〜 月夜 〜





 寝静まるパレスの夜更け、強い光を瞼に感じてシーマは眠りから目を覚ました。
 寝室中が青白い光に満ちている。
 月光……。
 夢うつつに、そう思った。
 満月なの……。
 寝返りを打つと、窓辺の椅子に腰掛けているサムソンの姿が目に入った。窓の外を見上げているようだった。くせのある青い髪が月の光を受け、白金のように輝いている。
 シーマは身を起こし、ベッドから降りた。小さな天窓から注がれる光は隈なく部屋中を照らし出し、シーマの姿を蒼く染める。
 シーマが近寄る前にサムソンは振り向いた。
「すまぬ、起こしてしまったか……」
 己が羽織っていた上着を脱ぎ、シーマの肩にかけようとする。シーマは素直にそれを受け取った。
「ううん、そんなこと……。それよりもどうしたの……?」
「月を、見ていた」
 空へ顔を向け、サムソンは短く答える。その言葉に、シーマは窓枠にそっと寄りかかった。満月が、鏡のように光っている。
「きれい……」
「ああ」
 シーマはもう一つ椅子を持ち出し、サムソンの隣に腰かける。
 言葉も無く、二人で月を見つめる。
 長かった戦争が終わってから、大陸の七王国はマルス王のもとで一つとなり、その治世のもとで世界は平和な時を刻むようになった。グラの王位を返上し、一人の娘に戻ったシーマが、サムソンと共にパレスに住まうようになってから暫くになる。シーマはこの王都で幾度となく月の満ち欠けを見てきたが、それでも、これほど強く輝く夜は珍しいように思えた。だからこそサムソンも起き出して、月を眺める気になったのだろう。
 窓から見える家々の屋根が、霜を置いたように輝いている。戦乱に荒れたパレスの街も、ゆっくりとではあるが昔日の美しさを取り戻しつつあるようにシーマには見えた。
 街と、月夜と。シーマの胸に、降る想いがある。
「サムソン……」
「ん?」
 何気なくサムソンはシーマに目を向けた。彼にまともに見つめられ、シーマは思わず俯いた。共に過ごす時を重ねても、内気な性格であるシーマからは、今でも少女のようなはにかみが消えない。
「い、いや……何でも無い」
 思わずシーマはそう言ってしまった。寡黙な性質のサムソンは軽く頷いてみせただけで、また大空の月に目を戻した。頼りない自分に心の中で苦笑しながら、シーマは一人、想いを胸に仕舞いこんだ。この想いは、言葉にすれば消えてしまうような気がした。
 静かな夜。月の光。この穏やかな夜にこうしていられるだけで良かった。何も言葉を交わさなくても、サムソンと二人でこうしていられるのなら。
 サムソンはいつでもシーマのそばにいて、彼女を静かに支え続けた。シーマの立場や取り巻く状況がどう変わっても、己の態度を変えることはなかった。その意思を常に、言葉よりは行動で示していた。そして今でも最も近く、シーマのそばにいる。
 自分は幸せだと、シーマは思う。誰よりも想う人に想われているということが、こんなにも満ち足りた気持ちにさせてくれるということを、シーマは初めて知った。こんな時が自分の人生に訪れようとは、思いさえもしていなかった。
 サムソンは……どう思っているのだろう?
 月から目を離し、そっと彼に目をやろうとすると、青い瞳とぶつかった。
「!」
 思わず息を呑んでしまう。いつからか、サムソンはシーマを見ていたらしい。その眼は深く、優しかった。
 シーマは頬を染めた。自分が何を考えていたのか見透かされる気がして恥ずかしく、サムソンから目を逸らしてしまう。
 サムソンは小さく笑った。
「お前は、すぐに顔に出るな」
「それは……」
 シーマは言いかける。
 あなただから。私の全てを受け止めてくれる、あなたの前だから……。
 そう思いはするのだが、恥ずかしがりやのシーマはそれ以上何も言えずに、ただ彼を強く見つめた。
 マゼンダがかった焦げ茶の瞳を、サムソンはまっすぐに見返した。感情が素直に表に出ている。亡びゆく国の王として自分自身の心を隠し、国のために虚勢を張り続けたかつての彼女はどこにもいない。王位を捨て、国の重圧から解放されて、彼女はやっと己の自由を手に入れたのだ。
 重い鎧を脱ぎ去り、身一つで己の胸に飛び込んできたこの娘が、サムソンは限りなく愛しかった。己が持っている何に換えても、守ってやりたいと思う。
「……そ、そんなに見ないで」
 サムソンの視線に耐え兼ねたのか、月の下でも分かるほどシーマは頬を真っ赤にさせる。サムソンは笑った。
「シーマ、明日も早い。もう眠ろう」
 サムソンはそう言い、立ち上がる。シーマは困惑した表情でサムソンを見、月を顧みた。名残惜しいらしい。それを感じ取ったサムソンは、無言で彼女のそばに立つ。少し屈んで手を伸ばし、シーマの栗色の髪を撫でつける。シーマは心地よさそうに瞳を細め、サムソンの掌に己を預けた。
 月光の下、床に一つの影を落として、二人は長くそうしていた。甘く、時が流れてゆく。
「ありがとう……サムソン……」
 ややあった後、シーマはサムソンの手を取り微笑んだ。
「ああ、シーマ……」
 そう頷くとサムソンはシーマと椅子との間に腕を滑り込ませて、彼女の身体を抱き上げた。か細い悲鳴を上げて、シーマはサムソンにすがりつく。
「また、こうして月を見よう」
 寝台へ彼女を運びながら、サムソンは言った。
 何度でも、お前と共に……。
 小さく呟かれたその声に、シーマは顔を上げた。
 サムソンはそれ以上口を開かなかった。ただ、シーマを固く抱くその腕も胸も、火を秘めているように熱い。
「はい……」
 夢見るように目を瞑り、シーマは彼の体温に身を委ねた。