〜 星雫 〜







 氷のような月。
 澄み渡る星合いの夜。
 大空に波打つ墨染めの錦に、幾千もの玻璃星が輝いている。
 静かな半月の光は優しげに地上へ影を落とし、その娘の佇む川の淵にも、揺らめく光を宿らせていた。
 せせらぎの音が耳を打つ。娘…雪は、身動きもせず、手頃な岩に腰掛け、淵に映った、銀色の月を眺めていた。
 山奥の川べり、雪の他には動くものもなく、真夜中にただ一人、こんなところで何をしているのか…雪自身、そう思わないでもなかったが…どうしてここに来てしまったのか雪にもよく分からない。気が付けば、この場所でこうして月を見ていた。
 こんなことなら楓と一緒に一条の星祭りに出掛けたほうがよかっただろうか?
 そうも思ったが、やはり楓は一人で行かせて良かったと思う。一条の人間が、四神の長を呼んだのだ。余人の入るところはないはずだと、雪は重く受け止めたのだ。…最も、あかりからの手紙を楓は気軽な様子で受け取っていたし、まだ無邪気とさえ言っていいあかりのこと、雪が思ったようなことではなかったのかもしれないが…。
 今は一条家に逗留している楓からの手紙が届いたのは夕暮れ近い刻だった。木の葉にかりそめの命を与えられた小さき一条の使い…「式神」と呼ばれるものが届けに来た。
 濃墨で書かれたはっきりとした楷書の文には、一両日は一条の家に厄介になること、明日には必ず家へ向かうということが几帳面に記されていた。一条家の人々の様子も短くにではあるが楽しげに書き連ねてきてあった。
 よかった、と雪は思う。
 一条家には家族が多いという。楓と一番親しい末娘のあかりを中心として考えると、祖父、両親、姉と兄、そして居候分の神崎十三が一つにまとまって暮らしていることになる。あの太陽のように朗らかなあかりを育んだ家だった、きっと気持ちのよい人たちばかりなのだろう。楓を暖かく迎えてくれたことに感謝をしたかった。
 楓が帰ったら、自分からも礼状を書かなければいけない。
 そんなことも思いながら、雪は水面の月を見つめた。
 月が映る淵。ここには幼い日によく訪れた。まだ楓とも出会っていなかった頃の話だ。
 連れてきてくれたのは義兄…守矢だった。
 その頃の雪は本当に小さかった。ここを訪れる時には、必ずといっていいほど守矢の背中におぶられていた。親を失って間もなく、心を閉ざし太陽の光すら厭うようになっていた雪を、守矢はよくここに連れてきた。月の光は柔らかく、優しいことを知らせるように。
 あの時の守矢の背の温もりを雪は未だに覚えている。親と死に別れて以来、久々に人の温もりを与えてくれたのが、養父である慨世と、守矢だったのだ。
 月のある夜はほぼ毎日のように…そして、今日のような七夕の日にも、守矢はここへ連れてきてくれた。
 その夜のことを雪は未だに覚えている。忘れられるはずはなかった。鏡となった淵の水面に半欠けの月が青白く冴えて揺れている。途切れることのない瀬音。闇を駆ける禽の羽ばたき。己の境界が消え、夜の一部に溶け込んでしまったような感覚…ただ、守矢はそばにいた。ずっと手を繋いでいた。そのために雪は雪でいることができた。言葉少なに守矢が語った織姫と牽牛の伝説、七夕の昔語りを、夢のように耳に聞いていた。
 楓が新しく引き取られてきてからは夜に出歩くこともなくなった。楓ははじめから子どもらしくのびやかだったし、その頃には雪はこころの働きを取り戻して、ようやく人らしいようになっていたから。
 思えば、あまりに短い時だった。それだけに雪の心にはその頃のことが深く刻み込まれている。その思いが、七夕のこの夜に雪の足をここまで運ばせたのかもしれない。
 雪は空を見上げた。月はあの夜と同じに、地上に光を投げかけている。
