〜 Fire garden 〜







「きゃっ…!」
 冬のスケート場で滑っていたユキは、氷の上に今日何回かのしりもちをついた。少々派手な転びぶりだったためか、小さな子たちが、ユキのそばを笑いながら行き過ぎていく。
 ユキは苦笑し、手すりに取りつきながらよろよろと立ち上がった。アイススケートが初めてというわけではないのだが、なかなかコツが掴めずに、さっきから転んでばかりいる。屋外リンク、ナイター中の氷の上、明るすぎるライトのために、よたつく影法師も昼間のように強く濃かった。
 一休みしようと、手すりを背にして夜空を見上げた。冬の澄んだ星空も、無粋なまでの夜間照明に遮られ、光に紛れて目立たない。地上では、真白い氷の板の上を、まばらな人らが思い思いに滑っている。平日の夜なので、人の入りもやや少ない。ユキだって、恋人である草薙京がいきなり言い出して来なければ、わざわざ日暮れてから出かけたりはしなかったろう。
 京、京だった。ユキは京の姿を探す。
 彼の姿はすぐに分かる、長身の影が滑っている。京はユキから離れて、一人でリンクを周回している。アイスホッケーが得意と言うだけあって、安定した京の滑りはそれだけで人目を引くものがある。最初は二人で滑っていたのだが、もたつくユキと、せっかちな京では呼吸が合わず、いっそ別行動を取るようにしたのだった。
 ユキは手袋をはめた手に白い息を吹きかけた。何度も氷に手をついたので、湿り気が毛糸に染みてきていて、指先が冷たくなっている。何となく、心細さをユキは感じた。
「…なにやってんだ?まだ滑れねえのか?」
 揶揄するようなその声に、ユキはすぐに顔を上げた。
 飽かずにリンクを回ってきたらしい京は、両手をポケットに収めながら、まるで見せつけるようにユキの目の前でバランス良く制止してみせる。
 気持ちを逆撫でされたようで、ユキは頬を膨らませた。
「しょうがないでしょ、スケートなんて久しぶりなんだもの」
「何すねてんだよ、ほら、手ェ貸してやっから、もっと練習しろって」
 そう言って、京は手を差し出してくる。ユキは首を横に振った。
「いいっ」
 ぷいと横を向き、手すりを伝って歩いていく。そのまま、スケート靴を膝ごと持ち上げるようにして、リンクの外へ足をかけた。
「おい、もう出ちまうのかよ?」
「ちょっと休むだけ!寒いからコーヒー飲むのっ」
 京の呼びかけに振り向きもせず、ユキは声だけ置いていった。子どものようだというのは分かっていたが、気持ちが、抑えられなかった。
 ユキはリンク脇の自動販売機に小銭を投じ、ランプの点灯を待った。いつもより熱く感じるコーヒーの缶を両手で握り、かたわらのベンチに腰を下ろす。
 リンクに目をやると、いつの間にか中央にはロープが張られ、整備車がリンクの調子を整えている。客の数に関わりなく、細かに様子を見てくれているらしい。
 京はというと、滑られる範囲が狭くなっても、ユキと離れて一人になっても、相変わらずな身軽さで、氷の上を滑っていた。ユキの様子にもさほど頓着していない様子だ。
 それどころか、上機嫌でいるのがユキには遠目にもよく分かった。炎を自在にできるくせに、京は氷上の競技が得意なのだ。人影も少ないことだし、存分にリンクを動き回れて、きっと楽しくてたまらないのだろう。
 ユキは息をつく。好きなことには夢中になって、周りのことが見えなくなるのが京の性分と知っているので、それについては何も言うつもりはなかった。
(…それでも、ちょっとひどいんじゃない?)
 ユキは膝の高さにまで爪先を持ち上げ、スケート靴をぶらぶらとさせた。
 久々に会うというのに。
 恋人同士といっても、ユキが京と会うのは久しぶりだった。格闘家でもある京は、この頃は武者修行などといって、世界中を飛び回っている。年に一度は開催される「KOF」の間は日本に帰ってくることもあるが、それが終わると、さっさとまた、日本の外に旅立ってしまう。
 そして、珍しく日本に帰ってきたかと思うと、この調子だ。久々に会えたユキをほったらかしにして、一人で楽しく滑っている。
(もうっ、好きにしたらいいのよっ)
 京に向かって、大声で叫びたいようにユキは思った。
 一方、整備車は、順調に役目を終えて、がたごととリンクを出て行った。すっかり整えられた氷の面が、まるで泉のように光っている。
 スタッフたちの手でロープが外されていく。
 待ち兼ねたように、京は反対側に飛び出ていった。
 そのしなやかさ。思わず、ユキは、京の姿を目で追った。
 まばゆく輝く照明の下、四方から光を浴びて京の影が舞い巡る。誰もが瞳を惹きつけられる。京の独壇のようになっている。
 ユキは、自分の気づかないうち、立ち上がった。手の中のコーヒーは冷たくなっている。リンクに寄って、手すりを掴んだ。
 羽のように駆け回っていた京は、ユキの視線に気づいた。光を掃くような鮮やかなこなしで、ユキのもとにやってくる。
「すごい」
 ついさっきまでの苛々なども忘れてしまって、一言だけをユキは言った。京は、少年のようににっと笑った。
「な。滑ろうぜ?」
 言って、京は手を伸ばしてくる。
 ユキは素直に頷いて、その手を、取った。





