〜 Leuchten wir 〜







(1)


 風が、開け放たれたガレージの中へ吹き込んでくる。
 車のボンネットを開き、しきりにスパナを回している男の傍らで、アルバは、風に誘われたように顔を上げた。
 ビル群の隙間から切れ切れに見える空は、この毒された都会のサウスタウンには珍しく青く晴れ渡っていた。どこからか少年たちのはしゃいだ声が聞こえてくる。おそらくはこのスラムの高架下でバスケット・ボールに興じている少年たちのものだろう。アルバの双子の弟のソワレの声も、ひときわ高く聞こえてきている。
「お前も行ったらどうなんだ?」
 ふいに声をかけられる。隣の男…彫りの深い顔を遠慮なく機械油で汚している…チャンスが、目は車から離さずに言う。
「いや、いい」
 短くアルバは言った。
「バスケもいいが、車を見ているのも面白いよ」
 そう答える。実際、アルバは車が好きだった。今日のようにチャンスが車の整備を始める時には、殆ど近くにつくことにしている。最近、アルバはチームのノエルと共に車の運転を覚え始めたので、車というものが面白くてしょうがないのだった。
「変わった奴だな」
「そうだろうか?でもそれはチャンスだって同じじゃないか。外はあんなに晴れているというのに、ずっとガレージにこもりきりだ」
「天気がどうだろうと関係ねえよ、必要なことなんだからな」
 スパナを器用にくるりと回して、チャンスは言う。
「クルマがなきゃあ、わりと広く作られてるこの街を走り回れねえ。いざってときに間に合わないようじゃあ話にならねえだろ?半殺しの目に遭ってるガキどもを助けに行くときとか、な」
 チャンスは唇を吊り上げる。
「それを言わないでくれ」
 年上の男のあからさまなあてつけに、アルバは顔を背ける。
 アルバ、そしてソワレは、このチャンスと、フェイトという名で呼ばれるもう一人の男に命を助けられたことがある。
 孤児としてドイツの施設で育ち、14歳の時にそこを飛び出した。浮き木が漂流するようにヨーロッパを転々とした末、この新大陸の、サウスタウンに流れ着いた。
 だがこの街は冷たかった。政治と治安は犯罪組織に牛耳られ、法を遵守する者もない。街のそこかしこにギャング団が跋扈し、強者が弱者を支配し、弱者は、ただ強者に従うか、さもなくば潰れて消えていくだけ。
 そんなことは何も知らなかった二人は、どの街でもやってきたように、生きていくための食料を、手近な店で無銭で調達しようとした。それを、その店の「用心棒」だった年上の少年たちに引きずり出され、文字通りに半殺しの目に遭わされていたのだ。
 それを救い上げてくれたのが、フェイトだった。
 フェイトは、どこまでも人の良い朗らかな大男で、しかも腕が立った。正義感が強く、困っている人間を見るとすぐに己の懐へ入れ、親身に世話をしてやる。いつか「このスラムに住む人間はみんなおれの”家族”だ」などと言っていたのも、アルバははっきりと記憶している。
 フェイトは、チャンスと共に「サンズ・オブ・フェイト」というギャング団を結成している。
 ギャングといっても、その実は自警団のようなものだった。この街にまっとうな法は存在しない。法が守ってくれないのなら、自分で自分を守るしかない。そして、この街には己を守る力すらない人々も多いのだ。フェイトはそんな人間…多くは、年寄りや女子ども…たちを、守るため、街を奔走している。
 だから二人は、フェイトとチャンスがリーダーを務めるチーム、「サンズ・オブ・フェイト」に加わった。フェイトとチャンスに出会わなければ、自分たちはこの街で誰にも知られずに消えていた。そして、この街には、そんな人間たちが何人いるのか知れない。
 生きるため、弱い人々を護るため。だから二人はこの街で強くなった。フェイトの元に集まる同年代の少年たちの中で、頭角を現していると言って良いほどに。
 それでも、アルバとソワレを拾った本人たちには、まだひ弱だった頃の印象が抜け切らないのだろう。チャンスは未だに、その時のことをこうして持ち出すことがある。恩を売るのではない、皮肉屋のチャンスは、時折そんなふうにして人をからかう癖があるのだ。
