じ顔をしている?
得体の知れないものに対する恐怖心のまま、ほぼ無意識のうちに炎を放ち、目の前の「もの」たちを払おうとした。
だが、炎は出なかった。掌からは、泣きたくなるような小さな光が漏れ出ただけだった。
悪夢のようだった。
ここがどこだかは知らない。それでも、京は直感的に理解した。何のために自分が囚われ、そして目の前に転がる「もの」たちが作られたのかを。
誰だかは知らないが、草薙の力を利用しようと考えた人間が居たのだ。それで自分は捕えられたのだ。
炎の力を奪われてしまった。草薙の炎を。血の証を。夕陽の色、太陽の輝き……。
俺は……誰なのだ?
そう思った。俺は誰だ。ここにいる「自分」は誰なのだ? 本当に自分は草薙京なのか。炎が出せない。そんな「草薙京」がいるのだろうか。本当は「本物」の「草薙京」はもう死んでしまっているのではないか。本当は「自分」は、この床に落ちている「もの」たちと同じ、「草薙京」と同じ顔をした「もの」なんじゃないのか……?
異常としか言えない光景を目の前にして、何一つまともに考えることができなかった。足元が崩れ、千尋の底に落ちていくような恐怖の中で──一人の少女の笑顔が浮かんだ。
ユキ──。
ユキは穏やかに笑っていた。京が惹きつけられてやまなかった、あの笑顔で。すがりつくように京はユキのことを思い出していった。自分を呼ぶユキの声、自分だけに向けられたあの微笑み。彼女と重ねた幾つもの時と思い出が、京の形を作っていく。それで京は己を取り戻すことができた。自分の中にあるユキとの記憶、ユキのことを思い出す時は京は京でいられたのだ。
椅子にもたれ、京は深く息を吐き出した。
どれほどその顔を見たかったか。……だが、組織を潰すまでは帰れない。
帰れば、自分を捕えたあの組織はユキの身まで狙おうとするかもしれない。ユキは普通の高校生だ。非合法の存在を相手に、自分を守れる力などない。彼女を巻き込んでしまう、そんなことができるわけがない。だから紅丸や大門にすら、自分の無事を知らせなかったのだ。自分のために彼らまでが面倒に巻き込まれることになるのはどうしても避けたかった。
それからは、組織を潰すために一人動いていた。
そして……それがようやく終わったのだ。
あの組織は潰えた。あの褐色の肌に銀の髪を持つ少年と、彼の仲間たちによって。戦闘力を弄ばれただけの自分とは違う、もっと深いところから人生を狂わされてしまった彼らによって。
もう追われることはない。そうはっきりと思えたからこそ、帰ってきたのだ。
必ず帰ると約束した。その約束が、自分を生かすたった一つの力だったから。
京は椅子から立ち上がった。部屋に目をやる。
机の上には埃一つ見えない。本棚にも。
手入れが行き届いている。
自分がいないときも、あの母は。
そうだ、父親がいなくなったあとも、母は父の部屋の手入れを怠ったりはしなかった。
足音が落ちた。京は振り返る。
ユキが立っている。澄んだ瞳が、揺れている。
「……ユキ」
名を呼んだ。会える日を願っていた。そして、それと同じくらいに……思われていた。
足を踏み出したユキを、迷いなく己の胸に飛び込んでくるその体を……京は正面から受け止めた。
「ホント……待たせたよな」
ユキの髪に頬を寄せ、そう言った。巻き込みたくない一心で、一度も連絡しなかった。どれほど不安だっただろう。
「いいよ」
「ごめん」
ユキは首を横に振る。
「京……おかえり……」
それだけを、言った。
「……うん」
京は泣きたくなった。
「ただいま……ユキ……、ユキ」
「……?」
ユキは京を見上げた。その目を深く京は見つめた。
伝えたいことはたくさんあった。
闇の中で支えとなってくれたこと。立ち上がる力を与えてくれたこと。変わらぬ心で待ち続けていてくれたこと、約束を、自分を、信じていてくれたこと……。
ユキの頬に雫が落ちる。
「……ありがとう……。ユキ……ありがとう……」
京の心が真空となった。ユキの頬に雫が落ちる。ただひたすらに強く、ユキの身体を抱きしめる。ユキのぬくもりを求めるように。
背中に、優しく手が回された。
