ホテルの一室、柔らかなルームライトの下に、幼い子供の高い声が響く。
まるまると太った幼児…まだ赤ん坊と言っていい…が、ベッドの上で金髪の青年にじゃれかかり、その都度、青年に易々と…しかし間違いが無いよう注意を払われながら…転がされているのだった。
「そらっ、コゴロー、受け身だ!ハハハ」
コゴローと呼ぶ幼児を鞠のように転がしながら、金髪の青年…二階堂紅丸はからからと笑う。手触りのいい敷物が敷かれた床には、コゴロー…虎五郎の父親である大門五郎が直にあぐらを組んで座っており、別室に置かれた長ソファには、草薙京が適当な雑誌をアイマスク代わりにして寝入っている。
今年も開催された世界規模の格闘大会、KOF。チーム制で行われるその大会の招待選手として、彼らは世界を飛び回っている。神楽ちづるが主催していた時と違い主催者の名前すら未だ明かされてはいなくても、彼らは必要以上に不安がるということはしなかった。むしろ以前はそういった形で開催されるほうが主流であったのだ。彼らは常と変わりなく、戦いの手応えと勝利を求めて勝ち進むだけだった。
ただ、大会側から用意されたホテルに宿泊することは避けた。今彼らがいるホテルは紅丸が選んだホテルである。以前開催されたKOFで、得体の知れない組織に拉致されたことのある京が、そうしてくれるようそれとなく意思を伝えたのだ。自身が難渋を食うのを厭ったわけではなく、京は、何よりも戦友の身にトラブルがかかるのを嫌ったのだ。それも今回は幼い子までいるのだから尚更だった。
初戦から問題なく勝ち進んでいた。消息を絶ってしまった京が欠け、大門が柔道界にカムバックしてから久々にチームを組んだ彼らだが、チームワークに乱れは見られなかった。相変わらず気楽な口を叩き合いながら、何から何まで手のかかる幼児を同行させながら、それは見事と言えるものだった。
窓の外では、日暮れて間もない空が群青色に沈んでいっている。街灯や商店、車のヘッドライトの明かりが少しずつ増えていく。
「いやー、それにしても大きくなったよなぁ、コゴローも」
紅丸は屈託ない表情で、虎五郎の可愛らしい突進を右手だけでいなしつつそう言った。
「こないだまで本当の赤ん坊だったのに、これじゃああっという間にでっかくなっちまって、すーぐ投げ飛ばしにかかってきたりしてな」
紅丸は軽い調子で笑うのだが、大門は渋い顔をして深く頷いた。
「それも武道家の業だろうな…」
「おいおい、そう深刻に取らねえでくれよ。何でもすぐ本気にするんだから、ゴローちゃんは」
生真面目な戦友に、オーバーな仕草で肩をすくめる。先ほどから寝ていたように見えた京は右手を上げ、その顔を覆っていた雑誌を外した。
「それにしても大門、お前いつの間に結婚して、子供まで作ってたんだよ?」
”組織”に巻き込まれて以来、紅丸たちとさえ一切の連絡を結ばずにいた京にとっては、久々に再会した大門が結婚をし一児の父になっていたことは大きな驚きだった。見るからに奥手なこの大門に、そんな女性がいたとは想像だにしていなかったのだ。
「む…」
大門は赤くなって俯いた。2mある大男が恥ずかしげに俯いて、耳まで赤くしている姿は少し異様だった。
「おいおい、野暮なこと聞くんじゃねえよ京」
木訥な大門に、紅丸が助け舟を出す。
「ゴローちゃんくらいのトシだったら結婚してんのは勿論、子供が一人くらいいても別に何もおかしくはないだろう?」
「まあ、そうだけどよ」
「それによ、コゴローが生まれてからゴローちゃんは変わったんだぜ。落ち着きがあるのは昔からだが、さらに貫禄がついた、ってのかな。父親らしくなったっての?」
「まぁ、それはそうかもな」
素直に京は頷いた。ここまで勝ち上がってくる間、京は大門の佇まい、戦い方が今までと変わっていることに気が付いていた。まだ充分に若いくせに以前から奇妙なまでに老成している男ではあったが、そうした印象とも違う。余裕があるというか、懐が広くなった、とでも言うのだろうか。
何をするにも強く責任感を持つ大門が、人の親となったことでまた違った思いを己の武道、柔道に対して持つようになったのかもしれなかった。それが彼を変えて見せているのだろう。
子どもか…。
京は、ひと時もじっとしていない虎五郎の姿を見つめた。遠い目になっていることに己では気づいてはいない。
紅丸はそんな京を見て、
「京、お前は?」
おもむろに尋ねた。
「は?」
京は紅丸に目を向ける。
「お前もそろそろ考えないといけないんじゃないの?先のことっつーか、後継ぎいねえと確実に困る家じゃん、お前ん家」
「うむ。草薙家の未来のためにそろそろ身を固めてみてはどうなんだ」
「ユキちゃんと付き合って何年だっけ?」
「なっ」
うっすらと思いを致していた少女の名を出され、ぼっと、京は火がついたように顔を赤くした。
「うっうるっせえな!おめえら!」
乱暴に雑誌を脇に放り出し、立ち上がった。その大声に虎五郎が驚き、小さな手で紅丸にしがみつく。京はクロークからジャケットを引っ張り出し、ドアに向かって歩き出した。
「おい、どこ行くんだよ」
紅丸が声をかける。
「散歩だよ!どこ行こうと勝手だろうが、いちいち聞くんじゃねえ!」
荒々しくドアを叩きつけ、京は部屋を出て行った。あっという間に足音が遠ざかっていく。
