〜 子午線の舟 〜







 長雨の漸く過ぎ去った、その日の影はことのほか濃かった。
 井戸の側で、一人の少年が釣瓶を引き上げようとしている。打ち身らしい痣が浮いた腕で、必死に力んでいた。
「楓」
 幼いながらも凛とした声が飛び、手の内が軽くなった。
「あ、お姉ちゃん」
 金色の髪と青い瞳をした少女…雪が笑う。
 そのまま二人で引き上げ、足元の盥へ水を空ける。
 息をついて、雪は髪を振り分けた。
「楓、水がたくさん要るんだったら、少ない量を何度かに分けて入れたほうがいいわよ」
「う、うん」
 義弟の身に痛々しく宿った青みに雪は気付く。懐から出した布を、水に浸した。
「守矢に稽古をつけてもらって?」
 雪の手からそれを受け取り、腕に当て楓は染むような痛みに顔をしかめた。楓は、義兄である守矢に剣術の手ほどきをしてもらっているのだった。
「全然打ち返せなかった」
 楓は唇を尖らせる。微笑しながら雪は頷いた。守矢は強い。師匠である慨世からでさえ、十本のうち五、六本は確実に奪う。
「手加減はしてくれてるわよ?」
 雪は家族の洗濯物が入った盥へと釣瓶を寄せた。何度か傾け、水が溜まると屈み込んだ。僕も手伝う、と楓もしゃがむ。知ってるよ、だからね、と続けた。
「だから余計に悔しいんだよ、その、手加減してくれてるお兄ちゃんに全然敵わないだもん。…僕、剣術の才能ないのかなぁ……」
「そんなことないわよ、きっと楓が優しいからだわ。だから人にも打ち込めないの。ちゃんと守矢の目は見えてる?切っ先は分かる?」
「うーん、少しなら……まだ、はじめから比べれば分かるようになってきた」
「それならきっと大丈夫よ、いつか必ず、楓も強くなれるわ」
「強く……?」
「うん」
 雪は明るく頷いた。嬉しそうに楓は笑う。ごしごしと、手のうちのものを擦っていく。
 元気を取り戻したらしい弟を見て、雪は微笑んだ。本当は守矢に稽古をつけてもらえる楓が羨ましいのだが、そこは弁えているのでそんなことはおくびにも出さない。
「でももうちょっとでも加減してくれたらぼく嬉しいんだけどなぁ…」
「何言ってるの、守矢だってそれを知ってるから楓に無茶もするんだから」
 とりとめのないやりとりを笑顔で交わし、やがて濯ぎ終わったそれらを雪は軽くはたいた。立ち上がり、物干し竿へかけようとするが、まだ背がなかなか届かない。
 爪先立ち、腕を張る雪を見かねて楓が声をかけた。
「お姉ちゃん、手伝おうか?」
「ううん…大丈夫」
 そう言うものの苦心を続けていると、ひょいと脇から手が伸びた。
「踏み台ぐらい用意しておけよ」
 短い言葉に目を向けると、守矢がすぐ傍らに立っていた。この頃守矢は背丈が伸び出している。そっけない言葉とは逆に、次々と洗い物を片付けていく。
 楓は己の持ってきた盥のそばに、逃げ込むように座った。普段から超然としたような落ち着きを見せる守矢だが、稽古のときは一段と厳しいのだった。
「ねえ、守矢」
 最後の一枚が竿にかけられたとき、雪は尋ねた。
「楓の剣のことだけど、楓、見込みあるわよね?強くなれるでしょ?」
 一人居心地を悪そうにしていた楓が雪を見、守矢を見た。
 暫く守矢は考えたようだった。
「…楓次第だろうな」
「僕…?」
「それ以上を願わなければそのままだ」
 言い放つ。
「…」
「守矢、そんな」
 言いかけた雪だが、守矢は続けた。
「楓お前はまず、自分が何のために強くなりたいのかを考えたほうがいい」
 雪は楓を振り返る。
 思いもしなかったことを言われたように、楓の瞳が丸くなる。
 水のみとなった盥を守矢はひっくり返した。水の溢れる音が響く。
「雪、師匠が呼んでいたぞ。急げよ」
「あ、はい」
 我に返り、雪は空となった盥を抱えた。慨世は楓たちには剣を与えた傍ら、雪には槍を与えていた。閉ざされた国に稀有である身の上を、己の力で護らせるためだった。
「楓、痣はちゃんと冷やして、布を巻いておきなさいよ。そして……明日も、頑張りなさい」
 こくりと、楓は頷く。
 それを見て取り、雪は守矢のあとを追った。すでに角へと消えている。
「守矢、待って、待ってったら」
「才能が無いわけじゃない」
 雪の追いついたあと、守矢は唐突なように言った。
「目もいいし身体もよく動く。力もあるほうだろうが…甘さが消えない。剣の道のみに生きるには向かないだろうな」
「楓の剣のこと?」
 守矢は頷く。
「優しさがあだとなることもある」
「でも…でも、守矢、そこが楓のいいところでしょ?」
 守矢は雪へ顔を向けた。縹よりも遥かに希薄な透き通った瞳が、真剣に守矢を見上げている。
「例えそうだといっても、あなたも楓を見なくなったりはしないでしょう?それにあの子は何よりあなたに憧れてるもの。きっと必死に追いかける。強くなれるわ。それは、守矢…私も同じよ」
 うっすらと頬を上気させる雪に、守矢はゆっくりと頷いた。
「…ああ」
 その乏しいまでの口数のかげに、どれほどのことを思っているか知れない。
 孤独だった昔を思ったかもしれなかった。守矢の幼い日に生家は没落し、父母とは離別した。そのよるべなき身が今、数奇な縁により家族を得、こうして弟妹たちに、慕われている。
 蜻蛉がさっと行き過ぎた。それをともに目で追い、守矢と雪は空を見上げた。



 一人、きらきらと輝く水鏡を楓は見ていた。
 何のために剣を取るのか。
 何のために強くなるのか。
 少年は思いを巡らせる。
 痣の浮いた腕を、曲げたり伸ばしたりした。
 やがて、冷えた布を痣へと当てる。
 しかし今度は静かに、眉の一つも動かさずに耐えた。
 風が吹き抜け、雲が太陽を翳らせた。
 糸に引かれでもしたかのように、楓は顔を高く向ける。



 同じ場所、六つの瞳がそれを見つめた。
 浅葱の空に、白く真昼の月が咲いていた。