 不満を密かに溜息で漏らして、アルバはなにげなく視線を移した。と、ガレージの隅に一台の車が停まっているのに気がついた。
「チャンス、その車はどうしたんだ?あちこち傷んでいるようだが…」
 言いながら近づく。バンパーはへこみ、フロントガラスは割れ、塗装のあちこちにかすれた斜線が入っている。まともに動くようには見えなかった。
 チャンスの車ではない、と、アルバは思った。もしもチャンスのものであれば、どれだけ忙しくとも今のように時間を作って自動車の整備に当たるはずだ。
 チャンスは顔を上げた。
「ああ、それはフェイトの拾いもんさ。向こう筋のアベニューに住んでる爺さんが、廃棄業者に運んでいくのをわざわざ止めて貰ってきやがったんだと。まぁ要するに押し付けられたみてえなもんだろうが、あいつときたら捨てられてるものを見ると何でもかんでも拾ってきやがるからな…行き先の無いガキどもはもちろん」
 チャンスの皮肉を無視し、アルバはボンネットを開き、機関部を確かめた。いつもチャンスがやっているように。
「まだ走れるように見えるが…駄目なのか」
 にべもなくチャンスは首を横に振る。
「だからフェイトも拾ってきたんだろうが、肝心な、整備するヒマってやつがあいつにはねえんだよ。余分な時間は全部街の人間のために使っちまうからな。んなこと最初から分かってただろうに、俺としちゃあそんなオンボロ、使えるところだけ頂いてジャンク屋にでも売っぱらいたいんだがな」
 現実主義のチャンスらしい言葉だった。確かに使わないものを置いておくよりはずっと有効なことだろう。
 アルバは、車をじっと見つめた。
「俺が…修理する」
「はぁ?」
 チャンスは頓狂な声を上げた。アルバはもう一度言った。
「俺が直す、と言ったんだ」
「おいおい、そう簡単な仕事じゃねえんだぜ?」
「ずっとチャンスの仕事を見てきたからな。分かる。だいたいのことは頭に入っている」
 それは誇張ではなかった。己の記憶力と応用力に、アルバは一定の自信を持っている。できる、と、思った。
 チャンスは何か、なお言葉を募ろうとしたが、
「おーい、お疲れさん!チャンス!兄貴!差し入れだぜっ」
 明るい声と共に、ソワレがガレージに飛び込んできた。バスケを切り上げて一休みしにきたのか、腕いっぱいに、ハンバーガーとコーラを抱えている。フェイトから貰った小遣いで買ってきたのだろう。
 そんな弟をよそに、そばにあった手袋をはめながらアルバは言った。
「手伝いも来た。やれるさ」
 チャンスは息をついた。手伝いなどと、どちらかといえば車にあまり興味が無く、それも精密な作業が苦手なソワレに手伝いらしい手伝いができるわけがない。あくまで一人でするつもりなのだ。だが、こんな時のアルバに何を言っても無駄なことを、チャンスは知っている。
「え、なんだ?兄貴、どうしたの?」
 何も分かっていない様子で、ソワレはにこにこしている。
「やれやれ…フェイトは本当に厄介なモンらを拾ってきたもんだぜ」
 チャンスは大げさに、肩をそびやかしてみせた。


(2)


 強い太陽が濃い影を落としている。
 アパートのほど近くで、チャンス、フェイト、そして、今日はバーを休みにしているシャーリィが、じっとアルバと、アルバの整備した車を見守っている。
 運転席に陣取ったアルバは、大人たちの視線を何も気にしないふうで車のキーを回した。ちゃっかりと助手席に居座っているソワレが、固唾を呑む。
 エンジンが奮う。力強い振動がアルバの手足、心臓に伝わってくる。ソワレは無邪気な歓声を上げた。
 どうだと言うように、アルバはチャンスを見やった。チャンスは片眉を吊り上げる。アルバがこの車を整備している間、チャンスは一度もアルバを助けようとはしなかった。
 チャンスは車につかつかと近づき、一通り車体を改めた後、ボンネットを開いた。じっと、注意深い瞳で見つめた後、
