〜 空草子 〜







 波がかった髪を腰まで垂らした長身の娘が、足早に廊下を駆けていく。
 切れ長の瞳は必死の光を宿し、誰かを探しているようだった。
 広い広い屋敷内、ふと娘は、母屋に近い庭木の下に草履が置かれているのに気が付いた。
 すぐに地面に降り立ち、白い足袋が汚れるのも構わず木のもとへと急ぐ。
 根元のうろに隠すように、それでもきちんと揃えられた草履があった。
 濃い藍色に染められた鼻緒。娘のよく知る、少年のもの。
 娘は空を、高く見上げた。


 真っ白な入道雲が東の空に沸き起こっている。
 雨が近いのかもしれない。
 迫るように盛り上がるそれの他には、雲一つ見えない。
 目に染みるほどの青空を眺めつつ、道磨は、大きく欠伸をした。
 屋敷で最も空に近い場所。木を伝い屋根に達した道磨は一人、寝そべっていた。
 七夕の日は晴れるだろうか…。
 ぼんやりとそう考えてしまってから、はっと我に返る。
 何を言うのか、自分は。
 思いを打ち消すかのように、陽光に暖められた瓦の上で荒く寝返りを打とうとした。
「道磨」
 声がかかった。
 寝転んだまま目だけを向けた。
 彼のよく知る人影が、さかさまになって映った。颯爽と輝く白袖が眩しい。
「静」
 やや、慌てたように道磨は首を引っ込めた。
 静は猫のように四つん這いになりながら、瓦を渡ってくる。
「こんなところで何してるん」
 穏やかに聞いてくるが、その落ちついた声の中には微かなとげがあった。
「もうすぐ七夕やん、分かってるでしょ」
「……」
 道磨は黙り込んだ。
 道磨の生家、一条家は古くから続く神官の家系である。
 文月、家をあげて星を祀る七夕の日はすぐにでも巡ってくる。血脈そのものは古いがその規模となると決してそうではない一条神社も、その間ばかりは大勢の人で賑わう。住吉、出雲の大祭とまではいかないが、星を見、天を読む一条家にとっては大切な祭りなのである。
 道磨の父親の幻貌も母親の光明も、日々その準備に明け暮れている。彼の姉妹である姉のひかりと妹のあかりも、母光明について祭りのことを学んでいた。
 祭祀を執り行うのは当主の幻貌だった。彼は他所の家から一条へ入った婿であり法力らしい法力を持たないのだが、一般向けの表の儀式であれば、彼程の器量なら難なく行える。
 一条の名を負う者の誰もが忙しい。
 光明が生んだ唯一の男子、嫡男の道磨がこんな、屋根の上でのんびりとした時を過ごして許されるものではない。
 そのはずなのだが。
「静こそ、ねいちゃんとの神楽合わせ、せんで大丈夫なん?」
 静の髪や袖から清めの香が立ち昇っているのに気付いたか、逆に道磨は問うた。
 神社に働く巫女の中でも年長であるひかりと静は、七夕祭りで神楽を舞う役を受けている。生来、病弱な性質であるひかりも、星祭りの間だけは何としてでも起き上がってきた。それこそ道磨のものごころつく前より病臥を繰り返してきた姉ではあるが、その身に流れる一条の血に偽りは無い。
 誇りを持っている。
 静は首を横に振った。
「ウチのことはええねん、ひかりさんも待つ言うてくれてはるねんから」
 だから時間を取らせないように。
 言外にぴしりと針を含ませ、静は隣に腰掛けた。
「朝からぼんさんがおらへんって、みんな騒いどったで。ウチもどこ行ったか思って探しにきたのに…さあ、降りぃよ。あかりも小母さんからいろいろ教えてもらっとる。道磨は小父さんから勉強せなあかんのやろ。跡継ぎやねんから、道磨は」
「説教くさいなぁ、小言言うてると聖みたいになるで」
 静やあかりと仲の良い、三つ編みの少女の名前を出す。道磨としては本心を言ったのだが、間が悪過ぎた。はぐらかしたようなそのもの言いに、さすがの静も色をなす。
「道磨!」
 鋭い声が飛ぶ。何があっても大抵は表情を変えない静に怒鳴られて、道磨は小さくなった。
「…だってオレな、親父の姿見とったら空しぅなってくるねんもん。オレはこのまま大きくなって、親父の跡を継ぐんかなぁて」
「え?」
 先ほどの激情は嘘のように、静は元の静に戻って、訝しげな顔をした。
「そらそうやん…何かあかんの」
「だってねいちゃんやあかりほどには法力持ってへんねんで、オレは」
 妹とよく似た猫のような瞳が、まっすぐに静を見据える。
「それなのに一条家継ぐなんておかしないか?そら親父も法力は持ってへんけどさ、ヨソからの入り婿やもん。むしろ何で親父みたいな力の無い人間がお母ちゃんのムコとして選ばれたんかも分からんくらいや。でも、オレはな、」
 そこまでで、静は道磨の言いたいことを察した。
「道磨、もうええ」
 ひとこと言って、少年を黙らせる。
 その先にあるだろう言葉は、少年に口に出させるにはあまりに寂しいと思ったのだ。
 道磨の母親である一条光明は、稀代の存在と呼ばれるほどの陰陽術の使い手である。
 道磨はこう思っているのかもしれない。
 その光明のれっきとした血を受け継ぎながら、何故己はこうなのか。
 もし道磨が陰陽師としての能力を求めているならば、そのことは不運と呼ぶしかなかった。もともと一条家は女のほうが陰陽の術に長けた器を持って生まれてくるのだ。
 道磨はそのことを知っている。知っているのだが、それを納得しようとするには姉や妹の力が強過ぎた。大陰陽師、一条光明の血と力を色濃く受け継いだ姉妹たちは、ともにはたちに満たぬ若年でありながらその内に秘めた能力は母をも凌駕すると言われている。
