〜 深山の 〜





 四方を山に囲まれた痩せた土地で、その家族は旅装を解いた。
 彼等は長く旅をしていた。知る人をも頼らぬ、厳しい道のりを。
 遠つ港町には異国よりの黒船が来航し、人心の乱れること甚だしきこのときに、養父たる慨世は家に留まるを選ばなかった。
 慨世の育てる3人の子らは、全員が父母を失った孤児である。誰一人としてお互いに血の繋がりは無く、それぞれがそれぞれの縁や故により、慨世のもとに身を寄せている。
 長子の守矢、中つ子の雪、末子の楓。
 皆辛抱強い健気な子だった。うら寂しく不便も多いこの旅路にも一言の不平も漏らさない。
 慨世とて、心のおそろしい人間ではない。血縁は無いながらも親のはしくれとして、この子どもらを安らかな場で育ててやりたい。武芸の師としてもその心は変わらない。
 しかし時代は動いている。そして子らは生きねばならない。
 閉じられた家で安まるは容易いが、幼い彼等もやがては長じ、己の道を選ぶはず。
 必ず来るだろうそのときに、風を自ら切り開き嵐に耐える人間たれと。
 慨世は願い、見聞を広め心を鍛えるための旅を続けるのである。
 子らは、そんな養父の思いをよく弁えていた。
 彼らに何より必要なのは、正しきことを読み取る知恵と、生き抜くための強さだったのだ。




 もともとその宿場にも長く留まる予定は無かった。
 が、泊り込んだその次の日より、守矢が宿を空けるようになった。
 先ほどまで宿の外れで撓を振っていたかと思うと、一刻もせぬうちに誰にも告げずにどこかへ出ていく。
 水を入れた竹筒を、真新しい布とともに携えて。
 早朝に出かけ、夕暮に戻った。
 竹筒は空となり、布は薄汚れていた。何をしているのかさっぱり分からない。
 それがほぼ毎日続いた。
 義妹の雪が、義兄の心配をし始める。一体、何処へ行っているのか。
 曖昧なことを嫌う性質なので義兄に直に尋ねるのだが、守矢は応えない。
 その切れ長の瞳でちらと雪を見、静かに首を横に振るばかりである。
 慨世を頼るが、養父もその行動の由を知りながら、好きにさせている風でいる。
 雪にとっては気が気でない。
 四つ違いの、守矢は十五。立派な大人の齢である。
 そして雪も、十一ながらに女の身。もしやと思うと矢も盾も無い。
 その日、朝も早くから草履の緒をすげる守矢の後を、とうとう雪は尾け出した。
 こそこそした真似を義兄が好まないのを知ってはいたが、そ知らぬふりも出来なかった。
 雪は幼い。己を動かすこころの様にも、未だ思いを巡らせずにいる。




 茂る熊笹を割って守矢は進んでいく。
 背をかがめ、雪もおどおどと草をかき分ける。
 守矢は鋭敏な人間だった。何をきっかけにしてこちらに気付くか分からない。
 おっかなびっくり、森を進んだ。
 枝を折らないように。
 枯葉を鳴らさないように。
 兔のように隠れながら、必死に背中を追いかけた。




