〜 なべみちゃん 〜







 降るような星空の下。
 橙色の炎を上げ、篝火が燃えていた。そびえる朱の鳥居が、照り返しに赤く闇ににじんでいる。
 ぱっと、火の粉が爆ぜた。
 強く幣帛が払われる。
 純白の衣に緋色の袴、長い髪を束ねた女性が壇上で一心に祈っている。
 その前には数多の品物が積み上げられていた。古くなった鍋、足の折れた文机、心棒の折れた車輪…さまざまな古道具が山のようになっている。
 女性は、形の良い唇のうちで、しかじかの呪文を唱える。
 一つ言の葉を言い終えるたび、品々からぽう、ぽうと、光が生まれた。
 螢火のようなその光は女性の傍へ寄り集っていく。火に誘われた羽虫のように。
「…あかり、あれが見える?」
 壇より離れた場所で、一人の少女は呼びかけた。左手を一人の幼女の肩に、右手を一人の幼児の肩に置いている。
 あかりと呼ばれた左の幼女は、利発そうにこっくりと頷いた。三人とも、似通った顔立ちをしている。年の離れた姉弟と見えた。
「うん。なんやぼやあーって、光っとる」
 つぶらな瞳をきらきらとさせ、妹は言う。
「みんな、お母ちゃんのところに集まって…なぁひかりおねいちゃん、あれなに?」
 妹の言葉に、ひかりと呼ばれた姉は頷く。
「あれはな、ものおとしゆうねん。ウチら陰陽家の術よ。道具を長いこと使うとな、それに心が宿ることがあるねん。生きた心を持ったもんをそのまま捨てたりしたら祟られるかもしれへんから、術をかけて落としとるんよ」
 妹はぱちくりと目を瞬かせた。
「たたられる?」
「うらみの心がもののけになってな、人のところに悪いコトをしにいくこと。そうなったらかなんから、このへんの人はいらんようになったものは、みんなまずお母ちゃんのところへ持ってきはるんよ。それがウチら一条家の、お仕事の一つやねんて」
「ふーん…」
 光が集まり、母の前に靄のように固まった。
 ざっと音を立てさせて、母は強く幣帛を振るう。
 靄は一瞬で、煙のように掻き消えた。
「…ウチもできるようになるかなぁ」
 初めて目にした神秘の術に、あかりは頬を紅潮させている。
「あの光が見えるんやったら大丈夫。お母ちゃんの子どもやもん、そのうち必ず出来るようになるて。…て、…あ、道磨、泣いたらあかん」
 さっと俯いた弟に、慌てたように姉は言う。一方で妹は、姉の手にしっかりとしがみつく。
 じっと、光を見ていた。その行方を追うように。
 どこへ行くのだろう。
 あかりは思っていた。
 その、もののけという物の怪たち。
 母によって落とされた心、それらはどこへ、行くのだろうか、と。


