〜 malachite 〜





 朝から、ずいぶん蒸す日だった。
 馬超は、飲み水の器を乱暴に置いた。
「…暑い」
 不機嫌そうにそう呟く。
 同じ卓を囲んでいる、雲緑も頷いた。
「…暑いね」
 雲緑の隣に腰掛けていた馬岱は、そんな従兄と従妹を見て、息をついた。
「暑い暑いって…二人とも、さっきからそればかりだよ。益州が暑いのは当たり前だろ?」
 山ばかりの益州、四方を山地に囲まれた成都は、空気が重く湿っている。彼らの育った西涼の地とは、全く気候が違っている。
「だってここまでひどいとは知らなかったもの…。岱兄は暑くないの?」
「そりゃ暑いけど…我慢ぐらいしなきゃいけないよ。ここには長くいることになるんだから」
「曹操を倒すまで?岱兄?」
「そうだよ、そして、それ以後もだ。今は何よりも殿のお役に立たなければ…そうでしょう、兄上?」
 辛そうに瞑目していた馬超は、重たげに頭を上げた。
「…ああ」
 百も承知という顔をして、低い声で言う。雲緑も同じように頷くが、
「…暑い…」
 再び、海鼠のようにだらりとなって、卓にうつぶせてしまうのだった。



 成都の市場。
 簡単な食事を終え、昼時の商売の支度を始めようとしていた青物屋の主人は、ふいに現れた二人の客に、危うく腰を抜かしそうになった。
 並外れて大きな耳と長い手を持つ男と、色黒の虎髭の男。目立ちすぎる容貌を持った二人連れの男たちが、真剣なまなざしで瓜を手にとって見つめている。その高い名は、成都に住む者でなくても知られている。劉備と、張飛だ。
「とっ…殿?!それに張飛殿!」
 街の巡察をしていた趙雲がやってきて、慌てて下馬した。
「何をしておられるのですか、こんなところで!」
「やぁ、子龍」
 ニコと劉備は、何でもないことのように微笑んだ。
「見て分かるだろう、瓜を選んでいるのだ。このところ暑い日が続くからな、こういう日には瓜が何よりのご馳走だ」
 趙雲に語りながら、劉備は多くの瓜の中から身のよく詰まったものをぽんぽんと選び出し、隣の張飛に手渡していく。張飛は護衛兼荷運びというところだろう、いやな顔一つせず、店の主人と商談をし出した。主人は相変わらず肝を潰したように震えながら、言われるがままに瓜たちを、張飛の愛馬が下げた籠へと入れていく。
「ああ、そうだ」
 劉備は趙雲を振り返った。
「子龍、この瓜をいくつか、馬超のところへ届けてやってくれないか。この暑さできっと参っていることだろう。翼徳、子龍に渡してやってくれ」
 劉備に言われ、張飛は主人から籠を受け取り、その中へ瓜を詰めていく。
「これだけありゃあ十分だろ」
 虎髭をひねり、張飛は言った。馬超たちと、おそらくそこで働く使用人たちの分まで分け入れたのだろう。籠はぎっしりと膨らんでいた。
「殿のお心遣い、馬将軍たちも喜ぶでしょう」
「私の案ではないよ」
 そよ風が渡ってきそうな微笑を浮かべて、劉備は言った。
「翼徳の言ったことさ。なあ?」
「孔明のやつですよ」
 張飛は鼻を鳴らせた。照れを隠し切れないまま、まるで押し付けるように言っている辺り、やはり張飛の言い出したことらしかった。虎のように粗暴に見えて、真実は思いやりに溢れた男なのだ。
「まぁ、俺もここに来たばっかの時ぁ参ったからなぁ。河北の寒さに比べりゃ、ここはまるで釜の中だぜ」
「全くだ。馬超たちもさぞ難儀していることだろう。少しでも慰みになってくれればいいが…では子龍、お願いするよ」
「はい」
 主の命に、趙雲は拝礼した。