 山を半ばにいったところで、守矢は立ち止まる。
 打ち捨てられたようなあばら屋の前。
 かすかに雪は見覚えがあった、山越えの中途で見たような気がした。遠巻きに見てもあやしげなその場所を、そのときはただ不気味なものだと思っただけだったのだが…。
 しかしその奥へ、躊躇いもなく守矢は消えていく。
 戸など無きに等しい。さきほど守矢が潜った穴の脇にある、腐れて苔むした板がそうだというのだろうか。
 雪も続き、隠れるように戸口に立った。
 そっと覗くと、古びたかまどのしつらえが見えた。思ったよりも中は明るい。
 明るい、というよりはよく見れば、天井が光を遮る役を為していないようである。
 板と藁を重ねただけの粗末なそこからは、陽光が束となって射し込んでいる。これでは雨も防げそうになかった。
 塵が舞うのでくっきりと強い光の帯に、守矢の赤毛が輝いている。
 そう、雪の探す守矢は、横たわる誰かの枕もとにいるようだった。
 誰…?
 青い眼は光を跳ね返す。もっとよく見ようと身を乗り出そうとしたとき、
「雪」
 思わぬ義兄の声がかかった。
 どきりと雪は凍りつく。気付かれていたのだ。
「そこにいるのだろう、雪」
 雪は戸惑い、立ち尽くした。
 どうしよう。守矢は怒るか。帰れというか。守矢の声は淡々として、感情の糸を探れない。
 とにかくは謝らなければ、隠れて後を尾けたことを。雪はそう思った。
「守矢、あの……」
 しかし言いかけた言葉は、再びの声に遮られた。
「お前一人か?」
 確かめるような声。楓は一緒か、という意味だろうか。守矢が出ていった朝早くにも楓はよく眠っていたので、強いて連れてはこなかったのだが。
「私だけよ」
 とにかくはおずおずと答えると、守矢は押し黙ったようだった。きっとその意味で正しかったのだろう。
 長く反応は無かった。
 沈黙に困って目を落とした。小さな蟻が足元を横切っていくのが見えた。
「…入ってこい」
 光を通し赤く透けるその姿が草陰に失せたころ、守矢は漸くそう言った。
 言われるまま入口を潜り、中へと入る。
 緑の光も麗しい屋内、しかしむっとするような匂いが鼻をついた。
 人の匂い。汗と脂が入り混じった匂い。
 そして。
 雪は足を踏み出す。部屋全体に満ちるこの気配。憶えがある。旅の間にそういった場ともすれ違った。立ち止まりもした。
 屋の中央に臥する影。力無き姿。
 それがこちらに顔を向ける。雪が持つ絹糸の如き髪を訝んでか、僅かに瞳が動いた。
 その肌色は蒼黒い。明かに病んでいた。
「まさかとは思ったが」
 近づいた雪を見上げて、守矢は言う。手に布を持っていた。すぐそばには新しい水を湛えた手桶。病人の身体を拭いてやっていたのだ。
 雪は知る。このために守矢は毎日のように出掛けていたのか。
 守矢の隣で足を崩した。
「守矢、この人は…」
「…」
 口を噤み、守矢は布を絞る。微かに水が曇っていく。
 病人の瞳に精彩は無い。肌は色褪せ、唇は薄く開いたままである。
 命の終焉は間も無い。それが雪にも感じられた。
「ここで」
 布の水を切った。
「生を終えたいと」
 それだけを守矢は言う。
 雪と同じくして守矢はこの場所に気付いていた。屋全体から漂うその凄惨な気配を守矢は雪よりも深く感じ取り、そして訪れた。
 男が何者であるのかは、彼自身が語らないために守矢にも分からない。
 ただ、分っていることは。
 病は男の奥底へ根付き、けして助からないということ。
 死に場所を求めていたということ。
 瞳は孤独に荒れ果てて、唇は言葉を忘れていた。
 医者を呼ぼうとする守矢にも男は決して取り合わなかった。
 助からないのは知っている。男は守矢が去るのを待った。
 しかし守矢は下がらなかった。
 男の意思を十分に察し理解しながら、それでも全ての世話を見た。
 火を起こし湯を使い、汚れを拭い肌を清め。男が尋ねれば言葉少なくも必ず応え、尋ねなければ、日が落ちるまでそこにいた。帰る場所がある故に夕暮頃には出ていったが、次の日には必ず訪れた。
 年にそぐわぬ目をしていた。孤独の色を知っている。
 その上で、男の最期を看取ろうとしている。
 男の瞳が緩慢に動いた。雪を、見る。
 雪も男を見ていた。今にも泣き出しそうな、真っ赤な顔をして。
 二人は、命の意味を知っていた。見も知らぬ他人を救えるほどに。
 ゆるゆると、男が手を伸ばす。
 迷いもせず雪は手に取った。
 瞬間、はっきりと感じ取った。
 冷たい砂を掴んだような虚無感を。消えていく命の感触を。
 祈るように、強く指に力を込める。己の熱が伝わるように。命に、届くように。
 雪の頬を輝きが伝った。白桃を転げ、朽葉に落ちて柔らかに砕ける。
 男の枯れた眦に、淡い雫がじわりと滲んだ。唇がほのかな笑みを形作る。
 それが最期だった。
 窪んだ瞳、赤と金とを宿した光が、静かに崩れて散っていく。
 ずしりと重みがのしかかった。二人はそのまま、頭を垂れる。
 空へと消えた命の行方。
 どうか。
 彼の旅の、安らかなることを。