 男に生まれたという理由だけでは割り切れないものが、道磨の心中にあるのかもしれない。
「…道磨、だからってな、祭りの準備をさぼってええ理由にはならんやろ」
 背を向ける少年を諭すように、あくまで穏やかに静は言った。
「それに、例え法力が無い小父さんでも、立派にご当主のお役目をこなしてはるやん?道磨はひかりさんやあかりみたいな力を持って生まれてはこおへんかったけど、小父さん譲りのものごとをよく覚えてよく考える力があるやん。だから、いまはよう勉強して…」
 ゆくゆくは陰陽のことを姉妹たちに任せ、己は己にできることをやっていけばいい、当代、父親と母親がそうしているように。
 そう、言おうとしたのだが。
 静は控えた。仮にも一条神社に仕え働く巫女手伝いの身で、世話先の家の内に関わることを口にしてしまうのは憚られるような気がしたのだ。それに、この発言は道磨の陰陽師としての可能性を否定していることになる。
 厄介なことというべきか、道磨はそれでも一条光明の子息、法力を全く持たないという訳ではないのだ。ただし全く一条家の男子としては平凡、むしろ中の下のような域にあるのだが。
 しかし道磨はまだ若い。ひょっとすると、ということもある。
 もしかすると本人もそれを期待しているのかもしれない。
 そこまで考え静はふと己を省み、いよいよ自分が心配屋であることを自覚する。我のことでもない少年のことを、こんなにも考えてしまっている。
 何でウチがこんな心配せなあかんのかなぁ、お母さんやお姉さんゆうわけやないのに。
 優雅な唇が、笑みの形を取る。
「何笑っとんの」
 含み笑いが漏れたのか、背中を向けたまま道磨が言った。
「何も」
 言って静は、それと分からぬように居住いを正した。
「なあ静、もうええやろ。オレは今日は動かへん。ひかりねいちゃんにも道磨は見つからへんかったって言うたらええやん、オレ一人がおらんでも親父が何とでもしよるわ。星祭りがどうなろうとオレには関わりない。もう、何もかんもどうでもええ」
 もぞもぞと動いて、横臥したまま腕を組む。そのまま微動だにしない。
 ふりだしに、戻ってしまった。
 まさか本気で言っているのではないということを静も理解していたが、今はどう言っても聞く耳を持たないだろう。あかりにもそんな風がある。兄妹揃って強情で、我を張り通す性質があるのだ。
 こういう時はそっとしておいたほうがいい。
 頭では分かっていたが、このまま甲斐無く退がるのも腹立たしい気がする。せめてその顔を見てやろうと思った。気付かれぬように、そろそろと近付いた。
 目は開いている。少年らしい柔らかな頬に、真菰の葉のような髪がひらひらと揺れている。
「…そういや」
 道磨は小さく、呼びかけた。半分、静はもう居ないとも思っているのかもしれなかった。
 静は返事をする代わりに、足を動かし衣ずれの音を立てさせた。
 安堵したように、声が拡がる。
「静、何でここが分かったん…どうやってここまで来てん」
 今更といえばこのうえないような問いだった。呆れつつ、静は答える。
「何でて、木の下に草履なんか揃えとったらまるわかりやで。ハシゴ使うて登って来たんよ」
 そう言った途端、道磨は唐突と思えるほどの勢いで身体ごと静の方向を振り返った。
「アホやなお前高いトコ苦手なんやろ?!落ちてケガしたどないすんねん!」
 一息で叫んだ。
「…あ」
 思っていたよりも近い場所にあった静の顔に、道磨の瞳が皿のように丸くなる。
 互いの息が吹きかかるような距離で、少年の目を見つめ静は微笑した。
「何もかんも、どうでもええんとちゃうかったん?」
 その頬に、その耳に。赤く血が昇っていく様が手に取るように見えた。
「う、うるさいなぁ」
 顔中を茜色にして、がたっと、道磨は立ち上がった。
「降りる」
 短く、言う。
「ねえちゃんも困っとるやろうから。ねえちゃん、いっつもこういうときに無理して後で具合悪なったりすんねん」
 そして蚊の鳴く声で呟いた。
「…オレも親父の手伝い、してくるよ」
 予想もしなかった言葉に、暫し静は瞬きを忘れた。
「それでええんやろ」
 肩ごしに静を振り返る。頬に紅色を残しながら、少し、怒ったように。
 静は頷いた。我知らず笑顔になっていたのだろう、照れなのか、道磨は更に渋面を作った。
 母親似の面差しが難しい顔となると、どこか父親に似る。


「なんでオレなんかに……」
 静を先に梯子へ行かせ、地に足を着けたあとに道磨は言った。
 静は答えなかった。ただ、柔らかに微笑む。
 道磨は鼻をそびやかした。
「…フン、どうでもええわ。…でも、もう二度とすんなよ」
 今度は静が目を見開いた。
「それはこっちの言葉やで」
 間髪を入れない静の応答に、道磨は容易に言葉に詰まる。
 己の草履を静のほうへ押しやって、渡殿へまっすぐに歩いていった。
「…世話かけた」
 最後にそう言い残し、ぱっと道磨は駆け出した。広大な屋敷に吸い込まれるように、すぐに姿が見えなくなった。
 残された静は、土と瓦に汚れた足袋をそっと草履に通した。
 その大きさも、今は静と変わらない。
 でも、いつかは?
 道磨の消えた先を、いつまでも静は見つめ続けた。

 天に近い梢の中央で、百舌鳥が高く、鳴いた。