りりん。
びいどろ製の風鈴が、夏風に揺れる。
青空に湧き立つ入道雲を背景に、蝉の声が盛んだった。
静はよしずの障子を開き、そっと顔を出した。冷水が入った桶を抱えている。
部屋の中央には薄い夏布団が敷かれてある。誰かが横になっている。
「道磨」
静はそう、ここ一条家の長男を呼んだ。
掛け物が動く。
「…静か…?」
今目覚めたばかりのような、ぼんやりとした声が答えた。
「うん。風邪ひいてるてあかりから聞いたから…」
静は部屋に入り、道磨の傍に腰を下ろした。
掛け物から顔を出し、静を見上げる道磨の頬は赤かった。額には湿った布が置かれてある。静はその布を手に取った。熱を宿し、生ぬるい。
静はきびきびとした動作で冷たい水に布を浸し、きつく絞って、広い額に置く。
「…夏風邪はなんとかがひくとかよう言うけど?」
静が言うと、道磨は唇を尖らせた。
「あほ言え、ゆうべは冷えたやろ。ちょう油断しとっただけじゃ」
「油断て、やっぱそうなんやんか」
思わず笑うと、ふくれて道磨はそっぽを向いた。
全く仕方の無い子、といったように静は微笑む。道磨はどうも、素直ではない。気が強く利口な性質の年子の妹、あかりに負けまいとして育ってきたせいか、やや肩肘を張る性格になってしまった。
悪い子やないねんけど。
静は、熱が宿る道磨の頬のあたりを見つめた。少年らしい、ふっくらとした頬だった。
ふと、どこからか子犬の鳴き声が聞こえてきた。
「?」
見てみると、広広とした中庭で、一匹の子犬が胡蝶を追って戯れている。
「あんなん、いてはったっけ?」
「オレが連れてきてん」
なんでもないように道磨は言った。
「まぁ、どこから?」
「…もうええやろ、さっさとあかりとでも遊んでこいや」
ぷいと、掛け物をかぶってしまう。
何をへそを曲げているのかと、静は首をかしげた。
気になって、道磨の部屋を出たあと、静は草履を履いた。
庭へと向かう前に、子犬を抱いたあかりと出会う。
「あ、しーさん、いらっしゃい!」
はきはきと言い、笑顔は明るい。元気のいい少女だった。
「なああかり、この犬、道磨が拾てきたんやて?」
静が尋ねると、あかりは兄そっくりの顔で頷いた。
「うん、何やそうらしいねん。川で流されとってんて」
言いながらあかりは静に子犬を手渡す。
「流されてた?」
静は子犬を胸に抱いた。生まれてからしばらくといったところだろう。小さく茶色い鼻をくんくん押し付けてくる。
あかりは頷いた。
「そう。何や信じられへんけど、この子が川で溺れとったんをおにいちゃんが飛び込んで助けたってんて。ガラにもないことして、ほんでおにいちゃんのほうが風邪ひいてまうねんから世話ないわー」
言ってあかりはからからと笑う。実の兄にかけるにはひどい言葉だったが、あかりはただ思うままを話しているだけなので、嫌味は感じない。
もとは近所の誰それの犬ということが自分の占いで分かったので、最後に遊んでやっているのだともあかりは話した。
「それにしてもおにいちゃんもホンマあほやわぁ」
ついでとばかりにあかりは言い足す。静は顔を上げた。
「泳がれもできへんくせに」
蝉たちがせわしく鳴き立てる。
一人、道磨は苦しげに眉をしかめている。
熱のせいで頭がぼんやりしている。乾いた口中は針を含んでいるように痛む。眠りたいが、熱と暑さのせいで寝つけない。姉のひかりはいつもこんなふうに臥しているのかと、我が身が被ってみてはじめて思いやられる。
風があるのがせめてもの救いだ。風鈴は絶えず、澄んだ音を立てている。
風鈴の音。道磨は気付いた。
子犬の声が聞こえない。
あかりが連れていったのか。道磨は息をつく。
あれは、貸本屋に出かけた帰り道だった。細い橋がかかった川。気忙しい野分が通り過ぎたあと、水嵩が増していた。
橋を通りかかったとき、子犬が流されているのを見つけた。はじめは何かの皮衣だと思った。だがそれは、悲痛な鳴き声をあげながら浮いたり沈んだりを繰り返していた。
生き物だと分かったときには河原に駆け下りていた。手の中の本を放って水に入った。暴れる子犬を懐に抱え、戻ろうとしたとき、水苔で滑った。たまたま深みで、慌てたせいで水を遠慮なく飲んでしまった。何かにつけ、そそっかしいのは血筋だ。