「まぁ、いいんじゃないか」
 短く言い、閉める。嬉しそうにソワレがアルバに向かって手を挙げた。アルバも唇を吊り上げ、弟と手を打ち合わせた。
「よくやったもんだな、たいしたもんだ」
 感心したようにフェイトが言う。チャンスが振り向く。
「ったく、気楽なもんだぜ。いいのかよフェイト?お前のクルマを取られちまったんだぜ?」
「何を言ってるんだチャンス、アルバが一人で直したんだろう?だったら、それはもうアルバのものさ。アルバが直してくれなければ、いつまでもガレージで埃を被っていたはずなんだから」
 機嫌よくフェイトは言う。慌てて、アルバは首を横に振る。
「フェイト、俺はそんなつもりじゃ」
 アルバの言葉が殊勝らしく聞こえたのか、チャンスは意地悪く笑ってみせた。
「そんなつもり、だって?だったら、どんなつもりだったんだ?」
「…」
 アルバは沈黙した。忙しいフェイトの助けになりたかった──など、そんなことは口が裂けても言葉にしないアルバであることを知っていて、チャンスはそんなことを言うのだ。
「ちょっとチャンス、あなたの悪い癖よ。すぐに人をからかって」
 助け舟を出したのはシャーリィだった。引き締まった腕、艶やかなブルネット。アンという幼い愛娘がいるとは思えないほど、シャーリィはいつも若々しかった。
「ねえアルバ、せっかくなんだし、起動式も兼ねてソワレと一緒にドライブにでも行ってきたら?こんなにいい天気なんだから」
「いや、それは」
 即時には受けかねるシャーリィの提案をアルバは否定しようとしたが、
「そりゃいいぜ、兄貴!行こう行こう!」
 楽しいことが大好きなソワレが、その青い瞳を輝かせる。
「久しぶりにさぁ、どっか行こうぜ!」
「行ってこいよ、アルバ」
 フェイトはにこやかに笑っている。
「だがフェイト…。俺たちが抜けても大丈夫なのか?街の見回りは…」
「生意気言ってんじゃねえよ」
 チャンスがせせら笑った。
「俺たちが何年この稼業をやってると思ってるんだ?お前らの抜けた穴なんて何でもねえよ」
 アルバはフェイトを見た。フェイトは微笑する。
「大丈夫さアルバ。お前たちは普段、本当によくやってくれてるんだから。たまにはのんびりしなきゃいけない」
「…」
 アルバは黙っていたが、
「分かった」
 ハンドルを握り締め、頷く。
「そんなこと言って、お前らそのまま高飛びするつもりじゃねえだろうな?」
 口元に笑みを溜めながらチャンスが言った。アルバは顔を上げ、ソワレはきょとんとした顔でチャンスを見る。フェイトはチャンスを振り返った。
「何を言うんだチャンス。そんなわけがないだろう」
「いいや、分からないぜ?フェイト、お前のひいきにしてるチャイナタウンの連中の言葉にあるじゃねえか。”虎に翼”ってよ。クルマなんか与えちまって、こいつらにはその言葉通りのことになっちまったんじゃあねえのかな」
「何を冗談ばかり言うんだ。なあ、アルバ?」
「いや…」
 サウスタウン随一のお人好しを前にして、アルバは呟いた。
「それもいいかもな」
 ハンドルを撫で、低く言う。
「ええっ?兄貴、何言ってんだよ、チャンスもいきなり変なこと言わないでくれよ、俺たちそんなことしねえって!そうだよな兄貴?」
 狼狽するソワレの言葉を、首を横に振ることでアルバは打ち消す。
「…そうとは言い切れない。確かに、それもいいかもしれない。虎に翼…為虎添翼。いい言葉だ。翼があればどこまでも行ける。虎のように強ければ尚更──ここを離れて、新しいところへ──」
「ええええっ、冗談はやめてくれよにいちゃあん!」
 本気になって喚くソワレを見て、俯いたように見せていたアルバは、思わず吹き出した。大人たちも一様になって笑う。
 からかわれたと知ったソワレは、唇を尖らせた。
「なんだよみんな、ひっでーえ!」
 ひとしきり、明るい笑い声が立つ。
「ああ、そうだアルバ、これを持っていけよ」
 ふと、フェイトは懐中からサングラスを取り出した。
「今日は日差しがきついからな、きっと役に立つはずさ」