 馬家の屋敷に辿りつき、趙雲は馬から降りた。
「失礼致す。五虎将軍の一人趙雲、漢中王より使いを受けて参りました。馬将軍にお取次ぎ願いたい」
 門の外から、声をかける。
 が、返事は無かった。こういうときに必ず出てくる牧童も一向に現れてこない。不審に思い、趙雲はもう一度同じ口上を述べたが、変わらず、無音。
 留守なら門を閉ざすはず。それが、何故?
 少しばかり趙雲は焦った。劉備より託された瓜がある。早く井戸で冷やしでもしないと、せっかくの瓜が悪くなってしまう。
 無礼と思いながらも、馬を門前の木につなぎ、瓜が詰まった籠を抱えて、趙雲は屋敷に立ち入った。



 静か。
 廊下を進みながら、趙雲は思った。広い屋敷とはいえ、静か過ぎる。屋敷の主たちだけでなく、使用人までも全て出払っているというのか。考えにくいことではあるが、不気味なまでに静かな屋敷を歩いていると、そのようなことも考えてしまう。
「誰ぞ、誰ぞおりませんか…」
 人の屋敷で、大きな籠を抱えて歩く自分の姿は我ながらおかしく見えるだろうと思えたが、主の命がある以上はそうしなければならない。
 ここならば誰かいるかもと、うろうろしながら厨に回った。
「!」
 予想もしない光景とぶつかり、趙雲は息を呑む。籠を置き、すぐ駆け寄った。
「…雲緑殿!」
 水がめの前で、雲緑がうつ伏せに倒れている。雲緑は水を飲みにでも来ていたのか、脇には水が零れた跡と、半乾きとなった器が転がっていた。趙雲は雲緑を抱き起こす。
「…雲緑殿、どうされました、雲緑殿!」
 呼びかけるが、ぐったりとした雲緑は低く呻くだけで返事をしない。額に手を置く。熱い。
 このままでは。
 趙雲は、雲緑を抱き上げた。