 心の中で、雪はその名を呼んだ。今まで一体幾度呼んだか分からない。会いたい。会いたかった。かなわぬこととは知りつつも、心に堰は立てられない。まして今宵は、星契。
 祈るように目を閉じたその時、雪の耳は微かな物音を捉えた。後ろを振り返る。木々の間に黒い影が見えた。それは、一歩、また一歩と、足を進めている。
 土を踏む音。小石が転がる。近づくにつれ、その姿が明らかになっていく。
 雪は顔色を変えた。知っている姿だった。よく。きっと、この世の誰よりも。
 剣のように細い長身、赤い髪。
 まさか。
「…守矢…?!」
 驚きを隠せぬまま、その名を呼んだ。
 闇から抜けて、月華に姿を洗わせているその人物。
 御名方守矢が、そこにいた。



 ゆめか。うつつか。
 それとも、けして言葉には出さぬ想いが知らず体を脱け出して、あわれな幻の姿を取ったのか。
 疑いとも惑いともつかぬ思いが次々と浮かび、そのたびに泡のようにかき消えた。
「…」
 凍りついたように動けずにいる雪をよそに、守矢は無言で淵に近寄る。雪には背を向け、立ち止まった。
 水面の月が煌めいている。
 


 月影が動いた。
「……」
 沈黙は続く。
 目の前のことが雪は信じられない。守矢がそこに立っている。手を伸ばせばすぐ届くところに。
 どうしてここに。
 そう思った。
 守矢は。
 一人、旅を続けているはずだった。
 師匠が斃された五年前から…そして師の仇である暴走した朱雀の守護神を楓が倒した今も、なお。
 養父であり師匠でもあった慨世を眼前で斬られてしまったことを、守矢は己の罪としている。弟妹から養父を奪い不幸にしたのは己のせいであるのだと…。自ら、孤独の道を歩んでいる。
 闇を横切る、月のように。
「…」
 それでも。
 その旅を終えたのだろうか。帰ってきてくれたのだろうか。自分たちのところへ、共に育った、あの家へ。
 そう思ったが、雪はその考えをすぐ打ち消した。極端と思えるほど己に厳しい守矢が、そう易々と己を許すわけがない。雪は知っている。守矢はそういう人間だった。この家に本当に帰ってきた訳ではない…何の屈託もなかった幼い頃とは違っている。
 それなら。疑問は更に募る。
 なぜ、ここに…?
 声に出して聞きたかった。
「…」
 喉まで出かかった声を雪は呑み込む。そんなことを聞いて答えてくれるような守矢ではないし、聞くようなことではないと思ったのだった。守矢はここで育ったのだから。いつかはここに帰ってくるはずなのだから。無意味な問いを繰り返すよりは、守矢がここにいるということだけを大事にしたかった。
 守矢を少しでも長く見ていたかった。月のように、いつも冷たく行き過ぎてしまう、この人を。
   そう雪は思い直し、心を落ち着かせた。
 刻々と、月の位置が変わっていく。雪が見ている水面から月の姿が離れそうになる。
 雪の位置よりも早く守矢の立つ場所からでは月が水から消えたのか、守矢は顔を上げた。
 雪も、空を見た。
 淡い光の半月と、乳白色の星の河があった。
 煙るような銀漢の彼岸と此岸に、強く輝く星がある。織姫と牽牛。
 一年に一度しか会えない想い人たち…雪は、その者たちよりは自分は幸せだと思った。守矢と会えなかった時は天空の彼らよりは長かったが、十分に幸せであると。
 この人と出会い、幼い時を過ごし、共に育ったその時があるのだから。
 その上に今再びに会うことができ、何を思おうというのだろう…。
 楓がいたら。
 雪はそう思った。楓も、ここにいたら…。
「…楓、は……」
 ゆっくりと雪は言った。聞いているのかいないのか、守矢は顔も向けない。
「今、一条の星祭りに行っているの。あかりちゃんがぜひ遊びに来てほしいって…」