 小さな草履をぱたぱたと鳴らして、あかりは一人で歩いている。
 すぐそばに大きな川の流れがあった。
 家から随分、歩いてきた。
 この間、母の術を見てからというもの、あかりは落ち着かなかった。母にもう一度あの術を見せてもらいたかった。出来れば自分に教えてもらいたい。そのために、何か古い道具を探しに来た。手本を見せてもらうにも、もののけが宿った道具が必要だと思ったのだった。
 どっかどっか、ええもんええもん。
 鼻歌を歌いながら、あかりは飛び跳ねるように河原を歩いた。
 唄でも歌い出したい気分だった。母のあの技、姉は、いつか自分にも出来るようになると言っていた。
 ものの中から光を呼び出し、闇へと払う。それが一条の仕事。
 そんなことを出来る力が、自分の中にも眠っている!
 あかりは早く、大人になりたくて仕方が無い。きっときっと、母のような素晴らしい陰陽師になって、立派にどんな仕事でもこなしていくのだ。
「あれっ」
 あかりは声を上げた。川面に、黒いものがぷかりぷかりと浮かんでいる。
「何やろ?」
 川辺に近づく。土手を下って、河原に降りた。
 あかりが目をつけたそれは、なだらかな川面をどんぶらこ、どんぶらこ、と、のどかな調子で流れてくる。
 寝物語に聞かされる、御伽話をあかりは思い出した。
 瀬に走り寄り、
「ウチのもんなら、こっちゃ来いこっちゃ来い。よそのもんなら、あっち行けあっち行け!」
 そう、叫んだ。
 言霊というものの存在もあかりは知らずにいたが、その黒いものは、突き出た石にごつんごつんとぶつかりながらも、間違いもなくあかりのそばに流れてきた。
「ウチのもんなんかいな」
 自分で驚いて、あかりはその場にしゃがみこむ。
 木を平らに割り、深々と丸くくりぬいたもの。上下に二つの突起がついて、手で持てるようになっている。表は黒漆でまんべんなく塗られて、内側は、鮮やかに赤く彩られている。
 それはみやこの貴人が使う、角盥だった。何があったか川に捨てられ、それが長く漂流してきたのだろう。
 めっけもんだと、あかりは瞳を輝かせた。
 あかんあかん、こんなん捨てたら、たたりが出るでぇ。
 小さな手を伸ばして、動物の子でも抱き上げるように高く掲げた。水が垂れて足袋が濡れたが、全く気にしない。
 随分とそれは古びていたので、ますますあかりは嬉しくなる。これほどのものなら、きっと憑いてるに違いない!
 喜々として胸に抱いて歩き出したが、幼児なのですぐに疲れた。
 地面に置いて取手を握り、あかりはとっとこ駆け出した。
 底が河原の石ころたちに、がりがり擦れた。
(イッ、イ)
 地面から奇妙な声が聞こえた。
(イッ、イッ、イイイッ)
 あかりは足を止め、後ろを振り向く。
 通行人はまばらにいるが、あかりの目線よりも背が下の者は、誰もいない。
「気のせいか」
 ひとりごち、また引き摺って走り出す。
(イタイッ!イタイ。ヤメテクレッ)
 悲痛な声が、間違いなくあかりの耳に届いた。
 あかりは再び立ち止まる。まさかと思って、わざと、盥の底をがりがりと小石で削ってみた。
(ヤメロッイタイ!)
 怒りを含んだ声が、ものいわぬはずの盥から聞こえてきている。
「なぁんや、あんたかいな」
 ぬくもりのないものが発する声を怖がりもせず、あかりは盥から手を離した。
「なぁなぁあんた、もののけか?」
 あかりはいきなり盥に尋ねた。痛みから解放された盥は、答えなかった。酷い仕打ちを怨んでいるのか、平気で声をかけてくる奇妙な人間を、警戒しているのか。
「もののけちゃうん、喋れるんやもの!ねえねえ、うちに来ぉへん?うちのお母ちゃんに頼んだげる、ものおとし!」
(モノオトシ?)
 盥は聞き返す。
「うん、だってもののけは消えなあかんねんやろ?たたりになったらあかんゆうて!お母ちゃんそうゆうんお仕事にしとるねん、あんたもそうしてもらいぃな」
 真剣にあかりは盥に向かって話しかける。橋を行く人々は、その様を笑って通り過ぎていった。ままごとをしていると思ったのだろう。
 が、本人はもちろん本気だ。きらきらした目で盥に迫る。
(イヤダ)
 声が響く。
(イヤダ、イヤダ)
「いやって、なんでぇな」
(コワイ)
「こわい?なんで?おかあちゃん優しいで、こわいことなんかないよ」
(スクイ、スクイガコワイ)
「え?」
(スクイガコワイ、ホロビモイヤダ)
 幼いあかりには、何のことか分からない。
 分かるのは、このもののけの心だけだった。怯えている。
 あかりは、母の儀式を思い出した。ものから微かな光が浮き出し、中空の彼方に消えていく。
 あれはそのまま、この世から消えていくということだったのだろうか?
(イキタクナイヨ)
 声は泣いていた。あかり一人を、頼りにするように。
(キエタクナイ)
 この角盥は、元を糺せばやはり人の家に古くから使われていたものだった。しかしある日、材質に限界が来たと見られたか、新しいものを入れ直す気になったのか、人から無碍に打ち捨てられることになった。翌日には鉈を入れられ、あわや荒神への捧げものになるはずだったところを、その家の子どもに弄ばれて、川にまで流れる羽目になったのだった。
 思い詰めたことはたった一つ、”自分はここにいるのに”。
 その執着に満ちた物の怪を、あかりが拾うことになったのは偶然か、それとも、彼女の異能が引き寄せたのか。
 そんなことは、あかりは知りも考えもしない…が、あかりは、目の前のこのもののけを助けたくなった。
 存在が消滅することがどういうことなのか、幼すぎるあかりにはまだ分からない。此の世から己が消えてしまうという寂しさになど、思いよりもしない。
 しかし、だからこそあかりは言ったのだろう。ただ、純粋に。
「ウチと友達になろう!」
 高く、そう叫んだ。
「友達やったらいつでもいっしょや、どこへかて一緒や!」
 身のうちの情動を抑えかねるように、立ち上がる。
「あ〜でもそやな、友達になるんやったらお名前いるやんな…何かなーそうやなー…おなべに似とるから…」
 あかりが考え込んだ時、角盥から、一筋の光が生まれた。あかりははっとその光を振り返る。
 母、光明の呼び出した光と似ていた。消えてしまう?
 ゆらりと立ち昇り、空へと掻き消えそうになったそれに、あかりは慌てて手を伸ばした。
「待って!」
 ぐっと、光の尾を掴んだ。
「なべみちゃん!」
 青空を仰ぎ、あかりは高らかにその名を呼んだ。
「今日からウチら、友達やで!」
 それが、約束だった。
 からんと地面に音が立った。
 あかりは下を見る。
 角盥が河原に転がっていた。
「?」
 さっきまで話してた子はどこに、と、あかりは角盥につんつん触れた。
(ココ、ココ)
 ひょいと、その者は陰から現れた。
 ずいぶんと姿が縮んで、あかりの腰ほどの高さになっている。
(トモダチ?)
 身体ごと首を傾げて、あかりを見上げてくる。
 あかりは笑顔を満面に浮かべて、なべみを高く抱き抱えた。
「うん!なべみちゃん、今日からウチの友達や!」



