〜 Deep River 〜







 まだ、夜明け前。
 短い髪が風に揺れる。
 河原を、走っていた。流れを遡り、さかさまに。
 月はぼんやり空にある。光る水面は鱗のよう。
 町を流れるひと筋の川。この間からユキはこうなのだ。



 1997年の、夏を過ぎてから。



 走っているとよかった。
 走っていると、余計なことは考えない。
 月が傾き、朝日の昇ってくる時まで、ユキは河原を昇っていく。
 自分を鹿のようにと思う。
 とにかく走る。ただ走る。
 高校三年の秋の今、すでに陸上部の活動は引退しており体力をつくることもないのだが、受験勉強の合間を縫ってユキは走った。
 学校、勉強。受験生の自分がしなければならないことと、走ることとは、今のユキには違う次元のことであった。
 走っていると全てを忘れる。心は鎮まり、思考は凪の海となり、意識は澄んだ氷になる。体もそのまま透明となって、空気の中へと溶けるよう。
 そう、思えてしまうのに。
 一かけの澱が邪魔をする。たった一つの消えない淀み。澄んだ意識の奥深く、どれだけ必死に走ろうと、それは消えない。消すことができない。




 夏が終わっても、京は帰ってこなかった。




 ユキは全てを忘れたい。




 薄明が迫ってくる。
 朝日が近い。 
 ユキは橋が見えてきたところで、足を止めた。
 肩を上げて呼吸をしている。いつもより長く走ってきた。
 コンクリの河岸に腰を下ろす。
 微風に誘われ汗が流れ出てきたが、ユキは水を飲んだりはしなかった。ペットボトルや水筒などは、走ることの邪魔になる。
 それに、すぐ折り返して家に帰る。そこで水を飲み、朝食を摂る。それから学校のある日は学校に通い、ない日には、図書館などで一日を過ごした。
 それがユキの毎日だった。無茶をしている。元から細身であったのが目に見えて痩せてきているし、顔色もまるで、水に浸した白蓮のように透き通るぐらいになっている。
 京が戻ってこないことは、ユキの心に大きな空洞を空けた。ただ戻ってこないのではなく、行方が不明であるという。その言葉が持つ恐怖と不安を打ち消すために、ユキは河原を走った。走ってさえいれば、心が楽になるのだ。ユキは走ることで心の平衡を保っている。
 ユキは暫く、川の水を眺めていた。白みを帯びた空の光が反射している。
 水を見つめているうちに鼓動が治まり、呼吸が楽になってくる。
「ユキさんっ」
 唐突に声がかかった。
 ユキは驚き、大げさな素振りで振り返る。
「あ…」
 名前を呼んできた人物は、いっぱいに開かれたユキの目を見てすまなそうな声を漏らした。その、つぶらな瞳。
 ユキの一年後輩である、矢吹真吾だった。京の一番弟子を自称していて、その性格は素直で明るい。
「な…なんだ、真吾くん」
 胸に手を当て、ユキは大きく息をついた。
「どうしたの真吾くん、こんな時間に。朝練?」
 真吾は水泳部に所属していた。何にでも熱心なので、ユキはそうなのだろうと思った。
「いえ」
 真吾は答える。
「あの…学校の噂で聞いたんです。夏から毎日、ずっと毎日、ウチのガッコのジャージ着た誰かが川で走ってるって。聞いてみたら何だか外見がユキさんに似てる感じで、まさかって思ったんですけど、でも夏休み終わってからユキさんずっと痩せてきてるし、もしかしたらって思って…」
 たどたどしく、真吾は言う。
「そう…」
 ユキは言って、目に入りかけてきていた汗を払った。
「噂になんて、幽霊みたいに見えたのかしら?」
 そう言って微笑むユキの笑顔は、月のように青ざめている。
 日々痩せこけていく上級生の顔色に、真吾は悲しそうに眉をひそめた。
「あのっ、ユキさん。となり、座ってもいいですか」
 咳き込むように言った。
 拒む理由はなかった。ユキは頷く。
 隣と言いながら、真吾はユキの左後ろに正座で座った。ユキの視界には入るが、ユキが振り返ってみて初めて真吾が視える位置だった。
 しかし真吾からは、ユキの横顔はよく見えている。
 何かを言いにきたのか。
