〜 花嵐 〜
朧月夜。
月影が淡く、丘に開いた桜に落ちている。
一つ舞い降りた花びらに、白い子犬がじゃれかかる。花とともにくるくる廻る。
どこからか伸びた、骨ばった手がそれを押さえた。たちまち子犬は抱き上げられ、そこに寝そべっていた男の懐に引き寄せられる。
子犬は暴れ鼻を鳴らしたが、男に撫でつけられるうちにうっとりと目を閉じ、他愛もなしに眠り込んだ。
甘い春の夜風が吹く。
壮麗な樹の根に頭を寄せた、天野漂は桜を眺める。
月の光に、桜は白く透き通っている。
静かに天野は目を閉じた。瞼の裏に白影がのこる。
影の名残は、雪に似ていた
「いよっ!あんた、久々だねえ」
快く晴れ渡った、山合いの谷の宿場でだった。
行き交わす人々の中にその姿を見かけ、天野は大きく声をかけた。
鶴のようにほっそりとした、長身の娘だった。寒い日でも無いのに被っている紫色の頭巾が、その顔と頭を隠している。
天野の声に道行く幾人かが振り向いたが、その娘は顔を向けなかった。聞こえなかったのか、何か思うことでもあるのか。
「おいおい、雪さんよっ」
歩み寄り、今度は名を呼んだ。俯きがちだった頭をはっとしたように上げて、娘はやっと天野を振り返る。
頭巾の奥から覗く瞳は、蒼穹を宿したように青い。
彼女は異国の血をひくのだ。忍ぶようなその姿も、どこに居るやも知れぬ攘夷派の者どもを警戒してのこと。彼女の髪は照る日の色をしている。
「…天野さん?」
意外なように娘は呟いた。
最後に顔を合わせたのは半年ほど遠く、いやそれより前のことだったろうか。
あくまでにこやかな天野を前にして、娘…雪は、首を傾げた。
宿場の店は賑やかだった。
注文を取る声、言い交わす声。人々のざわめきは絶え間ない。
人が多い。不安げに辺りを見やる雪に、天野はなみなみと酒を注いだ。
「いやまぁ、こんなところで出会うたぁ思わなかったねぇ。あのボウズはどうしてるよ、元気かい?」
雪は会釈し、杯を受ける。天野の言うボウズ、とは雪の義弟、楓のことだった。幼き日に故あって離散した楓を、暫く前に雪は探していた。今は無事に再会を果たせたのであるが、そのことについて雪は、いや楓も、天野に世話になったことがあったのだ。
鄭重に雪は頭を下げた。
「あのときは本当にありがとうございました」
「おいおいよせやい、何にでも首つっこむのはおれのクセみてえなもんさ。しかしなんだい、こんなところをあんた一人で何処へ行こうとしてたんだい?さっきの様子だと急いでるように見えたけどよ」
問いかけた天野に、雪は答えなかった。じっと杯を見つめている。
清酒のおもてに映り込んだその顔には、思い詰めたような気色が見えた。
その花顔をしばし見つめ、天野は己の杯へ酒を注ぐ。
「ま、無理には聞かねえさ」
からりと言った。無粋な真似は好まないのだった。雪は小さく頭を下げる。
せわしげな飛脚の駆ける音が、西から東へと遠ざかっていった。
天野の杯を重ねる音が打ち続く。
しばらく宙を見つめていたようだった雪はふと、顔を上げた。
「天野さんは、どうしてこんなところに?」
「ん? なに、ちょっとした旅の途中さ。こいつのな」
言って、天野は傍らに置いていた木刀を手に取った。天野がいつも持ち歩いていたもので、少々古びている。それを天野は両手で持ち、ゆっくりと左右に開いた。
鋼の輝きが雪の目を射った。ぎらりと居並ぶ、銀色の刃紋。
仕込み杖。継ぎ目の細工があまりに自然だったので、まさか刀身が埋め込まれているとは雪も思わなかった。
天野はすぐにぱちりと閉じた。
「調子がどうも悪くなっちまったもんでな。古い知り合いに手入れをしてもらおうと思って訪れた帰りさ。ま、目的は叶わなかったけどよ」
「? どうして?」
「そいつが、もうこの世にはいねえようになってやがったのさ。仏壇には位牌があったんだ。檀那寺にも押しかけてみたんだけどよ、墓石もきちんとありやがった。長く無沙汰してただけに、驚いたねぇ」
言ってまたとくとくと、杯を重ねた。雫が大きく、跳ねた。
「まぁ、な」
それを布で拭いつつ、天野は杯を傾ける。
「人間なんて、いつどこでどうやってくたばっちまうのか分かったもんじゃねえ。そいつだって戒名彫られて墓石になれただけマシだったかもしれねえ。ただなぁ響が…そいつの娘までが消えてたのがどうも怪しい気がしてな。父親思いの娘だったからよ、余計に気になっちまってよ。なんせ世の中には恐えヤツが多いからねえ。何かやばいことに足突っ込んでなけりゃいいがなぁ…」