 どたどたと廊下を駆けてくる音に、幻貌と光明は振り返る。
「お父ちゃん、お母ちゃん!」
 彼らの小さな末娘が、敷居を飛び越えやってきた。
「あら」
 光明が瞬きをした。見慣れない影が、娘のそばについていた。
「あかり、その子は?」
 何気なく尋ねる。一見して、邪気の無い存在だと見抜いている。
「えーっとね、ごしょうかいします、ウチのあたらしいおともだちの、なべみちゃんです」
「あらまぁ、ほんま。お友達」
 光明は頷く。
 その横で、化生の姿を見ることはできない幻貌は、眼を細めさせた。
「はぁ?何言うとんねんあかり」
「あなた、あかりがもののけトモダチにしたんよ」
「え」
「えらい可愛い子やね。どこでお友達に?」
 母の言葉に、あかりは頬をつやつやさせて頷いた。
「えーっとね、かつらがわ」
「は? 何やて?」
「お母ちゃんもお父ちゃんもよろしゅうしたってな、ウチのともだちやから!」
 行くでなべみちゃん!と声をかけ、あかりは、来たときのように慌しく駆け去って行った。
「友達…もののけをか?」
 つむじ風のような娘が去った後、幻貌は今更のように妻に尋ねた。
「ええ、まぁ、そういうこともするようになるんちゃうんか思てましたけど」
 光明は遠くを見て話をしていた。幻貌は鼻をかく。母ということだけあって、娘の持つ力というものにも早くから気付いていたのかもしれない。
「お前もできたんか、そういうこと?」
「いいえ」
「そんな、お前に出来へんことをあかりが出来る言うわけかいな」
「あかりだけの力でしょうねえ。私は多分友達までには出来ませんでしたね。払うか従わせるかだけで」
「ほんまかいな…。…せやかて、あいつはまだ七つにもならんのやで?」
「まぁ、わたしがそれくらいのときはもう立派に式神の一つも打てましたよ。ひかりかて体がああやから無理できへんだけで、一体どれだけの力を持ってますやら、わたしにも分からへんくらいなんですよ?」
「うーん…まぁ、そうしたトコはお前ゆずりみたいやなぁ」
 光明は静かに微笑む。
 腕組みをして、幻貌は考え込んでしまった。
 一条の人間としては、子どもたちがそうした力を宿していることは素直に喜ぶべきなのだろう。陰陽術家として古くから続いてきた一条の血は、しっかりと次代へ受け継がれているということになるのだから。そこは内心、法力を持たない幻貌にとって安堵できることだった。常人の血が入ってきたことで一族の力が弱まるなど、妻光明の父の道境、そして代々の一条の先祖たちに対して申し訳が立たない。
 が、一人の父親としては、どうしても考えてしまう。
 目の中に入れても痛くない、あの愛らしい娘たちがそんな宿命を負って、これからも成長していくことになるなんて?
 母光明のように妖を祓い、星を読み、人には決して見えないものを目に据えながら、生きるなんて。
 そこまで思いを巡らせて、幻貌はすぐに背筋を伸ばした。
 これも一条の家に入った者の宿命。
 自分たちの子として生まれてきた、あの子たちのさだめ。
 甘んじて、受け入れなければならないのだ。
 それでも、と、幻貌はせめてもの抵抗のように、ぽつりと言った。
「せやかて、あんなちっこい子どもが一人で…桂川のはじっこまで、なぁ」
 光明は振り返った。幻貌は髭をいじる。
 およそ幼児の行動力ではない。
 今からこの調子では、果たして将来、どんなふうに長じるのやら…。
 瞳を見合わせ、どうやらお互い同じ考えに辿り付いたらしいと、ほっと、夫婦は溜息をついたのだった。



 両親の思いを知らず、あかりは新しい友人と駆け回る。
 あんなに近いところに友達がいた!もっともっと、遠くへ行こう、そしたらきっと、もっともーっと友達が増える!
 きらめき駆ける流星のように、どこまでもあかりは走るのだった。



 のちに安倍晴明以来と称えられた稀代の陰陽師、一条あかりの確かな一歩であった。