 そう言って、アルバに渡そうとする。
「いや、いい」
 言下にアルバは断った。人の申し出をまず拒絶する癖がアルバにはついている。
「何を言ってるんだ。運転するなら持っていったほうがいい」
「いいじゃん兄貴、フェイトが言ってくれてんだから」
「…」
 しぶしぶ、身につける。
「なんだ、似合うじゃないか。ずっと落ち着いて見えるぞ?」
「ほんと。サングラス一つで。男の子は分からないものねぇ」
「ガキだガキだと思っていたのになぁ…」
「やめてくれ」
 本気とも冗談ともつかない大人たちの言葉がむずかゆく、逃げるようにクラッチを踏みつけた。エンジンの回転数が上昇する。
「あまり遅くなるなよ」
 心配そうにフェイトが言った。まるで子どもへかけるような言葉だが、チャンスのようなからかいとは違う。フェイトは本気で言っている。それはもう、アルバにもわかるようになっている。
「連絡は入れる」
 付き合って本気で言い残し、アクセルを思うさま踏み込んだ。


(3)


 サウスタウンを抜け、国道をひたすら駆け抜けていく。
 眩しいばかりの陽光。乾いた空気。フェイトが貸してくれたサングラスがあってよかった。突き刺さるような太陽も、ものともしない。
 風にソワレの銀髪がなびく。
「ヒューっ、気持ちいいー!」
 弾けるような声でソワレは笑っている。いつも陽気でいる弟だが、ここまでの笑顔を見るのは久々だった。見ているアルバの気分までが、清清しくなってくる。
 思えば、サウスタウンに流れ着いてから飛ぶように時が過ぎていった。トラブルは毎日のように舞い込んで来る。一筋縄ではいかない問題もある。いくら腕っぷしが強くなったからといって、それだけで解決できる話ばかりがやってくるわけではない。持てる能力の全てをぶつけ、なお持て余す話も出てくる。そんな日常に順応していくのに必死だった。
 しかし、嫌ではないのだ。傍らには常にこの双子の弟がいたし、チームの仲間たちも、必ず誰かが力になってくれるのだから。一人では解決できない問題も、仲間たちと力と知恵を合わせて乗り切ってきた。
 それはつまり自分たちには…。
「なぁなぁにいちゃん」
 アルバの思索を、弟の声が遮断する。弟を見ないでアルバは言った。
「その言い方はやめろ。何度言えば分かる」
「悪ぃ、つい癖で。でも腹減ったんだ。どっかなんかねえかなあ?」
 助手席からずり落ちそうな姿勢で、腹を押さえてソワレは言う。
 アルバは時計を見やった。
 サウスタウンを出てから走り通しだ。
 そろそろ休んでもいいだろう。
 アルバはスピードを緩め、風景の中に手近な休憩所を探した。


(4)


 国道のそば、どこにでもある埃っぽいモーテルに、アルバは車を停めた。
 モーテルのそばには、ガソリンスタンドと、カフェテリアがあった。
 アルバとソワレはカフェテリアに入り、アルバは適当に冷たい飲み物を頼みに行き、ソワレは一番眺めのいい席に陣取った。
 氷の入った炭酸水を二つと、弟のためのハンバーガー、自分のためのフライド・ポテトを運んできたアルバは、トレイを机に置き、初めての長距離運転でこわばった体を質素な椅子に投げ出した。
「サンキュー、兄貴」
 早速、ソワレはハンバーガーにかぶりつく。片手でもぐもぐと始めながら、もう片方の手で、車から持ってきた地図を器用に広げ始めた。
「サウスタウンがここで、今俺たちがいるとこがここっと…へえーっ、ほんとに遠くまで来たなぁ。クルマってすげえな!兄貴!」
 一点一点、地図を指差していたソワレは明るく兄に呼びかける。
「そうだな…もう少し足を伸ばせばグラスヒル・ヴァレイに行けなくもないが。どうする?」
「どうするって、そこってどんな街なんだ?」
「街というよりは町だと聞くな。治安はそう良いものではないらしいが、遺跡などもあるらしい。他にこれといって特徴は無い。観光町なんだろう」
「遺跡かぁ。俺はいいよ、別にキョーミねぇ」
「そうか?噂では格闘技の賭け試合が行われることもあるそうだ。規模は違うだろうが、本質はサウスタウンと同じようなところなのかもしれないな。お前には合うかもしれない」