気軽く口を叩きながら、天野のその瞳は憂いの色に染まっている。
その飄々とした佇まいからは想像しがたいが、天野は懐深く、また人の情けにも濃やかでいる。表は軽やかに見えても、親友を亡くしその愛娘も見失った心中は、決して穏やかではないのだろう。
雪は口を開いた。
「…優しいのね、天野さんは」
「…そうかね?ヒマがあまってるだけさ。あんたもどうだい、もしもこれから時間があるんだったらよ、今夜にでも俺の相手をしてくれるかい?」
楓が聞けば耳まで真っ赤になるだろう天野の言葉を、しかし雪は涼やかにいなした。
「いいえ、私は急ぐから」
かわされた天野のほうも、雪の言葉の裏側の意味に、顔色を変えた。
異人の娘が昼間から出歩かなければならないような、火急の用。
「…まさかまた、ボウズがいなくなっちまったのかい?」
「いいえ」
雪は首を横に振る。
「今は、その逆」
「ん…?」
「それじゃ、天野さん私はこのあたりで」
言って雪は己の懐を探った。天野は慌ててそれを制する。
「おいおい、女に金を出させたとあっちゃあ天野漂の名折れだぜ。おれが払うって。いいや気にすんじゃねえよ、どうせおれの金じゃねえ、半兵衛ってケチな金貸しのフトコロからちょいと拝借してきたもんさ。ってそんな目で見るなよ、借りただけだって借りただけ!すーぐ返すよ、っと」
言いながら、とっくりを傾けた。
「おやっさん、もう一本!」
響き渡る声で言う。
「天野さんったら」
くすりと雪は笑う。
すっと、立ち上がる。やはり懐から銀を取り出し、きっちりと自分の分だけを静かに置いたのだった。
「どうか、旅のご無事を」
こちらの目を見据え、そう言った雪の瞳の光を天野は容易には忘れまい。
影落ちぬ泉の色をしたようなその瞳は、こちらが不安になるほどに深く、透明に過ぎていたのだった。
それから一年もしないうちに、天野は親友の忘れ形見、響と再会できた。
響は父親を弔った後、刀鍛冶であった父が最後に打った刀の一振りと、それを持ち去った男とを捜して旅をしていたらしい。
長く会わないうちに響は、凛とした女剣士の風格を抱くようになっていた。
その変化に天野が戸惑う間も無く、響は自分は剣士としての道を探すということを彼に伝えた。
天野は、その旅についていくことに決めた。
畢竟、浮世はうたかたの海、そうした道も悪くは無いと思ったのだ。
そうして、天野が響と旅を始めたその年…。
その冬を越えた後の全ての桜は、かつてないほどにあでやかに咲き誇った。
まるで、生命を吹き返し生まれ直したかのように。
桜ばかりではない、全ての草木、獣の佇み、水の湧き出る音ですら輝かしかった。
天野は知らなかった。此の世に、生と死を隔てる冥府への門があるということを。
かつて関わったあの優しげな少年が、大きな使命を負っていたことを。
人知らぬ陰のさだめの奔流、その渦中に、あの娘がいたこと。
そのとき、その場所に。
天と地をつなぐ遥かな光柱が輝いたことを、見た者は少ない。
まして儚き名を持つあの娘が、遥けき空へと溶けたことを知る者など。
真実を知る者はほんの一握り。
さだめを受け入れ、貫いた者たち。
天野は薄く、目を開いた。
身を起こすと胸から子犬がずり落ちて、天野の懐へ落ち込んだ。
寝ぼけてきょときょととする子犬の鼻先に、一ひらの桜がはりついている。
春の眠りの覚めやらぬまま、天野はそれをつまんで掌に乗せた。白い。
時を待たずに散りゆく花。
やがて、風に吹かれるに任せた。
天野は暫く、身じろぎもせずにそこに佇んだ。
「……帰るか…響が待ってる」
ややあったあと言い、天野は立ち上がる。
丘を下りきった頃、振り返って桜を見た。
咲いたかと思うと惜しまずに往く、その潔く、清らかな姿。
それを言わせたのは、予感だったのだろうか。
「…雪が降ったら、雪見といくか?」
零れんばかりの盛りの姿に、しかし天野はそう呟いた。
そのままひらりと、袖を翻して歩き出す。子犬は無邪気にその裾を追う。
夜の深い静寂の中、一陣の風が駆け抜けた。
散る花が高く、月へと昇った。
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