「星祭り…」
 守矢は呟く。
「ええ、七夕の…。年に一度の祭り。一条で一番の大きいお祭りですって」
「知っている」
 守矢の声は淡々としていた。雪は言葉に詰まってしまう。
「むかし、行っただろう」
 深い響きで守矢は言った。雪は顔を上げた。守矢は振り返り雪を見ていた。雪は守矢を見つめる。守矢の瞳、空蝉色の瞳の奥には雪のよく知る懐かしい光が宿っていた。
 雪の心に様々なものがよみがえった。守矢の声、暖かさ、封じ込めていた彼への想い。青い瞳に涙の粒が盛り上がっていく。
 地面を蹴った。
 守矢の背へ雪は飛び込んだ。
 守矢は動かなかった。拒むでもなく、背中に雪がすがりつくままにさせている。
 雪の頬を涙が伝う。星の光をくるくると映しこみながら、地に、そして頬を押しつけている守矢の背に、吸われていく。
「夢…夢みたい」
 思わず雪は呟いていた。思い出があるこの場所で、再び守矢と共にいる。夢としか雪には思えなかった。
「…夢…だろうさ」
 守矢は言った。
「こんな夜更けにお前は外に出ないだろうしおれも…ここに来るつもりはなかった。だが…」
 途切れた声に雪が顔を上げた時、
「…門は開いている。きっとまた…動乱が起こる」
 訥々と守矢は呟いた。
「雪。お前は…楓の力になれ」
 背から伝わってくるその声を雪は一言も聞きもらすまいと、必死に耳を傾ける。
「あいつが正しい道を歩めるように。師匠と同じ道をあやまたぬよう…」
 言った後、守矢はかぶりを振った。
「…いや。お前は言われずともそうしているな。分かり切ったことを…」
「いいえ…いいえ」
 雪は激しく首を横に振った。
「分かったわ。守矢。分かったわ…」
 守矢が頷いた振動を全身で受け、雪は静かに目を閉じた。
 再び、長い沈黙が落ちた。
 雪は守矢のそばを離れなかった。守矢も、離れろ、と言わなかった。
 言葉は無かった。言葉を紡げば、この永遠の時が壊れてしまう。
 目も合わせない。瞳は心を映す鏡だ。溢れ出る想いを防げない。
 声は無く、視線も外し、それでも、雪は守矢から離れず、守矢も、雪から離れたりはしなかった。
 月が動く。音も無く、しめやかに。
 星が一つ、光芒を曳き夜空に消えた。





 青い、空。
 蝉たちの声が華々しく屋敷の隅々に弾けている。太陽はすでに高かった。
 雪は、屋敷の縁側に座り、白く輝く雲を眺めていた。眩しい。夏らしい、暑い日だ。
 雪はそっと、己の頬に触れた。昨夜のことが信じられない気持ちでいる。
 月と共に守矢は去った。雪は己がどうやって屋敷に戻ってきたのかよく覚えていない。
 本当に、夢だったのではないのだろうか。
 そう思いさえするが、あの美しかった星空と、この頬にしかと感じた守矢の温もりと、そして彼の言葉は、雪の中にはっきりと残っている。
『楓の力になれ』
 守矢はそう言った。
 楓の、行く道。
 それはきっと、かつて師匠が渡った道だ。技、心、師の負っていた宿命をも受け継ぎ、楓は歩いていくのだろう。行く果ての知れない、長い道を。
 楓の力、その助けになってやりたい。彼が強くなれるよう。そして雪が常に思っているそのことを、守矢も、はっきりとした行動に示すことはないものの…思っている。
 同じことを思っている。
 膝を払い、雪は立ち上がった。
 陽が高い。楓がもうすぐ、帰ってくる。
 家の掃除をしようと思った。綺麗にした家で清々しく楓を迎えてやりたかった。
 支度をしようと、雪は足を踏み出した。
 …守矢。
 心に、思っている。
 楓はきっと守ってみせるわ。だから…あなたの道中がどうか無事でありますよう。どうか、恙なく…。
 きっとまた、次に会える日まで。
 空に、地に、蝉時雨が響き渡る。