さらさらと水が流れている。
山奥にひっそりと流れる、沢だった。太陽を受けて輝く水面に、魚の影が時々走る。渓流を見守る岩たちは、どれもこれもがごつごつと大きい。かなりの上流なのだった。
小さな蟹が横切る岩肌に、ふと、小さな子どもの手がかかった。
「よいしょっと…」
幼い掛け声とともに次に持ち上がってきたのは、大きな黒い目をした一人の少年だった。その手も顔も土だらけになっている。川そばの岩をつたって、上へ上へと登ってきているらしい。
何とか岩を登りきった少年は安心したように息をつき、頭上にそびえる木々を見上げた。
昼近い陽が葉陰をすり抜け、木漏れ日となって少年の上に降り注ぐ。生白い肌や藍の着物を、ほのかな緑に染めていた。
少年は頭上を眺めたまま、右手で懐を探り、そこから一枚の葉っぱを取り出した。
燃えるような真紅の楓。少年の周りの林はまだ色づいていないので、少年はどこかでこの葉を拾ったのだろう。
少年は、綾なす緑の天蓋と、手の中の赤い葉を交互に見比べ、ふいににっと、嬉しげに笑った。
大切そうに葉を懐にしまいこみ、そのまま少年は、まるで若い魚が溯上していくように、川の流れに背いて行った。
「…」
御名方守矢は、不機嫌そうな顔つきで押入れの襖を開いた。
そこに収められているのが布団のみだと分かると、すぐにぱたんと閉める。
当たり前だと思っていたが、やはり、ここにもいない。
どこへ行ったのか。
守矢は、義弟の楓を探していた。
朝餉は確かに兄弟揃って共にしていたのに、ふと目を離した間にまるで狐の子のように、どこかへひょいと消えてしまった。
彼らの養い親である剣の師匠、慨世は用で出ており、帰りは翌日になるだろうと言い置かれている。今日は子どもたちだけで留守を守ることになる。
だから今日は、守矢は楓に剣の稽古をつけてやるつもりだった。師が不在である上は、兄弟子として当然のことだった。それなのに、楓がいない。
まだ探していない場所があったかもしれないと、軽く息をついて足を返した。
その途中で、金色の髪とぶつかった。
「あ、守矢」
水色の瞳が守矢を見上げる。守矢の義妹、楓には義姉となる雪だった。雪は、海向こうの人間を親に持っていた。それぞれ二親を失った孤児でいたのを、慨世にこの家へ引き取られてきたのだ。
雪は、危ういほどに澄んだ目を守矢に向けて、尋ねた。
「守矢、楓を知らない?」
そう問う。雪も楓を探しているようだった。守矢は静かに首を横に振る。愛想の無い返事だったが、雪はこの義理の兄の無口を知っているので、大人しすぎるその答えにも、気にせぬふうで相槌を打った。
「楓、朝から姿が見えないの。どこに行ったのかしら…」
心配そうに眉をひそめる。
「お櫃の中身が」
雪は言った。厨の仕事は、全て雪が引き受けている。
「減ってるの。お塩や梅干もちょっと少なくなってるみたいで。楓が持っていったのかしら…どこか遠くまで出かけているのかしら」
守矢は、腕を組んだ。
手ごろな岩に腰掛けて、楓は足をぶらぶらとさせながら握り飯を食っていた。
どこまでも流れは澄み渡り、風も清い。楓は上機嫌だった。これなら、夕刻になるまで目的を遂げられるだろう。
目的。楓は、懐を探り、さきほどの葉をもう一度取り出す。
昨日のことだった。
義兄の守矢と、川で魚を採っていて、足元にこの葉が流れてきたのを、楓は拾い上げた。
山は頂上から色を変える。楓たちの住むあたりでは、未だ木々は緑であるのに、頂上近い場所ではもう色が変わっているのか。