 ユキは思った。そういえば、真吾とは暫く会話をしていない。学年が違うこともあるが、京のことを知らせてくれたのは京の戦友の紅丸だった。真吾の姿を見たのは新学期が始まってからのことだった。
 それから一度も会話をしたことはなかった。教室の棟も違うので、真吾とは顔を合わせる機会にも乏しかったし、たまに廊下ですれ違っても、視線を合わせた記憶も少ない。すぐに視界から消えた気がする。
 自分を避けているのか。
 真吾はKOFに参加していた。KOFとは、世界各国を舞台にして開催される、大規模な格闘技の大会のことだ。京の姿が最後に見られた場所でもある。大会中、真吾は京と顔を合わせたこともあるだろう。ユキと離れてからの京を、真吾は知っている。
 日本の女子高校生という枠からユキは出たことがない。ユキは、京の出場するKOFにはついて行かなかった。そんなことは、倣岸に見えてはにかみ屋の京も嫌がっただろうし、ユキには受験勉強があるのだ。夏の間、別々に動いて当たり前だと思っていた。
 それきり京が帰ってこないだなんて、思うほうがどうかしている。
 だから、もしかして。
 ユキは自分に問い掛けた。
 KOFを知る真吾とは一度も会わないでいた。学校で見かけても視線も合わさず…。
 この子を避けていたのは、自分のほうだったのか?
 河原に吹く風は強い。ユキは乱れた髪を手で押えた。
「ユキさん」
 真吾は言った。思い詰めたように緊張した、ひたむきな声だった。
「お話があるんですけど、いいですか?」
「いいわよ?」
 ユキは真吾を振り返る。やはり、真吾は堅い表情でいる。ユキを気遣うような、それでいて自分の中の何かを伝えたいふうでいる、必死の形相だ。
「何のお話?学校のこと?」
 言うと、真吾の目が潤んだように光った。いいや、先ほどから、ユキが笑ってみせたときから真吾の目は赤くなっていた。
「いいえ…草薙さんのお話です」
「…そう」
 ユキは短く答える。予想はしていた。ユキと真吾のつながりは、学校の話題を省くと京のことだけになってしまう。
「俺、ずっとユキさんに渡したかったものがあるんです。ずっと…ずっと、言い出せなかったんですけど」
 言って、真吾は一つの包みを取り出した。ユキに差し出す。ユキは真吾を見たが、真吾は赤い目のまま顔を伏せている。ユキは手を伸ばしてそれを受け取り、いやに丁重に包まれているそれの結び目に手をやり、解いた。
 中から出てきたのは、黒革製のグローブだった。手の甲の部分に太陽の光のような黄金のラインが入っている。随分使い古されているようで、黒い糸がほつれているところもある。
 そっと、手に取る。
 見覚えがある。これは…。
「京の…」
 声を漏らすと、真吾が頷いた。
「はい。草薙さんが、戦うときにいつも使ってたグローブです。…紅丸さんから受け取りました」
「…紅丸さんから?」
 ユキは鸚鵡返しに聞き返す。
「はい。紅丸さんが、最後に草薙さんを見た場所にこれだけが残ってたらしいんです。俺からユキさんに渡して欲しいって、渡されました」
「どうして?」
 ユキは思わず色をなした。
「私、紅丸さんには一度会ったわ。紅丸さん、どうしてそのときに渡してくれなかったの?」
「…紅丸さんも悲しかったんだと思います」
 真吾は視線を外す。
「草薙さんが帰ってこないことも悲しいし、…それ以上に、悲しむユキさんの顔を見たくなかったんじゃないかと思います。俺も…それでずっと渡すことが出来なかったんです。学校で見かけるユキさん、どんどん痩せてって……ユキさんがどれだけ悲しんでるのか、俺、草薙さんとユキさんが二人でいるときの笑顔、それを知ってるから……だから…」
「…」
「だっ、だから…」
 真吾の声が詰まる。
「…ごめんなさい。こんなに大切なものなのに、俺、勇気が出なくて、ごめんなさい…!」
 肩がせりあがった。コンクリに小さな染みが散った。みるみる雨のように広がっていく。
 真吾は泣き出した。睫毛の濃い眼を両手で覆って、耳と鼻とを真っ赤にして。
「…」
 嗚咽を殺して泣く真吾の姿を、ユキは茫然と見つめていた。なすすべもなく、手の内のグローブを握りしめる。