気が付いた時には唇を合わせていた。
幾度も深い口づけを重ねる。
繰り返すほど切なさが募る。
柔らかな褥に倒れ込む。
会いたかった。会いたかったよ。
互いの耳に熱く囁く。
狂おしい吐息が交じり合い、重ねた素肌が熱を帯びる。
想いを、命を、一心に傾けて。
この瞬間に、全てを懸ける。
水色の光が部屋の中に満ちていた。
夜明け前の空の光……カーテンを透して部屋中を染める輝きに、京は心地よく身を浸していた。その腕に、ユキの身体をしかと抱いている。
腕に眠る恋人の姿を京は見つめた。寝乱れた髪、白い肌のそこかしこに残る夕べの跡。何もかもが愛おしかった昨夜のユキを思い出し、こみあげる愛しさのまま、京はその前髪に口づけた。
ユキがわずかに身じろぎをした。瞼が開き、明るい薄茶の双眸が、京を見た。
「あ……」
まどろんでいた様子から、たちまちにユキは目を覚ます。自分がどうして京の隣で目を覚ましたのかを思い出したようだった。羞恥に頬が真っ赤に染まる。
その表情がまた愛おしく、京は我知らず微笑んだ。
「ユキ……おはよう」
そう言って、京はユキの額に唇を落とす。
「おはよう……京……」
恥じらいながら、花のような笑顔でユキは微笑んだ。優しく、口づけを交わし合う。
手をつなぎ肌を合わせて、刻々と冴えゆく夜明けの光を見つめていた。
「なあ、ユキ……」
京は言った。ユキは瞳を上げる。
「今度のことだけどさ。こういうことはこの先にもあるかもしれねえんだ……。すまねえけど、もうない、なんてことは言えねえ」
こんな時に何を言うのか……京は自分でもそう思ったが、言わずにはいられなかった。
格闘大会であればまだいい。だが、もしかしたらこれから先にも、第二、第三のああした存在が、自分を狙うようになるのではないか。草薙の特異さに目を付ける者たちはまたどこからか現れるのではないか。京にはそんな予感がある。そして己は、それから逃げることはしないだろう。向かってくるのなら立ち向かう。戦うことをやめないし、やめることなどはできはしない。それが自分の生まれ性なのではないかと、京は思う。
「だから、ユキ……」
低く京は言った。
「またお前を置いて出ていくこともあると思う。さんざん待たせたってのに、本当に悪いって思う。だけど、俺は……」
言い切ることができずに、声を途切れさせてしまう。
静かに、ユキは京を見つめていた。手を伸ばし、京の頬に触れる。京はユキを見た。子供のように無防備な表情になっている京に、ユキはそっと笑いかける。
「京…………本当にバカなんだから……。どうしてこんなときにそんなこと言うのよ」
「……」
返す言葉も無いように、京は赤面して押し黙った。
「だけど、京の言ってることは分かるよ。これからも戦いに行くことがあるって……そうよね?」
「……ああ」
京は頷いた。ここまでのことがあったというのに。ユキや、周囲の人たちに心配をかけたというのに。それでも、戦うことをやめられない。
戦いが自分のすべてであるとは思わない。しかし、それでも……。
「京……」
ユキは言った。
「大丈夫よ、私は……。それが京だっていうこと、もうちゃんと分かってるから。今まで色々あったもの。心配なのは変わらないけど……でも、京には京らしく生きててほしい。それに、何があっても、京は必ず私のところに帰ってきてくれるって分かったから……」
「ユキ」
「京……私は、そばにいるよ。離れていても、私は京のそばに……」
京はユキを見つめる。ユキの手に触れ、強く握った。
「……一生」
京は言う。
「ずっと。俺の、そばにいてくれ」
「京」
ユキは京の瞳を見つめ返す。その頬が、薔薇色に染まっていく。
「うん。京……ずっと、ずっと……」
はっきりとユキは頷いた。そっと、京の手を握り返す。京は笑った。ユキも微笑む。
「ずっと……そばに……」
お互いの身体を深く近づけ、隙間の無いほど強く抱き合う。
手を携え、心を寄せ、二人、生きていく。
新しい約束を共に誓う。
闇払う朝日の、輝きの中で。
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