〜 Quiet step 〜







 穏やかな風の声に、静かに木の葉が答える。
 校舎のはずれ、誰も立ち寄らない寂しい場所に、その樟の木は生えていた。堅い樹皮には苔がむし、翼のように広がった枝からは、豊かに茂る葉が安らかな木漏れ日を投げかけている。
 校舎からあまりに離れているせいで、ここへやってくる生徒は少ない。少し休んで、また授業へ戻るには遠すぎるような場所だった。
 ここに人の姿が増えたのは、つい最近のことだった。光と風しか訪れないこの場所に、いつしか京という名の青年が加わった。ユキという少女も増えた。真吾少年も紛れ込んだ。
 高校の休み時間、昼下がりの短い時をこの場所で過ごすのが、いつの間にか彼らの日課に、なっていた


「そんじゃ行きますよ〜!」
 梢の下、割れるような大声で真吾が手を振る。腕時計の小さなスイッチへ、指を構えている。
「いつでもどうぞ!」
 弾けるようにユキは明るく答え、隣の京へ、目をやった。京は鼻を鳴らし、腰を沈めた。ユキも、前に屈むような姿勢を取る。
 真吾のいる木までの距離は、約100M。ユキが感覚で、そう判断した。
「スタートっ!」
 威勢のいい真吾の声と同時に、二人は駆け出す。
 鷹と隼が翼を比べているように、鋭い二陣の疾風のように、二人は真剣に駆けてくる。すぐに、尖った風が真吾の前を走り抜けていった。
「・・・はい、ダメ」
 余裕を持って呟き、ぱしっと、京は樟の木へ手をついた。それから遅れて、ユキが幹にタッチする。真吾の指が動いた。
「もぉっ、また負けた!」
 悔しげに二の足を踏むユキに、京は言った。
「だってハイジャンプだろ、お前の専門」
「こんなとこで寝てばかりいる京よりは、体、動かしてるつもりよ」
「資質さ、天才との違いってもんだ」
「それじゃあ天才さん、留年なんてするんじゃないわ」
「さっ、真吾」
 ぱっと、京は真吾を振り返った。
「今のタイム、何秒だった?」
 見よう見まねのフックを、ユキは京の背中に食らわせる。
「すごいっす!」
 高く、真吾は腕時計を掲げた。
「12.55!新記録っす、13秒切ってますよ!」
「ほんと?」
「なんだ、意外と遅いんだな」
「何言ってるんすか、大会クラスっすよ!ねっ、ユキさん!」
「甘えよ真吾、こいつより速い奴ぁごろごろいるって」
「京、何ですって!」
「だってユキ、お前 俺にも勝てないだろ。そう、寝てばっかいる俺にもさ」
 白い頬を ユキは膨らませる。
「それはそうだけどっ。いつかは抜くわよ。京くらいに勝てないようじゃ、陸上部の名が泣くわ」
「? もう引退だろう?走る意味無くなるんじゃねえの?」
「走ることに意味があるの。意味のために走ってるんじゃないわ。京だって、そうでしょ?」
 ふっと、京は笑った。
「まあな。分かってんじゃん」
 ぷいっと、猫のようにユキはそっぽを向いた。
「あ、草薙さん、それってKOFのこと言ってるんすか?」
 無邪気な真吾が、口を挟んだ。ふうっと息を吹きかけ、京は拳骨を握る。
 真吾の視界に、星が散った。
「真吾、お前は黙ってろっての」
 冷たく、京は言う。殴られた頭を押さえて、真吾は喚いた。
「い、いきなり殴るなんてひどいじゃないすか!親にも殴られたことないのに!」
「俺は生まれた時から親父に殴られ通しだったよ。文句言ってねえで食後のジュースでも買ってこい!2分以内だ、間に合わなかったら破門だからな」
「京!無茶言わないの!」
「いえユキさん、これも修行の一つっすよ!俺、行って来まーす!」
「ちょっと真吾くん・・・」
 ユキが止める間もなく、真吾の姿が遠ざかっていく。
 ユキは京に向き直った。
「もう、京ったらどうしてあんなひどい注文するのよ。あれじゃ真吾くんかわいそうだわ」
「俺の草薙流は一子相伝、門外不出だ。それを他人が学ぶからには、それ相応の覚悟と努力が必要なんだぜ」
 堂々と嘯いてみせる京に、ユキは肩を落とした。
「もう・・・いつかバチが当たるわよ」
「天罰なんて俺は信じねえよ。運のいい悪いがあるだけさ」
 そうユキに言いながら、京はふと、別のことを、考えた。
 運のいい奴、悪い奴。
 ユキを、ちらりと見た。
 96年夏、あの大会であの女が言ったことが京の頭を横切る。
 『逃げられない』と。
「なあ、ユキ」
「?」
 ユキが振り返る。すらりと伸びた手足と、頼りないまでに白く小さな顔。澄んだ小麦色の瞳が、まっすぐに京を見た。
「あ、いや・・・」
 今年もKOFは開かれるのだろう。何となく、京は予感していた。
 手を、伸ばした。生まれつき淡く茶色いユキの髪に、触れる。子犬にするように、頭を撫でた。
「京?」
 されるがままになっていたユキが、瞬きをした。
「・・・」
「俺は、きっと運のいい奴なんだろうな」
 呟くように、京は言う。ユキは首を傾げた。
 草薙の家に生まれた理由と意味を、京は考えたことはなかった。考えないでいる自分の気楽さと、考えさせないこの少女の存在が、とても有難かった。
「明日は真吾に稽古をつける番だよな」
 関係ないことを、京は言う。勘のいいユキは、それだけで京が何を言いたかったのか分かってしまった。
「心配しなくったって、あなたは絶対、一人にはならないわよ」
 京はユキを見る。花のように、ユキは笑った。
「お父様たち、紅丸さんたち、真吾くん、それから・・・」
 置かれたままの京の手に手を触れさせ、ユキは恥ずかしそうに頭から外した。
「とにかくね、京。あなたには、たくさんの人が味方してるから、だからね・・・」
 ユキは、黙った。京は言う。
「早く卒業しろ?」
「違うわよっ。あなたは、とても幸運な人。それを、言いたかったの」
 言って、ユキは俯く。耳まで真っ赤になっている。
「何でお前が照れてんだよ」
 言いながら、京は思った。
 そう、そうなのだ。
「来週は手加減してやろうか?かけっこ」
 お前に会うことができたこと、それだけで、俺はとても嬉しい。
「バカ、それじゃ意味が無いって言ってるじゃない」
「分かってるって」
 笑って、再び京はユキの頭に手を置いた。短い髪を、ぐしゃぐしゃに乱す。
「きゃあ、京、ひどい!」
「悪い悪い」
「悪いと思ってることをしないの!」
 ぷっと膨れて、乱れを直すユキの向こうに真吾の姿が見えた。腕時計をちらちら見やり、こちらへ走ってくる。
 京が言った時間よりも、遙かに遅れている。無理も無いと言えばこれ以上のことは無いのだが、すでに京は、彼にどんなノルマを押しつけてやろうか考えていた。
 数羽、小鳥が樟から飛び立っていった。青空からさっと影が伸び、すぐにどこかに消えていった。
 きっと、明日も続く。祈るように、京は思った。
 ずっと、終わりませんように。
 この毎日が。今日が終われば明日になっていく、この穏やかな日々が・・・。




 1997年、春。眠り続ける魂は、未だ、蛹の中に在る。