〜 serpentine 〜







 かぁんと、乾いた音を立てて木の棒が宙を舞う。
 地面に少女が倒れ込んだ。皮製の防具を装備している。
「まだまだ!」
 凛と張り詰めた声で言って、正面の青年を睨みつけた。
 少女に対する青年は、困ったような顔をした。
 青年の名は趙雲。字は子龍。蜀入りを果たした劉備に従う、勇壮な将軍だった。三国さえ名高い、その天下の猛将が、今は少女に武術の稽古をつけている。
 こんなつもりはなかったのだが。
 趙雲は思って、眼下の少女を見た。
 転がった木の棒を少女は拾い、土も払わずに立ち上がる。再び、勢いよく打ちかかってきた。
 少女の名は、馬雲緑。先だって劉備の貴下に入った、西涼の馬超の妹だった。兄の馬超、従兄弟の馬岱とともに蜀へとやってきた。
 曹操と争い、自らの勢力を失って殆ど窮鳥のようになっていた馬超を、劉備は快く受け入れた。
 それからまだ、日も経たない。
 今日は趙雲は、その劉備から使いを言い受けてきた。急ぎの用でもないのだが、主に軍議のことなので馬超に直接伝えたかった。
 それがこうして、彼の妹に捕まってしまうとは、趙雲にも思いもよらないことであった。
 馬超と馬岱は新しい馬を馴らすための遠乗りに出かけていて、不在とのことだった。そのことを趙雲に伝えたその口で、雲緑は手合わせをしてほしいと言ってきたのだ。
 武芸に優れた女性であるとは、聞いていた。蜀に来る以前から、馬超や馬岱に従って戦場に出ていたのだと。その実力は数々の激戦を潜り生き抜いてきたことからも、尋常なものではないと窺える。
 兄と同様、槍の扱いに優れている。そして雲緑は、同じ槍使いとして名を馳せる趙雲と会えたことを、またとない機会と思ったのだろう。鍛錬用の棒を趙雲に手渡し、果敢に挑んできた。
 そして結果は、今の通りだ。力こそ加減したが、趙雲は槍を振るう速さに加減はしなかった。決して面倒と思ったのではなく、雲緑の突きが思っていたよりも遥かに鋭いことを認めたからだった。女相手に、という思いはいつの間にか消えかかっていた。
 何度も何度も、土をつかせた。それでも、この西涼の娘はくじけない。闘争心をむきだしにして、まるで鷹のような目つきになってあくまで趙雲に食らいつく。この粘りはきっと、曹操を追い詰めた馬超にも通じるものなのだろうと趙雲は思った。
 趙雲が腕を振る。また、雲緑が地面に転ぶ。さっきからずっとその繰り返しだ。雲緑の手や腕は、防具をつけた上からもう真っ赤なようになっていた。
 馬超はまだ、帰ってこない。
「趙将軍、もう一度!」
 肘も膝も土だらけにして、雲緑は再び立ち上がった。息はとうに上がっている。
「雲緑殿」
 とうとう、趙雲は手で制した。西の空を見上げる。
「もう日が暮れます。すぐに暗くなってくる。今日はここまでと致しましょう」
 空を仰ぐ趙雲の視線を追い、雲緑も上を向いた。
 薄く輝く、銀色の雲が広がっている。
「うそだわ、まだ明るいじゃないですか」
「そう見えますが、ここの日暮れはそうなのです。益州は雲が厚いのですよ」
「雲が…厚い」
 趙雲の言葉を雲緑は繰り返す。
「それで夕陽が無いのですか」
 呟いた声は静かで、虚ろなような響きがあった。闊達としていた彼女の声が唐突に曇ったようだったので、趙雲は思わず雲緑を見た。
 が、じっと西を眺めていたはずの雲緑はもう、趙雲に瞳を戻している。
「それでは、趙将軍。今日はありがとうございました。今度また、お手合わせしてくださいね」
 やんちゃな少年が、遊び相手をせがむような調子だった。
「ええ」
 泥だらけでも少しもめげない、その星のような明眸に、趙雲は思わず微笑んだ。
「喜んで」
 趙雲の返事に、雲緑はにこっと、瑞々しい桃の輝くように笑った。
 趙雲は笑顔のままで、その愛らしい紅顔を見守った。この人はこんな表情もするのかと、先ほどまでの鷹のような目とも思い合わせて、驚くような思いもあった。
 表から、馬のいななきが届いてくる。
「あ、超兄と岱兄だわ」
 言うやいなや、雲緑は身を翻した。
 館への入り口で振り返り、
「趙将軍、暫くお待ちくださいね。すぐにご案内致しますので…あっやだ、晩御飯の仕度してなかった!」
 最後のところは独り言のようになって、雲緑の姿は暗がりに消えた。ぱたぱたとした足音と一緒に、窓や廊下に灯りが灯されていく。
 一人残された趙雲は、手のうちの棒を何気なく持ち替えた。
 懸命に打ち込んできた雲緑の瞳を、思い出していた。
 空のようなあどけなさの中に、炎の如き猛々しさを宿していた。砂と風の中で育った、西涼の人の瞳だった。
 槍の扱いは、殆ど妙技と呼んで良い。槍を持てば、きっと強い。
 あんな女性も、この世にいるのか。
 目が覚めるような、思いがあった。彼女の笑顔が瞼の裏から離れない。
 足音が聞こえた。
 屋敷の奥から、一つの灯りが揺れて近づいてくる。堂々とした大股と、それを追いかけるような小走りの足音。
 時々小さな話し声もする。
「趙将軍が自ら来られているのに、なぜ早く伝えにこなかった。俺から出迎えなければ失礼だろう」
 叱るような青年の声。
「大丈夫よ超兄、趙将軍とっても優しい人よ。それよりも、いつまでも帰ってこない超兄のほうがいけないんだわっ」
 唇を尖らせる少女の声。
 迎えに出てきた、馬兄妹に違いなかった。趙雲はつと顔を上げる。
 長身の影が二つ現れ、雲緑の瞳が趙雲を見つけた。兄の後ろから手を振ってきて、輝くようににこっと笑う。
 それを見て趙雲も、笑顔で雲緑に会釈を返した。雲緑が笑いかけてきてくれたのが、少年のように嬉しかった。が、雲緑の前に立つ馬超が変なものを見たような顔をしたのに気付き、慌てて表情を引き締める。
 夜の薄闇が、近づいてきている。