 太陽は沈んだ。
 暗がりの山道を兄妹は歩く。
 深い穴を掘り土に荒れた手をお互いに重ねた、二人の口数は暁星に等しい。
 ぽつりぽつりと、浮かぶように。
「守矢…」
 やがて穏やかに雪は尋ねた。
「どうして黙っていたの?私たちに…」
 教えてくれればもっと助けになれた。雪はそう、言いたかった。
 師匠は全てを知ったうえで、守矢に任せていたのかもしれない。
 自分がどれほどの力になれたかは分からない。しかし、楓がいた。優しく人を思うことのできるあのおとうとが、妨げになどなるはずがない。
 静かになじる雪の声、守矢の指に僅かに力がこもったが、答えは無かった。
 風の音、夕の鳥が鳴き交すのみの静寂は暫し続いた。
 やがて宿場が見え出した頃、守矢は雪から手を離し、それより先へと進み出た。
 その背が伝えた。
「できることなら見せたくは無かった」
 感じ取ったとき、続いた声。
「悲しみは」
 そこで、言葉は途絶えた。
 知ってしまえば思いが宿る。心があれば広がっていく。
 だから黙っていた。それを貫くと決めたから。
 悲しみを覚えるのは自分だけでいい。お前たちは知らなくていい。
 声をなくして、守矢は語る。
「…」
 雪は応えなかった。それをどこかで予見していたのかもしれない。
 守矢は、御名方守矢は。
 己と何の関わりも無い病人の世話をするのに。
 今だって、闇に馴染まぬ妹のため、うまく手を引き根や枝の存在を伝えてさえくれるのに。
 そんな優しさをどうしてかいつも、己の中へと抱え込もうとする。
 先を歩く兄の背を心細くに感じてしまうのは、森の暗さのせいばかりではない。
「守矢」
 雪は守矢の名前を呼んだ。
 守矢は振り返る。泉のように静かな瞳だった。
 澱となって渦を巻く、言いたいことは山ほどあった。
 …けれども、雪は、幼すぎた。
「一人でどこかへ行かないで」
 口に出してから、自分で呆れた。
 けれどそれが、精一杯のことば。
 守矢の飴色の瞳が、僅かに瞬かれる。
 ひたむきな目をした妹に何か言おうとして、口を開いた。
 しかしゆっくりと、かぶりが振られる。
 肯定か、否定か。それでなければ自嘲のようにも見えた。
 そんな兄の後ろを雪はただ、ついて歩くしかなかった。
 けれど、ほんの少しだけ、守矢の足取りが遅くなったような気がする。
 決して言葉としては表れてこない、兄の心かもしれなかった。


 宿の前には師と弟が待っていた。
 ただ一つの慨世の瞳、そこに宿る深いまなざしを二人は感じ取った。
 彼らの姿を認めた途端、屈託なくもぱっと楓が駆け出した。
 応えて雪も駆け出しかけ、ふと、後ろを振り返った。
 静かに佇む守矢の頭上で、十四の月が囁くような光を放っていた。