「やれやれ、あいつは相変わらずだね。いつまでもガキだって言うかさ」
虎五郎を抱き上げ、安心させるようにその背中を軽く叩いてやりながら、紅丸は言う。
「それも京のよいところだろう。例の組織…ネスツであったか?拉致されてから様々なことがあったと聞き、さぞショックを受けているだろうと思っていたが…以前と変わらぬ、ああいった姿を見られて安心したわ」
しみじみと言う大門を見て、紅丸は笑った。
「相変わらず心配性だねえ。まぁ、分からないでもないけどな。本当、あいつはよく立ち直ったよ。多分、あいつ一人の力じゃねえだろうが…」
「そうだな……。…だが、京はいいとしてお前はどうなんだ、紅丸。そろそろあちこちの女性に声をかけるのも止めたらどうだ。少なくとも虎五郎の教育には好ましくない」
「何言ってんだ、そんなことしちゃあ俺を待ってる女の子たちが泣いちまうぜ。それに虎五郎にも小さい頃から色んなものを見せてお勉強させたほうがいいんだって。なあ?」
紅丸はそう言いながら、虎五郎の背を撫でつける。いつか、虎五郎は寝入ってしまったようだった。
「全く…」
処置なしというふうに呟きながら、変わらぬ戦友の姿に、大門のその目は穏やかに細められていた。
その頃、飛び出すようにホテルの外に出た京は、ネオンと街灯ですっかりと明るくなった大通りを大股で歩いていた。
紅丸も大門も好きに言いやがって…。先のことなんて分かるわけねえじゃねえか、だいたいお前らにゃあ関係ねえことだろ…。
心の中で多様な言葉を連ねながら、まだむしゃくしゃしているように、足早に通りを闊歩する。あてなどなく、心を落ち着かせるために歩いているようなものだった。月も落ちない真夜中であったが、通りを行く人の姿は多かった。それでも京は肩さえ人にかすらせもせず、夜の通りを歩き続けた。
気忙しいコンパスのように運んでいた足をふと止めて、京は空を見上げた。
そこにある輝きのかけらを京は見つけた。太陽ならぬ人間ごときが作った光の眩さにも、月にも消されていない。
京は後ろを振り返る。
そのまま通りを引き返した。
硝子張りの電話ボックスに入る。慣れた手順でボタンをプッシュする。
呼び出し音が繰り返される。
『はい。京?』
懐かしい声が応える。日本にいる、京の恋人のユキだった。
「ああ、俺」
自分から電話をかけておいて、ぶっきらぼうなように京は応えた。KOF中、京は時折、こうしてユキに電話をかける。普通の恋人たちのようにそばにいることもせずに、世界中を飛び回っていることのせめてもの詫びであるように。
「元気か?何か変わったことあったか」
『ううん、こっちは特に何も。京は?試合のほうは?』
京は不敵に笑う。
「そんなもん、勝ったに決まってんじゃねえか。ケガもしてねえよ」
『よかった』
心底安心したような声に、京は唇を緩めた。彼女の笑顔が目に見えるようだった。消息を絶ってから一度も連絡を入れなかったひどい男を、彼女はいつでも受け入れてくれる。深い信頼と、いつも変わることのない優しさで…。
『そうだ京、変わったことって言ったらね…』
話し出すユキの言葉に、京は耳を傾ける。その声の調子から、他愛もない話なのは分かっていた。何事も無い、小さな話であることを。それでも京はユキの声に耳を寄せる。
ボックスの外を幾つもの人影が通り過ぎていく。ヘッドライトが、京の顔を照らし、すぐに遠ざかっていく。
『…だったの』
話し終わり、ユキは笑った。柔らかな、彼女の髪の手触りと同じ、柔らかな声で。
相槌を打ち、ひとしきり笑い合った後、
「…ユキ」
京は呟くように名を呼んだ。
『なあに?』
京は口を開きかけたが、
「いや…なんでもねえ」
『ヘンなの』
ユキは笑う。京も思わず頭をかいた。まさか、ついさっき紅丸や大門に言われたことなどは話せない。
言葉が止まった、時が続いた。
『京』
ややあった後、ユキが言う。
「なんだよ?」
京は応える。
一瞬、逡巡するような間があった後、
『いつもありがとう。電話』
どこか恥ずかしそうにユキは言う。おかしなことを言う、と、京は眉を上げた。
「別に大したことじゃねえだろ」
『だって、ほっとできるから』
なんだそりゃ、と京は言いかけ、
「俺も……」
呟いた。
それ以上は何も言わなかった。言葉にして口に出してしまったが最後、それは音も無く、消えてしまうような気がしたのだ。
向こう側で、小さな吐息が漏れたような音がした。ユキが微笑んだのが京には分かった。
「…すぐに帰っから。優勝ひっさげてさ」
何事も無かったように、京は軽くそう言った。揺るぎない自信と、少しの照れが混じった声で。
『うん』
ユキは穏やかに頷いた。
「じゃな。切るぞ。…また電話するからさ。…おやすみ…いや、そっちじゃ昼だったっけ?」
ユキは笑った。
『そうよ。でも…おやすみなさい、京』
「おう」
京は言って、そっと受話器を置いた。
電話ボックスを出る。足を、踏み出す。
未来のことなど、分からない。
だけど…。
彼女は、確かにそこにいる。
京は空を見上げた。小さな星が瞬いている。
この思いのすぐそばに、彼女がいればそれでいい。京は、そう思った。
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