「まっさかぁ。そんなあぶねえ町がこのおジョーヒンな俺様に合うわけねえじゃん。兄貴こそ楽しめるかもしれねえぜ?」
「いいや、あいにく育ちはいいほうだからな。遠慮しておく」
「育ちがいいってどこがだよ」
「お前こそどこが上品と言えるんだ」
「てへっ、バレちまった」
 屈託ない笑顔を浮かべながら、とても上品とはいえない仕草で炭酸水を煽る。アルバは小さく笑う。
 熱い風が頬にぶつかり、アルバは顔を上げた。
 広い道路。遠くに居並ぶ、ごつごつとした岩の山並み。サウスタウンでは見られない光景だ。本当に、遠くまで来た。初めての遠距離運転を、初めて自分が整備した車で。思い切ったことをしたものだと、今更ながらアルバは思った。
「でもさぁ」
 ソワレは言った。アルバはソワレを見る。
「俺、兄貴とこんなトコまで来れるとは思わなかったなぁ。兄貴の運転する車でなんてさぁ」
 アルバと同じことを考えていたらしく、しみじみしたように言う。アルバは口を開く。
「事故でも起こすと思ったか?」
「そんなわけねえよ、兄貴の運転だもん、あるわけねえよ」
 ソワレはアルバを絶対的に信頼している。それが例え、何もかもが初めての境地へ飛び込む道であったとしても。
「そうかな?個人が注意を喚起するだけで交通事故が減るのなら良いことだが」
「兄貴ぃ、もう意地悪言わねえでくれよ、そういうことじゃねえんだ」
 アルバはサングラスに隠れた目で笑った。ソワレの言おうとしていることは分かっているのだ。
「だからさ、こんなに遠くまで来ただろ?でも、俺たちには帰るところがあって、帰りを待ってくれてる人がいて…今までそういうことなかったじゃん。施設を出てから俺たちずっと二人だけだった」
 ソワレは物思わしげに、グラスに輝く氷のかけらを見つめている。アルバは黙って、ソワレの言いたいように言わせている。
「でも今はフェイトがいて、チャンスがいて、シャーリィや小さなアンやノエルたちがいて…ああ、俺たちだけじゃねえんだなあって。こういうの、何かいいなぁって…こういうのって…えっと…」
 ソワレは頭をかきむしった。
「あーっ、うまく言えねえなぁ、こういうのってなんていうもんなんだ?兄貴?」
 困り果てたようにアルバを見てくる。弟の問いに対する答えは、アルバにはすぐに用意できた。しかし、それを言葉にすることには少々の抵抗がある。否定をするのではない。それは今まで一度も使ったことが無かった言葉だったからだ。だからこそソワレも、自分の中にその言葉を見つけることができないのだろう。
 ソワレはじっと、アルバを見つめてきている。こういう時にいつも見せてくる、兄を頼る目だった。
「そういうのは…」
 アルバは口を開いた。弟が知りたがっているのなら、教えてやらなければならない。今までずっと、そうしてきた。
「幸せ、というんだ。gluck」
 言葉として声に出した途端、むずかゆい気持ちが湧き上がってくる。動揺している己の心を押し隠すように、アルバは必要も無いのにサングラスを押し上げた。
 逆に、ソワレはぱあっと顔を輝かせる。
「そうそう、それそれ兄貴!gluck!その、幸せってやつ!」
 手を打ち、子どものようにソワレははしゃぐ。
「俺たち、幸せなんだよな、兄貴!」
 予想通りではあったが屈託というものが全く無い反応に、我が弟ながらアルバは赤面したくなった。
「おい、恥ずかしくないのかお前は」
「なんでだよ、ほんとのことだろ?兄貴はそうは思わねえの?」
 アルバは黙った。そんなわけはなかった。そう思うからこそ言葉にすることができるのだ。しかしソワレはそれに気付く様子は無い。あくまで無心に言い募る。
「思ってんだろ?だいたい、フェイトがサングラス貸してくれた時もそうだったじゃん。兄貴いきなり断ったりしてさぁ。よくねえよ。その上いきなりあそこを出ていくみたいなとんでもねえこと言っちまって。冗談でも言うことじゃねえよ、俺たちめちゃくちゃフェイトに恩があるんだから。たまにゃあ兄貴も、憎まれ口じゃなくって素直にフェイトにありがとーって……がっ」