本屋に行ってきたはずが、ずぶ濡れになって帰ってきた自分に家族は大いに驚いた。何があったのかと騒がしく聞き立ててくる妹に、抱いてきたままの子犬を渡して、軽く身体を拭いただけで眠りについた。
それが、まずかったのだろう。翌日には見事に風邪をひいていた。
子犬の帰る場所はあかりが術で探し出した。占いとまじないは一条家の家業だ。そして彼女は、優秀だ。
静の言う通り、夏風邪をひいたのは馬鹿なことだったかもしれない。が、子犬を助けられたのだ。それでよかった。
障子の向こうから足音が近づいてくる。また誰かが様子を見に来てくれたらしい。
誰か。
母ではないだろう。母はいつも忙しい。父でもない。父もやはり忙しいし、もういい年をした息子を白昼にわざわざ見舞いに来るわけがない。
それなら姉か、妹か。姉かもしれない。足音の主はすり足で廊下を歩いている。もし妹であったなら、踵だけで歩くようながさつな音を立ててくるはずだ。
道磨の思索をよそに、その、姉かもしれない人物は、ふわりと枕元に降り立った。
姉なら気遣いすることもなかった。早く布を取り換えてほしいと自堕落なことを思いながら、道磨は瞳を閉じたままでいた。
期待した通り、ぱしゃんと、水の音が立つ。さっと、額の布が取り避けられた。すぐにひやりとした感触が、額に乗る。
奇妙だ、と思った。
姉ではないのかもしれない、と思った。おっとりとした姉の挙措は何につけてものんびりだ。この人物は手際よく、人の世話に手馴れているもののように思えた。人よりよく動く、働き者のように。
「…」
布を取り換えてくれた人は、なかなか立ち上がろうとしなかった。まるで心配事でもあるかのように、息を詰めて動かない。
もしかして…。
道磨が一人の少女の顔を思い浮かべた時、ふいに周りが暗くなった。何かが光を遮ったのだ。続き、唇に何かが触れてくるのを感じた。
優しく、甘かった。
一体何か分からない。菓子か、と思った。大福餅か求肥のような。でもどちらかといえば自分は甘いものよりは辛いもののほうが…。
薄く、道磨は瞳を開いた。視線を上げる。
華奢な影。長い髪。水鳥のようにすらりとした…。
「…静か?」
かすれた声で道磨は言った。目を凝らすが、夢うつつでいたせいと、やはり熱があるせいでうまくものを捉えることができない。
呼びかけた人物は何故か返事をしてくれなかったが、その長身の影は、やはり静だと思った。心配して、もう一度様子を見に来てくれたのだろう。それは嬉しい気がしたが…しかし、顔を赤くしているように見えるのは気のせいだろうか。
何故?
「…あ」
道磨は気付いた。さっき、自分の唇に触れた柔らかなもの。
「お前…」
まさかと思った時、頭に血が昇った。ふらぁと世界が一回転し、意識が途切れた。
それから暫く、静は一条家に遊びに来なくなった。
聞けば、風邪をひき家に引きこもっているという。
あかりやその友人たちは心配し、見舞いに行こう品々を届けようと騒がしくしていた。
しかし、一条の家中に一人、誰よりも穏やかでなかった人物がいた。
今やすっかり夏風邪も癒えた、道磨であった。
夏の陽光が輝いている。
九条家の自室で、静は縁側の柱にもたれ、蝉の声に耳を傾けつつ、見るともなしに庭を見つめていた。
萩が風にそよいでいる。まだ熱の残る静の目には、陽光と葉とが、ぶれて映る。
風邪をひくなど久しぶりのことだった。本当は寝ていたほうがいいのだろう。だが、暇でしょうがない。いつも一条神社の手伝いや、そうでなくば家の家事に動き回っているのだ。ただ寝たままでいるというのは逆に苦しい。例え体が重かろうと、起き上がっていたほうが気が楽だった。
なんで風邪なんかひきはったんやろなぁ、しーさんしっかりしてはんのに。
見舞いに来てくれたあかりが心底不思議そうに言ったのを思い出す。
夏風邪は馬鹿がひく…自分だってそう思っていた。だが、不注意で風邪をひいたのではないのだった。原因は、自分が一番よく分かっている。
静は目を閉じ、そっと、己の口元を押さえた。
りん。
蝉時雨に慣れた耳に、透き通る音が届いた。
「?」
静は目を開く。
小柄な影が小門を潜ってきた。