守矢が目を向けたときには、葉はもう懐に納めていた。そして翌日、朝餉が終わるのを待ちかねるようにして楓は家を飛び出したのだ。
楓は、山が紅葉しているのを、誰よりも早く見たかった。そのため、慣れない握り飯まで、自分で用意して持ってきたのだ。
塩加減も知らずに握った飯は辛くてたまらなかった。楓は沢水をすくって強引に飲み込む。いつも姉が作ってくれるもののほうが、ずっと旨い。
姉のこと、同時に兄のことを楓は思い出す。今ごろ心配しているかもしれないと思いながらも、引き返そうとは考えなかった。それよりは自分の目当てのほうを思っている。紅葉もきっと近い。家にだってすぐに帰れる。
楓はすっくと立ち上がり、再び、沢を登り始めた。
雪は縁側に腰掛けていた。
楓の不在が知れてから、雪はずっとこうしている。
本当に、楓はどこに行ったのか。
太陽が正中を過ぎた頃、雪は楓を探しに出ようとしたが、守矢がそれを止めた。すぐに帰ってくるだろうと守矢は見ているのだ。
その守矢は、今は道場に入って剣の鍛錬をしている。常と変わらぬ様子だった。兄弟子である守矢が励んでいる以上、雪も、守矢に並んで師に習っている槍の修練を行わなければならないのだが、どうにも、気持ちが向かなかった。
楓が心配でたまらない。雪の悪い癖ではあったが、何かあったのではないか、ともすれば神かくしにでも遭ったのではないかと、余計な気を回してしまう。もしか、山へ行ったのか。山には危険が多いのに。それとも里か。しかしそれとしても、どうして何も言わずに出ていったのか…。
あれこれと気を揉む雪の耳に、道場から守矢の気合が届いてくる。楓の所在が分からなくとも、守矢の日常は変わらない。そもそも武士とはそういうものなのかもしれないが、女らしい心の細やかさを持っている雪には、その落ち着きが少々薄情なように思われた。
だからこそ、かもしれない。雪は余計に動く気になれない。それに、もしも楓が帰ってきたときに出迎えてやる人間がいなくては、楓がかわいそうではないか。
耳でもふさぎたいような気持ちで、雪は、辛抱強く楓の帰りを待っていた。
ひたすらに、紅葉をさして楓は流れを登っていく。
心が軽い。兄弟の中で、自分が秋に一番乗りをするのだ。兄にも内緒、姉にも秘密だ。帰ったときに、自慢話をしてやろう。兄も姉も、どういう顔をするだろう…。
沢の水も細くなった。地面がぬるむようになっている。一歩一歩、楓は確かめるように足を踏み込む。
強い風がふいに吹き、楓の顔にまともにぶつかる。身を切るような冷たさだった。楓は袖で顔を隠す。
髪に、何かが落ちてきた。
「?」
楓は手で探る。頭に降りてきたのは、一枚の、葉。
楓は顔を上げた。紅葉だった。赤、黄、橙、とりどりの色に染められた葉が、木々を豪華に彩っている。
「わあっ」
歓声を上げ、楓は駆け出した。やっと、ここまで来た!
大喜びで両手を広げた。ひらひら散りゆく落ち葉を受け止め、小鹿のように無邪気にはしゃぐ。持って帰ろう、持って帰ろう。誰よりも早く、秋の姿を!
ざあっと、風が鳴った。楓は顔を上げる。
黄金や蘇芳のもみじ葉が、花散るように舞い上がる。
傾き初めた太陽に照らされ、金に、真紅に。風の吹くまま、まるで透明な糸に繰られているかのように、光とともに飛び違う。
楓は、漆黒の瞳をいっぱいに見開き、風の景色を見上げていた。
ずっと。ずっと。
陽が絶えるまで、動かなかった。
雪ははっと、目を覚ます。
すでに日が暮れかかっている。いつの間にか寝入ってしまっていたのだ。
慌てて起き上がると、肩から布がはらりと落ちた。冷えないように、誰かがかけてくれたのだ。
守矢?
