山からの風に、梅の香が濃く、漂った。
山菜を摘みに出ていた、楓は周りを顧みる。
若葉の連なる景色の中に、花の姿を見つけることはできなかったが、確かにどこかで咲いているのだろう。うららかな春の吐息が、甘く、楓の鼻をくすぐった。
楓は足を踏み替える。若草の感触が履物に伝わる。
地獄門騒動が終結してからの初めての春だった。
あの厳しい冬のうちに降り積もった雪も、今はあらかた溶けてしまった。咲き揃う花、さえずる小鳥、常と変わらぬ春の息吹は、楓の上に降るようだった。
世界は漸く、元の秩序を取り戻しつつある。まるで、何事も無かったかのように。
けれども、そんなわけはない。確かに一度、地獄の門は暴かれた。
そして再び、閉じられたのだ。太古の儀式をもってして。
楓はふっと、瞳を移した。木漏れ日の揺れる草むらに、小さな頭がしゃがみこんでいた。豊かな黒髪の一房が、風にゆらゆらとなびいている。その髪の艶は春の陽と不思議に溶け合って、紫色に光って見えた。
一条家の末娘、一条あかりだった。山菜摘みに行こう、と、楓の家まで遊びに来たのだ。あかりのそばには、彼女の護衛兼補佐役の神崎十三が、退屈そうに控えている。
「楓はーん、見て見て」
声を上げ、あかりが駆けてくる。にこにこと笑っていた。布を広げて、肩からさげた籠の中身を一度にあけた。
緑の匂いがあたりに満ちる。存分な量にあかりは満足げでいるが、少しばかり、食べられないものも混じっていた。
根からの町の子で、草花の見分けに慣れていないあかりに、楓は見本となるものを数本、渡してやっていたのだが。勉学好きで書物もよく読むあかりは、少々近眼ぎみでもあった。霞立つような光の中で、間違えたのだろう。
楓は地面に座り込んで、静かにそれらを選り分けていった。
間違いがあるということに気付いて、あかりは、あ、というような顔をしたが、すぐにその目は輝き出した。
手早いながらも一本たりとて間違えない、楓の鮮やかな手つきに感心したように、じっとその所作に見入っていた。
「すごいなぁ、ほんまよう知ってはるねんねぇ」
食べられるものだけを手渡されて、あかりは瞳をぱちぱちとさせた。
「なぁなぁなぁ、お花の名前とかもいろいろ知ってはるん?」
あかりの尋ねに楓が頷くと、それじゃあ、と言わんばかりに手を取って、野花の咲く前に楓を連れていく。
知識欲が旺盛であるあかりは、春菜を摘む間も気になっていたらしい。一つ一つを矢継ぎ早に聞いてくる。楓はそれに、丁寧に答えた。己の知る限り、答えられる限りの花の名を。
あかりは素直に感心している。そのきらきら光る瞳を見て、楓は思わず微笑んだ。
思い出したのだ。
自分にもこうしたときがあった。と。
義兄と義姉がいたころだった。春になると山に出て、こんなふうに山菜摘みをしたのだった。かごにいっぱいになるほど集めたそれらを、義姉が調理してくれた。
年若いくせにわさびが好きだったぐらいの姉の味付けは、やたらと山椒が混ぜ込んであったりととにかく辛かったので、楓がそれに手を伸ばすことはなかったが。
兄は、よく食べていたようだった。姉には見えぬよう、自分がこっそりと兄へ押しやる小皿も、すぐに空になった。山菜が好きなのか、それとも楓が全く食べないので姉を落胆させないためだったのかは、無口な人だったのでよく分からない。
そのように苦手であった春のものだったのだが、それでも楓は、毎年のように兄姉たちと山に出た。
食べることよりも、兄姉揃って出かけることが好きだったのだ。
花の名前や草の名を、兄や姉もよく知っていた。楓が問えば、必ず答えてくれた。知りたいと思うものが目に留まる限りに問い質したので、さぞ五月蝿いことだったろうと思うのだが、兄も姉も、よく相手をしてくれた。
今の楓の知識は、そのときに蓄えられたと言っていい。
だから今、あかりにものを尋ねられても、必ず答える。かつて自分が、兄姉たちにしてもらったように。
そうするべきだと楓は思う。
本当に、優しい人たちだったのだ。
「ねぇねぇ、これは?」
小さな花を持って、また、あかりが尋ねてくる。
この子も。
地獄門騒動から、何かにつけて楓を訪れてくれる。
望まず降った災禍のうちに、養父を奪われ義姉を失い、ただ一人残った義兄までもが遠ざかっていった自分を、さりげない優しさで気遣ってくれる。
今日の山菜摘みも、姉のひかりを喜ばせるためと言っていた。病弱で外出も一人ではしかねる姉に、春の息吹を運んでやるのだと言って。
山菜ぐらい、彼女の住む町であれば求めればいくらでも購うことができるだろうに。
わざわざ、自分の住むこの山の奥までやって来なくとも。
「これはね…」
一つまた、楓は答える。答えながら、思っている。
生かされている。
そんな思いを、痛切なまでに胸に食い込ませながら。
花を抱いたあかりの髪に、白い落花が舞い散ってきた。その黒髪を慕うかのように、そっと留まる。
顔を上げると、白梅が豊かに風に吹かれているのが見えた。そう遠くは無い場所。楓の感じた香の主だろう。
近いところで花は咲いていた。気付かずとも、そばにあった。
香りは心に残り、語れる人もそばにいる。
一人じゃない。
こみあげるような思いがあった。胸に溢れて、息が詰まった。おかしな呼吸をしてしまう。
あかりが顔を上げる。幾千の星を抱いたような、澄んだ瞳。
楓は笑顔を作った。花びらが、と誤魔化しながら、その髪を払ってやる。一緒に、その髪を撫でつけた。
声にできない、言葉をこめて。あまりに淡いが、放っておくには熱をもった棘にも思える、思いをこめて。
あかりは、面映そうにその手を受けていた。この優しい黒髪の少年が、あかりはとても好きなのだった。大好きな人に構われて、まばゆいばかりの白い頬が、ぽうと淡く、朱鷺色に染まった。
そうした二人を、少し離れたところで十三は見ていた。あかりの護衛役として出ていくべきか、彼女の家から役目を任されている身として、窺うつもりであったのだが。
あの御転婆なあかりが、おとなしくされるままになっている。
楓のまなざしも穏やかなものだった。
生まれたばかりの雛鳥の相擁。手と髪とだけの触れ合いだったが、十三の目にはそう見えた。
動かないことを、十三は決めた。
豪壮な彼でも野暮の意味は知っている。
彼には彼で、心に思う人がいるのだ。
春風の歌を花が奏でる。
一日、一日と溢れゆく、命の目覚めをことほぐように、雲雀が高く舞い上がった。
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