 京の手はとても優しかった。
 ユキの手を引いてやりながら、どこまでも緩やかに滑っている。かすかな勢いだけをつけ、カーブを器用に曲がってみせる。
 京の手にバランスを取ってもらいながら、それでやっと、ユキも無理なく氷の上を滑ることができた。
「できるじゃん」
 力づけるように京は言った。思わず、ユキは笑みを零す。
「京のおかげよ」
「そっか?」
「ねえ、どうやったら京みたいに滑れるようになるの?」
「やってみてえ?」
「うん」
 ユキの返事を聞くと、京は、悪戯っぽく目を光らせた。
 あっ、とユキは思った。これは、何かユキを困らせることを思いついたときの京の目だ。
「いいか、絶対手ぇ離すなよ」
 京はユキの両手をしっかりと握り、足を強く踏み込んだ。
「ちょ…ちょっと京っ」
 突然の加速に戸惑う間もなく、ユキは京に取り込まれる。
「喋ると舌噛むぜっ」
 その声を聞くのがやっとだった。
 鉄砲玉のように京は飛び出し、リンクの中央へ駆け出した。
 本領を発揮するかのように、そのまま疾走し始める。
 耳元で唸る冷たい風に、ユキは体を縮ませた。足が凍てつく。瞼が凍る。京が生み出すスピードに、ただただ振り回されるしかなかった。
 何度もユキは転ぶと思った。しかし、ユキのバランスが崩れかけると、京は強くユキを引き寄せ、絶対にそれを許さなかった。手を離すなと京は言ったが、離さないのは、京のほうだ。意識が真っ白になるようで、ユキはきつく目を瞑った。
 やがて、嵐も終わりを迎えた。
 ぐったりとしたユキを伴い、氷上をゆるやかに滑って京は手すりへ導いた。
「大丈夫か?」
 自分でやったことのくせに、あっさりと京はユキに言う。白くなりすぎた顔を上げ、ユキは眉を吊り上げる。
「ひっ…ひどいじゃない、あんなに無茶するなんて」
 抗議するが、悪びれもせず京は言った。
「おめえだろ、滑りてえって言ったの」
「あんなに激しくだなんて言ってないわよ」
「悪ぃ悪ぃ」
 白い歯を見せて、京は高く笑う。血が噴き出そうに紅くなっている、ユキの鼻や頬を撫でてくる。いたわりに満ちた、優しい手つきだった。
 しかし、ユキは京を睨んだ。勝手ばかりの振る舞いに、咎めるような目をするのを止められない。興奮の消えない澄んだ瞳が、潤んで赤くなっていた。
 京は一瞬、息を止める。
「悪ぃ、つい、さ…お前見てっと」
 言いながら、それと知られぬ速さでユキに唇を寄せ、すぐ離れる。
 ユキは唇を押さえた。立て続けなような京の思いがけない行動に、いっぱいに瞳を丸くさせる。俯いた。
「…振り回したくなるっつーか…ほんとによ、久々に会うってのにな」
 京は何食わぬふうで、ユキの髪ばかりを撫でている。熱い、手だった。
「…ばかっ」
 やっとの思いでユキはそう言った。



 夜空の星を、冷気がくまなく磨いている。
 京とユキは並んで、帰路についていた。
 ユキは、重りのつかない足が不自然なように、何度か曲げ伸ばしをした。
「もう足がパンパン。京は平気なの?」
「鍛え方が違うんだよ。何だったらマッサージしてやろうか?」
「いやっ、スケベ!」
 真面目なユキはすぐに顔を赤くさせる。声をあげて京は笑った。
 星の下、手をつないだ。
「星、きれいね」
「ああ。オリオン座だな、あれ」
 三つ居並んだ星を眺めて、京は言った。ユキは、笑った。
「それじゃ、あれは?一番真っ白な光」
 試すような調子で、京が言った星のそばの、一際強い光をユキは指差す。
「えー…、そうそう、シリウス」
「じゃああっちのあれは?六つ星が集まってる」
「すばる」
「別名、何星団?」
「…」
「ねえったら」
「…仕返しかよ!」
「勝手ばかりはさせないもの」
 勝ち誇るようにユキは笑った。してやられたように京も笑い、ユキの肩を引き寄せる。
「悪ぃな、いっつも。その、勝手ばっかで」
 神妙に、京は言う。
 一瞬、ユキは何のことか分からなかったが、すぐ理解した。
 京自身のことを言っているのだ。彼自身、自分が身勝手な振る舞いをしていることが分かっているのだろう。今日のようなことではない、普段の、格闘家として生きている、自分の思いを通した姿のことを。
 家族や恋人のそばで過ごす平穏な暮らしよりも、己を磨く日々のほうを、優先させてしまっている、と。
「…」
 それ以上、京は何も言わなかった。謝りはしたようだが、それ以上の言葉、たとえばそれでもお前を大事に思っている、など、弁明のようなことも言わない。京らしいと言えば京らしかった。どんな言葉をどう繕ったところで、事実も、そして京の心も、変わらないのだ。
 ユキは静かにかぶりを振った。
「いいわよ」
 強がりでもなく、諦めでもなく、そう答える。京であるから、他の誰でもない京であるから、ユキは、そう答えることができる。
 ユキは京の手に触れた。冷気の中で炎に手をかざしたときのように、温かい。どれだけ離れていたとしても、必ず、京は自分の元に、帰ってきてくれるのだ。このぬくもりを、ユキは信じることができる。
「京」
 ユキは顔を上げる。
「…ん?」
 何気なく答えた京の目は、澄んでいる。
 その瞳を見つめて、ユキは、京の向こうの空を見やった。
「…星が、綺麗よ」
 言われてから、京は星空を見上げた。
「…ああ、そうだな」
 手を、握り合う。
「…綺麗だ」
「綺麗ね…」
 静かに、声を交わす。
 螺鈿のかけら、火のように燃える星の粒。二人は、いつまでも見つめ続けていた。










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