雪は周りを見回す。すぐ、見つかった。
守矢は、雪と同じ縁側で、雪からやや離れたところに座っていた。
布を取り、雪は立ち上った。
「これ…」
そばに行って差し出すと、守矢は飴色の瞳を雪に向けた。
「ありがとう…」
雪が言うと、守矢は静かに頷いた。そして、すぐに空へ目をやる。まるで、燃え出すようなひたむきな瞳だった。
雪は気づいた。守矢は楓の帰りを待っている。守矢にとって楓は、義理とはいっても師匠の元で共に暮らす、たった一人の弟なのだ。その弟の行方が分からないで、平気でいられるわけがない。
ただ、守矢は口にはしない。ひたすらに己の内に仕舞い込む。
守矢はそういう人間だった。気持ちは雪と同じなのだ。
雪は泣きたいような気持ちになった。
楓、早く、帰ってきて。
祈るように、雪も景色の彼方を見つめた。
「お兄ちゃん、お姉ちゃーん!」
突然にその声は起こった。
雪は驚いて振り返る。守矢も顔を向けた。
目線の先、顔を真っ赤にした楓が、髪を振り乱しながら山を背にして駆けて来る。
「楓…楓っ!」
たまらず、草履も履かずに雪は駆け寄った。
「お姉ちゃん、ただいま!」
楓は元気にそう応えた。雪は思わずその手を握る。
「楓、どこに行っていたの!こんな遅くまで…」
どれだけ心配したかと言いかけたが、胸がいっぱいになってうまく言葉が紡げない。意味もなく、楓の袖や裾を手で払ったり叩いたりして、無駄に埃を招いたりする。
「あのね、山に行ってきたんだよ…」
姉の心中も知らず、楓はどこまでも上機嫌だった。何か持ち帰ってきたのか、懐をごそごそと探り始める。
遠くから見ていただけだった守矢が、二人に近づいてきた。
「あ、お兄ちゃん。ただいま!」
気づき、屈託なく楓は笑った。雪も守矢を振り返る。
守矢は無言のまま、ゆっくりと楓に近づき、雪と楓とを離させた。
「守矢?」
兄の手が、かすかに震えて熱を持っていたことに雪は気づいた。
その左手が振り上げられる。
「守矢!」
雪は叫ぶ。
地面に倒れ、頬を押えて楓が泣き出す。立ち尽くす守矢は仁王のようだった。雪は兄弟の間に飛び出した。
「守矢、やめて!」
楓は、何が起こったのか分からないまま、大きく口を開け、夕立のように激しく泣く。よほど強く叩かれたのか、鼻から赤いものも垂れかかっていた。
「ひどいわ守矢!なんてこと…!」
雪は慌てて楓の鼻を袖で押さえ、守矢に向かってきつく叫んだ。が、守矢はふいと顔を背け、そのまま屋敷へ踵を返す。
「守矢!」
雪は叫ぶが、守矢は戻らなかった。
「楓、大丈夫…?」
必死になって、己の袖口で雪は鼻血を拭いてやる。なかなか止まらない。一体守矢はどれほどの力を込めたのか、懐紙で鼻を押さえてやっても、すぐに真っ赤に染まっていく。
己の指まで血の赤色で染めながら、雪は弟の背をさすった。
「楓、しっかりして、大丈夫だから、大丈夫だから。家に戻って休みましょう…」
泣きじゃくる楓を抱くようにして、雪は屋敷の中に入った。
菫色の西空に、夕星が煌く。
縁側に仰向けになっていた楓は、鼻をすすった。
「落ち着いた?」
道具箱を持ったまま、雪は呼びかける。楓は目だけを姉に向け、頷いた。
楓の枕元に、雪は腰を下ろす。改めて、聞いた。
「楓、どこへ行っていたの?誰にも言わないで。私も守矢も、どれだけ心配したか…」
再び楓は鼻をすすった。
「山だよ、ずっと山の奥」
「まぁ、そんなところまでどうして?」
「もみじを見たかったんだ」
「もみじ?まだ早いでしょう」
「ううん、山のてっぺんはもう赤かったよ。昨日川で遊んでたとき、赤い葉っぱが流れてきたのを見つけたんだ。それを見に行ったの」
「楓…」
言葉も継げないように雪は呟く。
「そんなことのために、たった一人で?それも朝から…」
楓は唇を尖らせた。
「だって行きたかったんだもの」
「まぁ…呆れるわ」
全く省みる様子の無い弟に、雪はため息をついた。
「私と守矢にあんなに心配かけさせて」
「心配なんて、そりゃ、お姉ちゃんはしてたのかもしれないけど、お兄ちゃんはしてないでしょ?いきなり僕をぶってさ」
「してたわよ。してたからぶったのよ」
