〜 澪標 〜





 薄霧たゆとう一条家屋敷。
 当代の主、一条幻貌は鳴き交わす鳥の声に耳を傾けつ、のしのしと廊下を歩いていく。
 美しい日だった。山は澄み、風は木々と輝く。
 大気を深く、幻貌は胸いっぱいに吸い込んだ。清新な空気が肺腑を満たす。いつもと変わらぬ爽やかな日だ。
 遠き空にて未だ開ける、冥府への口、地獄門。負の瘴気を吐くその門の、世への影響はまだ薄い。
 それであるのにあの末娘は、まるで矢のように走り飛んでいった。





 やがて辿り着いた、床の間を幻貌は覗き込んだ。
 中央に敷かれたふっくらとした布団には、彼の上の娘が横たわっている。
「ひかり、調子はどないや?」
 大きくは無いが、よく響く声で彼は問うた。
「あ、お父ちゃん…」
 呼ばれた娘、一条ひかりが顔を向けた。その頬は赤らみ、細められた両の瞳は、潤んだようになっている。
 敷居を越え、娘の傍らに幻貌は腰を下ろした。
「熱は引かんか」
 数日前からひかりは体の調子を崩し、寝込んでしまっているのだった。ひかりは目を伏せる。
「うん…でもいつものことや思うよ、ただの風邪やもん」
「そうか。でも油断はあかんで、ちゃんとおとなしゅうしとかな」
 言い聞かせる言葉に、ひかりは儚げに頷いた。父親の前ということで身体を起こそうとする手には、細い血の道が青白く浮かび上がっている。生来身体が弱く、病がちな娘だった。
「…あ、そうやお父ちゃん」
 襟元を慎ましく合わせながら、ひかりはふと言った。
「十三さんと会わんかった?どこ行きはったか知ってる?」
 そう、一条家の居候の名を挙げる。
「十三がどないかしたか」
 どこか強張ったような表情で幻貌は尋ねた。  十三は、ふとした縁で一条家に住まうようになった男だった。豪放な気性ともあいまって、まるで熊のような印象を人に与える大男であるが、その野放図な見た目に反して目端がきき、細かな配慮にも気の付く男なので、幻貌は彼に、末娘のあかりの目付けを頼んでいる。
 父の表情の変化に気づかず、愁眉を曇らせ、ひかりは頷く。
「ウチね、さっきまで十三さんとあかりの話しとってん。あかり、また突然にうちを出てってしもたでしょ? そのことをお話ししとってんけど、そしたらいきなり『まかせとけ』言うて走っていきはって…それが門のほうとは違うほう向いて行きはったさかい、気になってんねん…」
「違うほう?」
「ふん。ほんまいきなり、止める間もなしに…」
「ああ、そうなんかいな…、そうやったんか」
 得心がいったように幻貌は首を振る。ひかりは訝しげに顔を傾けた。
「そうやったんか、て?」
「いやな、その十三がついさっきな、わしのとこに挨拶に来よったんや。あかりについてく、言うてのう」
 言いながら幻貌は思い出す。
 丸太のような足を踏み鳴らし、十三は幻貌の自室に駆け込んできた。
 積んでいた幻貌の書が崩れるのにも構わずに、あの団栗目をきらきらと輝かせながら、『お嬢がまた出てってもうたハナシでっけど、心配でっさかいワシもついていきます』…そう早口に言い募ったかと思うと、幻貌の返事も聞かずに出ていってしまったのだ。
 ひかりは瞬きをした。
「そうなん? それやったら十三さん、あかりについてってくれはったんやろか」
「そういうことやろのう。ただ、あかりが心配言うときながらやたら嬉しそうやったんが気になるねんけどな……ひかり、十三とどんなふうに話しとったんや?」
 大きな目で、しかし何げないふうで幻貌は聞く。昔から十三は、ひかりの頼みごとに弱かった。何か、十三を「その気」にさせるようなことをひかりが言ったのではないか。
 幻貌はそう、思っていたのだが。
 言われたひかりは、きょとんとした。すでに二十歳近いのだが、その表情は雛鳥のようにあどけない。
「どんな、て、あかりのこと言おうとしただけよ? でも十三さん、それも聞かんと行ってしもうて」
「あ…あ、そうか、それやったらええねん」
「ええねんて?」
「まあ、ええ、ええ。十三に任しとったら一応は安心やろ」
「うん」
 にこりとしてひかりは頷いた。清らかな笑顔につられ、幻貌も笑った。ただし、少々ぎこちなく。
 実はこのひかりに対し、十三がほのかな思いを寄せていることを、幻貌は知っているのだった。
 ひかりが伏せってからというもの、十三はまるで毎日のように、ひかりの元に見舞いに訪れていた。居候の身分、他にすることが無いからといえばそれまでなのかもしれないが、時に花を持ち、時に得意の三味線を聞かせに、という調子では、十三がひかりをどう思っているのかなど、火を見るよりも明らかだった。男親として穏やかでいられるわけがない。
 幻貌にとって長女のひかりは、目の中に入れても痛くない存在、掌中の珠の如き存在だった。おいそれと凡百の男を寄せつけてなるものかと、親ばかながらも思っている。
 父親としてじっとできずに、ひかりの顔を覗きにきたのもそのためだった。