 本当は寝台に寝かせたかったのだが、屋敷に不案内である以上は、いつか通されたことがある、客間に据えられた長椅子に横たえさせるしかなかった。粗末と思いつつも自らの肩布を丸め、枕代わりにした。
 水を張る器と、それから布。屋敷の井戸にあったものを拝借してきて、それで雲緑の額を冷やしてやった。瓜が入った籠は、風がよく通る井戸のそばに置いてきた。
 趙雲は椅子を雲緑の枕元に寄せた。熱のためか、雲緑の頬が赤かった。手を取って脈を取る。速いが、大事に至るものではないと、母を病で亡くした趙雲は思った。一応、表に出て、往来を歩いていた人間に医者を呼んできてもらえるように頼んではいたが。
 雲緑はじめ馬超たち一門は、乾いた気候の西涼の出身だ。それがこの蒸籠の中のような益州で暮らすようになって、調子を崩してしまったのだろう。いくら雲緑が幾多の戦を潜り抜けてきた女丈夫でも、無理の無い話だった。
 とりとめなく雲緑の顔を眺めていると、その切れ長の瞳が、薄く、開かれた。
「…」
 雲緑ははじめぼんやりと天井を眺め、横を向き、それから趙雲がいることを見止めて、
「えっ…ええっ?!」
 驚愕の声を上げ、長椅子から転げ落ちそうな勢いで起き上がろうとした。
「雲緑殿」
 落ち着かせようとして、趙雲はつとめて柔らかく言った。
「いけません、動いては。熱がおありなのですから」
「え…」
「倒れていたのですよ、あなたは。厨で…。水を飲もうとされていた…?」
「あ…は、はい。そうです。そういえば、何だかふうっと気が遠くなったような…」
「今はじっとしていてください。もうすぐ医者が来ますから」
「は、はい…あ…これは…趙将軍が…?」
 額に置かれた布に気付き、雲緑は呟く。
「はい。井戸端を拝借致しました」
「ごめんなさい、お世話をかけてしまって。何か、御用があって来てくださったのですか…?」
「はい。殿より、馬将軍へと言って瓜を預かりまして。お届けに上がったのですよ。どなたもいらっしゃらないようでしたので、無礼とは知りながらも勝手に上がらせて頂きましたが」
 言って、趙雲は屋敷を見回した。
「馬将軍や馬岱殿はお出かけなのですか?誰も…召使までも不在とは…」
「兄は、小川を求めて馬で出ました。岱兄もせめて涼を求めにと市場へ。私は留守番です」
「そんな。女性だけにして、無用心な」
 思わず声を上げると、雲緑は花のように笑った。
「そんなふうに心配してくれるの、趙将軍だけですよ。私は小さい頃から男の子と同じように育てられましたし、腕っぷしだってひけは取らないつもりですから。兄たちは私のことを女だなんて思ってないですよ、きっと」
「はぁ…」
 少々特殊に育ったらしい女性を前に、趙雲はそう相槌を打つしかない。
「しかし雲緑殿、それはそれとして…召使はどうされたのですか?全員、何かの用で出されているのですか」
 趙雲の言葉を聞き、雲緑は顔を曇らせた。
「召使、ですか…一人だけ馬の世話をしてくれる童がいますけど、その童も今は岱兄と共に市場へ出てます」
「一人だけ?」
「はい」
 当たり前のように雲緑は頷く。
「まさか、使用人はその童のみなのですか?」
「はい。時々、洗濯の世話をしてくれる近所のおかみさんが来てくれますけど」
「何故…。誰か身の回りの世話をしてくれる者がなくばご不便でしょう。何でしたら、私から殿に進言して…」
 趙雲は言った。独り者である趙雲の屋敷ですら、一通りの用をこなしてくれる使用人たちを幾名か置いている。故郷の常山にいた頃は母と二人きりで暮らしていたが、今は軍に重きを成す将軍として劉備に使え、成都城に出仕する毎日なのだ。使用人を置かねば、生活が成り立たない。
「お気持ちは嬉しいです。けど、いいんです、私たちだけのほうが身軽で。これは兄たちもおんなじ考えです」
「身軽…?」
「…」
 訝しく呟いた趙雲に、雲緑は杏の唇を噤んだ。
「私たちが父のもとで育った…涼州に居た頃から、家に召使は少なかったんです。その人たちもあの戦でどうなってしまったか」
「…」
 あの戦。潼関の戦い。
 雲緑が言わんとしていることを察して、趙雲は黙った。雲緑は趙雲を見上げる。
「分かってください、趙将軍。私たち三人は、人とのつながりを出来るだけ持ちたくない」
「…はい」
 趙雲は頷いた。
 雲緑は微笑し、胸の上で手を組み合わせた。
 遠くを見つめるような目を、宙に漂わせる。
「父や兄たち…涼州の皆。それが、少しずつ。少しずつ、砂山が風に削られていくように誰もいなくなって」
 熱に潤んだ瞳を虚空に泳がせ、雲緑は呟く。
「残ったのは、超兄と岱兄と私と、それでも従ってきてくれた僅かな兵たちだけ」
 瞳が濡れていた。熱が高くなっている。
「もう誰にも、どこにも行ってほしくない…」
 独り語りのようにそう呟いて、雲緑は目を閉じる。
 趙雲は、自分でも気の付かないうちに、雲緑の手を握った。
「私は…どこにも行きませんよ。この蜀で暮らす何者も」
 そう、言った。雲緑は趙雲に目を向けた。
 趙雲は笑って、もう一度繰り返す。
「皆も。私も、どこにも行きません」
 緑がかって明るい瞳を、雲緑は瞬きさせた。熱に浮かされ滲んだ瞳が、趙雲の姿を朧に映す。
「本当ですか?」
「本当ですよ」
「本当の本当に…?」
「ええ」
「本当…?」
 趙雲は微笑む。
「だから…ゆっくり、おやすみください」
 雲緑は、かすかに微笑んだ。
「…はい」
 趙雲の手を握り返してくる。唇をかすかに開かせたまま、ゆっくりと眠りに落ちていく。安心しきって眠り込んだのが、趙雲にははっきりと目に取れた。思い上がりでなく、そう、思った。
「…」
 医者ももうじき着くだろう。雲緑の手を握り締めて、趙雲はいつまでもそうしていた。










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