「どうして。してないよ、心配してたんだったら、あんなことしないよ。ほんとに痛かったんだから」
「違うわよ。本当に何も思ってないのなら、ぶったりなんかしないわよ。…楓、守矢の気持ちも分かってあげなさい」
「気持ち?気持ちって?」
「後で守矢に謝るのよ」
「え、なんで?だってぶたれたのは僕のほうだよ?」
頭ごなしに言う姉に、思わず楓は反駁を起こした。半身を浮かせる。
「楓」
言って雪は、楓の額を指で弾いた。
「だって私も心配したのよ。ほんとに楓がいなくなったと思って、どんなに恐かったか分からなかったんだから…」
「…」
背を床につけ、楓は額を押さえた。ぴりぴりと痛む。
「守矢もあんなふうにしか表に出さない人だけど…。楓、痛かったでしょうけど、その分だけ守矢に心配をかけたのよ。…分かってあげて」
「…」
楓はつんと横を向いた。するとまた血が垂れてくるような気がして、慌てて鼻をすする。
強情を張る弟の様子に、雪はそっと、息をついた。
翌日の朝は、よく晴れていた。
昨日のこともあって、兄弟たちは気まずい中に朝餉の膳を囲んだが、それが終わったと同時に、楓は外へと出て行ってしまった。「山へ行ってくる」その言葉だけを、兄姉に残して。
雪は一人、後片付けのために厨へ向かった。ふと、飯櫃の前で立ち止まる。
「…」
櫃の上に乗っていたものを、手に取る。
「…」
背後で足音が立った。雪は振り返る。
守矢が、顔を覗かせている。
「守矢?」
守矢が厨に顔を出すことは珍しい。どうかしたの、と問う前に、雪は、守矢が一冊の書と、一枚の葉を持っているのに気がついた。
「それ…」
雪は言った。さっき手に取ったものを、守矢に示す。
「…」
守矢は押し黙った。雪の手のもの、自分の手の中にあるものは、見事に色づいた、真紅の楓の葉だった。雪の白い肌の上で、血の花のように開いている。
兄と妹は暫し無言だったが、
「…楓、よね?」
守矢は目を向ける。
「昨日、山奥に行ってきたらしいのよ。紅葉を観に行くために…」
守矢は葉に目を向けた。雪は、言った。
「きっと、ごめんなさいの、つもりなのね」
「何?」
「私、守矢に謝りなさいって言ったのよ。…でも、結局、守矢には謝らなかったのね?」
「…」
守矢は黙ったままでいたが、
「…こんな葉のために、あいつは山奥に?」
「そうらしいわ」
「呆れる。紅葉など待てばいいものを」
「楓も男の子でしょ?行きたかったのよ、一人で」
「向こう見ず過ぎる。後のことも考えずに…」
「守矢…それを、楓に言ってあげればいいのに」
「あいつは人の話を聞かん」
「あなたが短気なだけ」
守矢は顔を背けた。
雪は思わず微笑んだ。
「困った人たちなんだから…」
沢の流れる音が聞こえる。
楓は、川に浸した釣竿を木の枝に固定させ、自らは岩の上に寝転がりながら、輝く天蓋を眺めていた。
昨夜はうんと冷えた。昨日青々としていた林の景色は、鮮やかな緋色に変貌している。
一日待てば済むことだった。楓は、岩の上で寝返りを打った。太陽に温められた苔の温もりが、こわばった頬に伝わってくる。
昨日守矢に打たれた頬からは、赤みも痛みも引いていたが、痺れだけは、未だに残っているような気がした。
兄に謝れ、と姉は言ったが、どうしても素直な気持ちにはなれなかった。確かに自分が悪かったかもしれないが、それでもあそこまで強く打たずともいいではないか。姉も姉だ、いつでも兄の肩ばかり持つ。
竿が動いた。楓は起き上がる。そばの籠には、魚が三匹泳いでいる。
師匠は昼過ぎには帰ってくるだろう。それまでには家に帰らなければならない。兄弟揃って、出迎えなければならない。
その前に兄と仲直りしておかなければならない、というのは、楓にも分かっている。
あと一匹、釣れたら。
楓は思う。
家に帰ろう。その時にお兄ちゃんに謝ろう。それから皆で、揃ってご飯を食べるんだ。
楓は、竿を引いた。掌にしっかりとした手ごたえを感じた。
沢の音と風の声が、山の間を吹き抜ける。
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