 おもむろにアルバは拳を握り、ソワレの顔面に正拳を入れた。
「黙って食べろ。食べたら帰るぞ」
「ハイ」
 鼻を赤くしてソワレはハンバーガーにかぶりつく。調子に乗りすぎた弟への制裁を終え、アルバはよそを見やった。
 確かにソワレの言う通りだった。
 他人から何かを勧められても、自分はまず断ってしまう。それがフェイトのような、おせっかいの頂点に立っているような男からのものでも。
 人を信じれば裏切られる。弱みを見せればつけいれられる。それが、今までのアルバの人生経験で最も骨身に沁みていることだった。
 だからアルバは、己の身を、そして何よりもこの弟、ソワレの純真さを護るため、猜疑にも似た警戒を持って今まで世間を渡ってきた。
 …そのためなのかもしれない。ソワレ以外の人間に感情を見せることが苦手になってしまったのは。
 アルバはサングラスを外し、その遮光性のあるレンズを見つめた。
 そんな自分に対しても、フェイトは世話を焼き続けてくれている。こちらの態度がどうだろうとお構いなしに…。幸せ…そう、幸せなのだろう。自分は。自分たちは。あれほどの人間たちに出会うことができたのだから。
 遠くへ行くなどと冗談で言ったが。そんなことが考えられるわけがない。出会えたことそのものが幸福であるという出会いが、人の人生に一体どれだけ用意されているものか。
 自分たちが生きていくところは──。
 アルバは、今は遠く離れているサウスタウンの方角へ、目をやった。
「おい、お前!」
 突然、だみ声が起こった。双子は目を向ける。大柄な男がアルバに向かって、怒りの形相を見せている。
「さっきから何で俺のほうばかり見てやがる、俺の姿がそんなにも珍しいか?!」
 あまりに唐突であったので、アルバは男の顔を眺めているしかなかった。
「いや、そんなつもりは…」
 思ったままのことを言った。
「いいや、てめえ、そんな目で俺を見る奴は許さねえ!」
 男は立ち上がった。がっちりとした、まるで熊のような体格をしている。
「兄貴、ほんとに睨みつけてたのかよ?」
 こそっとソワレが尋ねてくる。アルバは首を横に振った。確かに、鋲のついたジャンパーという店で最も目立っているような服装だったので、目には付いたが。
「まさか。そんな理由があるものか。普通に見ていただけだ」
「それがダメだったんじゃねえの?何かあっち、そーとー頭にきてるみたいだぜ」
「そう言われてもこの目は生まれつきの目だからどうしようもないんだが…。ソワレ、俺の目はそんなにも人に敵意を抱かせるものに見えるのか」
「へ?そんなの、俺も兄貴と同じ目してるんだから何とも言えるわけねえじゃん。双子なんだし」
「それもそうだな…」
 アルバは頷いたが、頭の中では、弟の言う通りだとは思ってはいなかった。
 天真爛漫なソワレに比べ、アルバは世間ずれをしている部分がある。弟を守るため、人を疑うということを知らない弟の明るさを守るため、そうなってこざるを得なかった。
 今も、その頃からの世間をやたらと睨みつける癖が直っていなかったのだろう。慣れない土地で、自分たちを脅かす力が近づいてこないように。誰も弟に危害を加えにこないように。
 それが逆に、あの男の苛立ちを買ってしまった。自分の、そんな目つきが原因で。
「ずっとこれをかけていたほうが良かったのかな…?」
 恩人が貸してくれたサングラスを見つめながら、アルバは苦笑した。
「てめえ!俺が話してんだろうが!」
 荒々しく机を蹴り上げる。
「こちとら大負けして苛立ってるってのによ…なめるんじゃねえぜ!」
 拳を握り、こちらへやってくる。
 ソワレが腰を浮かしかけた。怯えたり、逃げようとしているのではなかった。ソワレの青い瞳が、敵意を向けてくる人間への警戒と、喧嘩になることへの予感に輝いている。
 悪い。悪い、傾向だった。
 どうするか。
 アルバは思った。
 こういう時、フェイトならどうする…?