 と、いうものの、ひかりから十三を遠ざけるまでには、幻貌は考えていない。
 確かに十三は豪胆ではあるが、思慮分別が無いわけではない。時にはあの並み外れて大きな身体が持て余されるのではないかと思うほど、繊細な心を見せる時もあるのだ。その十三が、ひかりに対して無体な行動を取るとは幻貌には思えなかった。どこにも保証は無いことなのだが、不思議とそれは確信できる。
 それに、末娘、あかりのことがあった。
 あかりは決して悪い娘ではないのだが、少々無鉄砲のきらいがある。十三はそんなあかりによく付き合い、助けてやってくれていた。例え、今回のようにひかりのために動いた時でなくても、悪たれ口を叩きながらもあかりを守ってくれている。
 例え役目であるからだとしても、そんな男も珍しいのではないかと思う。何しろあかりのじゃじゃ馬ぶりには、実の父親である幻貌ですら手を焼いているほどなのだ。
 幻貌は十三を信頼している。そうでなければ、いくらお転婆が過ぎるといっても、大事な娘の一人である、あかりの目付を任せたりはしない。
 それにしても、あの娘…。
「あかり…」
 呟いた言葉に、ひかりが顔を向けた。幻貌は取り繕うように咳払いをする、
「いや、あかり、あいつはなぁ…。お前も知っとるようやけど、あかりの奴、お前の風邪とあの地獄門のことを勝手につなげて出てってしもたやろ。きちんと確かめもせんと先走りよって、帰ってきたらそこんとこきつぅ言い聞かさなあかん」
 先の地獄門騒動から半年が経つ。未だ開いたままであるあの門から、毒の悪気が吐き出されていることには違いはない。しかし、それとひかりの不調とをこじつけるのは早計だった。ひかりが季節の変わり目に風邪をひくのは毎度のようなことだ。それをあかりは、姉が地獄門の気に当てられたと早合点して、鉄砲玉のように飛び出していってしまったのだ。
 あかりの欠点だった。一度決め付けてしまえば矢も盾も無い。
「そんな…あかりかて一条の役目をよう覚えてのことちゃうの?地獄門がおかしいゆうんは確かなんやし…」
 己のことを思い余ってのことと知っているので、ひかりの口調も自然に弁明の色を帯びる。
「…まぁ、それはそうなんやけどな」
 そう言うそばから、幻貌はあかりの性質を思っていた。
 誰に似たのか、あかりは気性が激しい。跳ね駒のように心が昂ぶりやすく、一度火がつけば家伝の陰陽術を滅法に操り、誰の制止も聞こうとしない。周囲を省みず思うまま振る舞い、そして失敗した事件を過去に数えればきりが無いほどなのだ。今回も一体、どこで何をしでかしてくるか…。
「お父ちゃん、そんな心配せんでも……」
 父親の顔色が優れないのを見て取って、ひかりは言う。幻貌は渋面のまま口髭をひねる。
「そうか?でもなぁ、実際わしはあかりが心配ゆうよりは、あかりに巻き込まれてまう人らのほうに申し訳が立たへん思うのんや…。お前も知っとるやろ、あいつが今までどこでどんなけのことしてきよったか」
「そんなお父ちゃん、あかりかてそう何度も無茶はせえへんて。そのために十三さんがついてくれてはるんやもん、きっと大丈夫よ」
 そう言って、元気づけさせるようにひかりは微笑む。柔らかな栗色の髪に縁取られるひかりの花顔は、父親目にも眩しいほどである。
 愛らしい笑顔に思わず頬を緩めかけて、幻貌は急に、あかりへのものとは違った不安をひかりに抱いた。
 幼いときからその軽重に関わらず病臥につくことの多かったひかりだった。ここまで生い立ったことさえ果報ではないかと思っていたものが、いつの間にか、こうして娘らしい表情を見せるようになっていたとは……。
 幻貌の心がそぞろにさわ立つ。
 十三がひかりを想っているのは知っている。だが、ひかりのほうは?
 この病弱で、おとなしやかな娘の行く末を考えると、身の細るような思いがする。
 一条家当主幻貌の、悩みの種は尽きなかった。
 そんな父親の思いも知らず、ひかりは遠くへ目を向けた。
 あかりのことを思っている。今頃どこにいるだろうか、十三は追いついてくれただろうか。怪我をしてたりはしないだろうか…。
 病の床から願うことは、ただ妹の無事ばかりだ。ひたすらそれを祈っており、そこに、十三が入る余地は無い。
 苦労を知らない、深窓の娘らしい鷹揚さだった。十三に感謝は感じてはいても、何故、十三がそこまでしてくれるのかまでは考えてはいない。考えたとしても、それは十三もあの小さなあかりを心配してくれているからだと、そういうふうに納得してしまうだろう。
 幻貌が危ぶむような感情は、ひかりは、十三にとっては酷かと思われるほどに持ち合わせてはいないのだった……。




 その頃、上方から遠く離れた港町にて、少女と大男の二人組が揃って大きなくしゃみをした。









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