道磨だった。踏み台を脇に抱えた姿で立っている。
「道磨?」
静は声をかけた。道磨は、ただ頷き、草履を脱いで縁側に上がり、踏み台を使って、軒へと何かを吊り下げた。
透明な音が降る。
びいどろで出来た風鈴だった。道磨が寝ていた時、縁側に掛かっていたものだ。道磨は、取り付けたそれが軒から外れないことを確認してから、踏み台を取り除けた。その場に腰掛ける。
「あかりのみやげや。びいどろの風鈴。長崎で買うてきたとか言うとったな」
「ほんまに。えらい遠くのん…」
「ヒマ紛れるで、これ聞いとったら」
「え?」
「静にあげる」
道磨は言う。静は困惑した。
「そんな…それ道磨のトコにあったもんなんとちゃうの」
「ええねん。どうせ貰いもんやし。そんなことより、起きててもええんか?風邪やったんちゃうん」
「ええねん、寝てるよりこうしてるほうが楽やから。道磨こそ風邪はもうええの?」
「はあ」
道磨は答えた。なぜか、ぶっきらぼうに。
「そう。良かった」
静は微笑む。道磨は言葉を続けた。
「…おかげさんで」
「え?」
じっと、道磨は静を見つめてくる。静は何気なくその大きな瞳を見つめ返していたが、
「いや」
口には出せないことを目で語ってくる道磨の瞳の光に気付き、声を上げた。
「いややわ、起きてたん?いやらし」
頬を紅潮させ、袖で口元を隠した。道磨が風邪をひいていた時、眠っていた彼に自分がしたこと。その時のことを、はっきりと思い出して。
反論するように道磨は鼻白んだ。
「いやらしてどっちがじゃ。余計なコトしてきたんはお前のほうやろが」
「余計て。…嫌やったん?」
心細そうに静は尋ねた。
「嫌て、いや、そんなん……そうやないけど…」
熱で潤んでいる静の瞳に怯んだか、消え入りそうな声で道磨は言う。
「せやけどなぁ、お前あほやで。うつる思わんかったんかいな」
「ええ思たんよ」
「え」
「ええ思てん。道磨のやったら」
静は言った。いつだって向こう見ずな、けれども心の優しい彼の。その病を、引き取ってあげたいと思ったのだ。
道磨はぽかんと口を開く。それから、みるみる顔を赤くさせた。
「…あほ」
やっと、呟く。
「夏風邪はなんとかがひくゆうてくれたけど、お前も一緒やん。お前も…」
耳たぶまでも血で膨らませたように赤くさせ、道磨は黙り込んでしまった。静は頷いて、子どものように膝を抱える。
風鈴がもう一度、りりんと鳴った。
静は風鈴に目をやる。夏の陽を受けてきらきらと輝いている。その手前に、赤くなってうなだれている道磨の姿。
ひょっとしたら道磨は、あの風鈴の音を聞くと自分を思い出すようになってしまったのではないか、と静は思った。暇が紛れるというのが本当だとしても、夏風が、恋風となって朝昼となく吹き寄せてくるというのは、さぞ落ち着かないことだろう。
「悪いことした?ウチ…」
静は言った。道磨は頷きかけ、すぐ、否定するように激しく首を横に振った。
「そんなん。お前が風邪さえ持ってったりせえへんかったら……」
熱のために頭が重くとも、道磨の言葉は、静の胸に甘く落ちた。熱くなった顔をどうしていいか分からず、静はただ、頬を押さえる。
「それに」
道磨は続けた。
「年上の嫁さんは黄金のワラジ履いてでも探せゆうし」
静は、道磨を見る。道磨は赤い顔のままでどこか違うところを見ていたが、ちらりと、静を見た。言ってしまった、と言っているような瞳だった。
ぽう、と、静の頬が、熱のためでなく紅色に染まった。
「…な、何言うん。いややわ」
高鳴る心臓を励まして、心とは裏腹のことを言った。ぷいと、横を向いてしまう。道磨は何を、と言うように口を開いた。
「何言うて。そのまんまのことや。その風邪かて返してくれてええ思てんのに」
「いらん、いらん。そないたらいまわしにされたら風邪かてかわいそうやんか」
「元はオレのやん」
「もうウチの」
言い合っていたが、そのうち可笑しくなったのか、ぷっと吹き出した。
道磨は手を伸ばし、静の手に、重ねた。静は目を伏せ、柔らかに微笑む。
頬を寄せ、唇を合わせる。
風鈴が、澄み渡る音を響かせた。
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