 そう、思った。
 もしもここにフェイトがいたなら。
 アルバは考えを巡らせる。明らかに無用な争いだ、フェイトなら…あの甘ちゃんの大男なら…何よりこの場を丸く治めようとするだろう。例え自らが軽く見られることになっても、ひたすらに謝って誰も傷つかない道を選ぶ。戦えば誰よりも強くあるのに、だ。
 男が近づいてくるにつれ、隆々と盛り上がった筋肉や、丸太のような脚がはっきりと見えてくる。いかにもケンカ自慢という様子だ。
 対するアルバとソワレは、その内に秘める闘志とはうらはらに、体つきのみはまだ貧弱な青年という域を脱してはいない。あの大男から見れば、上背だけひょろ長いマッチ棒のように見えているのかもしれない。
 大負けした、と言っていた。おそらくは賭けか何かで損をしたのだろう。鬱屈した気持ちのはけ口を探していたのか。それにしては体格に顕著な差のある人間に言いがかりをつけるものだ。あるいは、自分よりも弱い弱者をいたぶることで、優越感を満たそうとしているのか…。
 不快だった。
 人を見た目で判断する蒙も気に食わないが、他者を踏みつけにすることで快楽を得ようとする歪んだ性も、アルバには許せなかった。
 アルバの青い瞳が、我知らず刃物のようになっていく。
 兄のその目を見、その心中を察したソワレは、
「兄貴、やっちまうかい?」
 手を組み合わせ、ごきごきと鳴らした。
「よせ」
 自分の目が男の敵愾心を煽ったのと同様、弟の闘争心にまで火を点けてしまったのを知り、アルバはすぐに言った。
「何言ってんだよ、ああいうヤローは一度痛ぇ目見たほうがいいのさっ!あらよっ!」
 叫ぶなり、テーブルに片手をついて飛び出していく。
「やめろ、ソワレ!」
 アルバは叫んだ。男の言動が気に食わなかったのは確かだが、だからと言って暴力で応じるようなことではない。
 眼前に飛び出してきたソワレを見て、男は首を捻った。
「なんだ、お前は?」
「兄貴が出てくるまでもねえ。俺が相手になってやるよ!」
「訳の分からないこと言いやがっ…てっ!」
 男の拳が突き出される。ソワレはにやりと笑い、男の側面に回りこんだ。鮮やかなハイキックを入れようとするが、男はそうはさせない。その太い腕でまともにガードし、踏み込んで力任せに殴りかかる…。
 アルバは溜息をついた。ああなったソワレは止められない。しかし、男もどこか本気では無いようだった。日々、サウスタウンで命がけの喧嘩をしているアルバには分かる。男の挙動には余裕があり、殺気をソワレに向けているわけではない。むしろ、見事な体さばきを見せるソワレを賞賛しているようにも見える。
「全く…」
 誰もかれも、と言いたいように、アルバは軽く肩を落とす。店に目を向けると、誰もがソワレと男の闘いに見入っていた。ただ、都会の人間がするように無関心を装うわけでもなく、といって仲裁を買って出るわけでもない。好奇に満ちた熱いまなざしを送ってきていた。
 ひょっとしたらこんなことはこのあたりではよくあることなのかもしれない。サウスタウンにも存在するではないか、夜毎のように格闘家たちがファイトを繰り広げる変わった店が。ただ、こちらは突発的に起こったというのが大きな差ではあるが…。
 或いは人々は、戦いに見とれているのか。ひらひらと舞うようなソワレのステップ。ソワレの操るカポエイラはまず舞踏であることを前提として確立された格闘技だというが、今のソワレの動きは、その名に恥じない華麗なものだった。見ているだけでこちらも動きたくなってくるような、鮮やかな魅力に溢れている。
「なんだよオッサン、結構強えじゃねえかよ!」
 また突き出された男の拳をかわしながら、ソワレは叫ぶ。
「だけどよ、人を見た目で判断しねえほうがいいぜ!どんなに可愛い子猫ちゃんでも牙と爪を持ってんだからな!」
 完璧とも言えるバランスで側転しながら距離を保つ。
