〜 夜もすがら 〜





 不意に、夜更けに目を覚ますことがある。かすかな風の音、鳥の鳴き声、外の物音で……。
 傭兵稼業が長かったためだろうか。常に周囲に神経を張り、深く眠ることなどできなかった時の癖だろうか。
 たった今も風の鳴る音で目覚めたのだ。風が小さな窓を叩く、ただそれだけの物音で。
 いつしか英雄戦争と呼ばれるようになっていたあの戦争が終結し、アリティアのマルス王が大陸全土を治めるようになってから、戦らしい戦は起こってはいない。自分が住まうパレスも平和なものだった。野盗の類が出ないではないが、それもアカネイアのジョルジュ率いる自由騎士団が打ち払ってくれている。
 もう、何にも警戒せずに暮らしていいはずなのに。
 剣闘士として、傭兵として半生を過ごしてきた己の荒んだ心を実感するのはこんな時だった。信じられるのは己と剣の腕だけであり、他人を信用するようなことは決してなかった。そうして自分は今までの過酷な命のやりとりを生き延びてきたのだから。
 だが…。
「…」
 傍らに、目をやる。隣に置かれた枕の上に、柔らかなブラウンの髪が広がっている。持ち主の安らかな寝息に合わせ、波打つように揺れていた。
 恋人が…今は、妻となった女性が、眠っているのだった。
 そっと寝顔を覗き込む。深く寝入っている様子だが、その手は、傍らに在る彼の手をずっと握っている。まるで、夢の中でも共に居たいかのように。
「…」
 あたたかな安らぎが胸に満ちる。部屋に射し入る月明かりを頼りに、彼女の顔をもっとよく見ようとする。
 あどけない寝顔。まだ幼ささえもどこかに見えるような気がする。一国の王女として国を率い、民の希望とその命とを一身に背負っていた時の険しさは、すっかり消えてしまっている。
 触れようとして手を止めた。
 起こしてしまうかもしれない。
 そう、思った。
 ここ数年の彼女の立場は変化が激しい。市井に隠れ住んでいた身が、ただ王の血を引いているというだけで国を治める王の立場に引き上げられ、そして今また、庶民の身へと舞い戻った。彼の前では決して顔には出さないが、周囲に順応するのに必死だろう。眠れる時には静かに眠らせ、休ませなければならなかった。ただでさえ彼女は働き者で、彼が十分すぎると思うほど、彼自身にも尽くしているのだから。
 軽率に触れて、目覚めさせてはいけない。眠らせてやらねばならない、彼女自身が目を覚ますまで…。
 己に言い聞かせるようにそう思い、彼が目を閉じかけた時だった。
 彼女の表情がかすかに動いた。
 夢を見ているのか、彼が今まで幾度も口づけてきた、愛らしい唇が小さく開いた。
「…サムソン…」
 微笑みを形作った唇から、その名が零れた。
 他の誰でもない、己の名。
 サムソンの胸に愛しさがこみあげ、同時に締め付けられるような切なさが湧き上がる。
 今までの生は彼女と出会うためにあった。
 そして今、彼女に選ばれてここにいる。
 彼女を守るため自分は生きる。誇りが胸に満ちてくる。この思い、泉のように湧き出る気持ちも、彼女が教えてくれたもの。初めて愛し、信じた女性…。
 今すぐ強く抱きしめたかった。その唇に唇を合わせ、想いを彼女に伝えたかった。
 愛している、愛している、シーマ…。
 焼け付くようなその思いを、それでも、必死の思いでサムソンは堪える。
 安らかな寝息が耳に聞こえる。信頼する者に身を委ねる、安心しきったその息づかい。
 燃え盛る情を胸に封じ、サムソンは彼女の髪の一房を手に取り、身も心も砕けてしまいそうな想いを込めて、口づけた。