 鼓動が一つ、跳ね上がった。ユキは目を落とす。グローブが熱い。黒色の中の金色のライン。闇の中の太陽。
 京。
 京の顔が心に浮かぶ。夜のような京の黒い目。それから、紅丸の顔。ユキに京のことを知らせてくれた紅丸。その時の紅丸はどんな顔をしていただろう。ひょっとしたら、悲しそうな顔をしていたんじゃないか?
 ユキは思い出せない。ろくに、見ていなかった。
 目の前の真吾は泣いている。後から後から溢れる涙が、手の隙間から零れている。
 紅丸のこと、真吾の涙。
 胸が塞がる。
 悲しかったのは自分だけじゃない。
 錐で突かれたように心臓が痛む。
 皆、京がいなくなった現実と、必死になって戦っている。
 それなのに、自分だけが悲しいと思って、周りを見ようともしないで…。
 ただ、一人で痩せていった。青白い肌、浮かび上がった静脈と骨。ユキは自分が恥ずかしくなった。
 グローブは、やはり温かい。
 京の温度?
 ユキは思う。
 いや、紅丸が拾い上げ真吾の手に介されるまでどれほどの時が経っている。京自身の温もりが残っているはずはない。
 それならこれは…ユキが思い出した、ユキの京の温度か。
 ユキの手を握る京の手は、いつも温かだった。陽だまりに触れたような安らぎがあった。
 京の手。そこにつながる、京の笑顔。
「あ…」
 ユキはかすれた声を漏らした。
 どうして思い出さなかったのか。
 自分を見つめて、笑いかけてくる京の笑顔を。
 どうして、忘れようとなんかしたのか。
 自分だけを瞳に映した、愛しい京の満ち足りた目を…。
 そこにあったのは、確かな絆ではなかったか。
 ユキは瞳をこすった。
「泣かないで、泣かないで真吾くん」
 上を向いて、涙が落ちかけるのを防いだ。
「私こそ、みっともなかったわ。わがままだったね、自分のことしか考えてなかった…」
 真吾が顔を上げた。目の縁までが真っ赤になって、まるで兎のようになっている。
「ありがとう真吾くん。私…京を勝手に殺すところだった」
 悪い夢を払うように、ユキは首を横に振る。
「京は…帰ってくるわ。そうよ、前もKOFに行ったまま、まっすぐなんて帰ってこなかったもの。ちょっと、時間に信じられないくらいにルーズなだけ。京は帰ってくる…」
 一呼吸置いて、ユキは笑った。
「京を待ってる、私のところに」
 真吾は、ユキの笑顔を見つめている。久々に目にしたものだ。京と一緒にいるときのような笑顔。朗らかな明るさに満ちている。
「は…」
 真吾は息を吐いた。
「はい!」
 涙を散らせて、真吾は大きく頷く。
 その顔に、ふと白い光が射し込めた。ユキは東の空を振り返る。朝日の輝き。目覚めたての陽光が朝雲の切れ間を駆け抜けていく。新しい一日が始まっていく。
 ユキは暫く、空を眺めていた。祈るように目を閉じる。この空を京も見ているといいと、思った。
「そろそろ、帰らないとね…」
 口からそんな言葉が零れた。日常が戻ってきた。そんな、感覚があった。
「真吾くん、本当に…本当に、ありがとうね」
 思いを込めて、ユキは、そう言った。赤い目をこすって真吾は首を振った。
 膝を払って、ユキは立ち上がる。
 歩き出した。真吾も、その後ろに続く。
「真吾くん」
 並んで歩きながら、顔は見ないで言った。
「なんですか?」
 呑気な真吾の声。
「何か、甘いものでも食べに行かない?」
「えっ」
「ちょっと痩せすぎちゃったし…学校なんて休んじゃって、今から、今すぐ」
「そんな…ユキさん。そんな、無茶言って」
 真吾は、笑った。
「なんか、草薙さんみたいですよ」
「私も、そう思う」
 真吾を振り返り、ユキは笑った。
 朝の光が、河原を染めていく。
 流れがきらきらと輝いた。
 きれい。
 ユキは、そう思った。手の中のグローブをそっと握った。
 大丈夫。私は。
「待ってる…待ってるわ、京」
 そっと、呟いた。
 川が静かに流れていく。瀬の音が柔らかく耳に響く。
 流れに沿って、ユキは、ゆっくりと川辺を歩いていった。










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