 アルバも囲まれ始めた。3人。前後を固められる。ソワレたちの闘いに触発されたのか。
 アルバは両手を上げた。
「よしてくれ、本当に争うつもりはないんだ」
 しかし、背中をぽん、と叩かれた。前にいる男がアルバの後ろあたりに目を向け、にやっと笑う。
「…これだけ言っているのに…」
 アルバは呟き、地につくほどに身を沈める。
「後ろから襲うというのは卑怯なのではないのかな!」
 言い放ち、そのまま右足で背後の地表を薙ぎ払った。アルバの背面を狙っていた男は思わぬスピードで足を払われ、そのまま無様に倒れてしまう。
 それが合図だったように、男たちは有無を言わさずアルバに襲い掛かってくる。アルバはすっと立ち上がる。拳を構えた。
 ソワレをどうこう言う資格は無い。自分だって十分にケンカ早い。
 フェイトには、遥か遠い──。
 そんなことを思いながら、アルバは、向かってくる男たちを待ち構えた。


(5)


「やれやれ…」
 アルバは胸からサングラスを取り出し、首を振った。
 男たちはすでに散っている。ソワレもアルバも服が汚れた程度で、ケガらしいケガもしなかった。元々ただのケンカ好きの男たちだったのだ。ソワレなどは、始めに言いがかりをつけてきた男と去り際に握手をしてしまっていた。さすがにアルバは、そんな気にはならなかったが。
 アルバは入念にサングラスのチェックを終え、懐へ仕舞った。間違っても壊してはいけないと、必死になって守り通したものだった。サウスタウンの定義ではとてもケンカとは呼べないもみあいで、フェイトからの借り物を壊してしまったとあっては彼に合わせる顔が無い。
 そんなアルバの胸中も知らず、アルバの隣では、ソワレが声高くフェイトと電話をしている。
「俺は大丈夫だよ、フェイト。どこにもケガはねえって。サンズ・オブ・フェイトのソワレさまだぜ?そーそー、俺に何かあるわけねえって。勿論兄貴も無事さ」
 帰りが遅くなることを伝えるだけでよかったのに、カフェでからまれたこと、ケンカをしたことなど、ケンカの高揚感が抜け切っていないのだろう、別に言わなくてもいいことをソワレはぺらぺら喋っている。明るく笑った後、
「兄貴、フェイトがかわってくれだってさ」
 気軽に携帯電話を突き出してくる。しょうがない弟だ、とアルバは、苦笑する。
「ああ、フェイト?」
「アルバ、大丈夫か?ケガはないか。今から迎えに行こうか?」
 心底心配そうな声。甘ちゃんのお人好し。アルバの口元がゆるむ。
「よしてくれ、そっちはそっちで忙しいはずだ。クルマも無事だ、それで帰るさ」
「そうか?それならいいんだが…気をつけて帰ってこいよ。シャーリィに何かうまいものを作っておいてもらえるよう、頼んでおくよ」
 思わずアルバは笑ってしまった。そこまで気を回してくれなくともいいのに。
「俺はガキ扱いなんだな、未だに」
 気持ちが和んでいくのを隠し切れない。
「ん?そういえばそうか。もう運転どころか、クルマだって組み立てられるのにおかしかったな。でもしょうがない、お前もソワレも、俺の家族なんだから。息子たちの心配をするのは当たり前だろう?」
 また甘いこと言ってやがる、と、後ろでチャンスが笑う声。だってそうじゃないかと、悪びれず言い返すフェイトの声。シャーリィの穏やかな笑い声。電話を握ったまま、アルバは立ち尽くした。
「フェイト」
 急き立てられたように言う。
「なんだ?」
「ありがとう…。できるだけ早く、戻るよ」
「ああ、待ってるぜ」
 電話を切った。ゆっくりとした仕草で、ポケットに仕舞う。
 アルバは、隣で機嫌良く口笛を吹いていたソワレの肩を軽く叩いた。
「行くぞ、ソワレ」
「行くって?」
「帰るんだ、俺たちのサウスタウンに。みんなのところに、な」
 アルバは笑った。
 曇りの無い兄の笑顔に、ソワレも、白い歯を見せてにっと笑った。