騎兵たちの蹄の音が、雲緑が愛馬と共に立つ丘の上にまで届いてくる。
腕に、布を畳んだようなものを抱き、腹の底まで轟く響みに埋没していた雲緑は、兵たちを指揮する一人の武将を見つめていた。
白馬に跨る、堂々たる偉丈夫。趙雲。
兵たちに向かうその姿は、山々に響くその怒号と同じく、秋霜の如くに厳しかった。
初めて見る姿だった。雲緑の知る趙雲はいつも穏やかで、険しい顔など見せたことがない。
だが、今は訓練の時。戦では一瞬の油断が死を招くのだ。
先ほどまで居た人間が次の瞬間には二度と帰ってこなくなることのほうが、日常であるような世界。
例えどれほど激しい訓練であっても、命を落としてしまうよりは良い。
苛烈な訓練を、雲緑は引き締まるような思いで見つめていた。
ふと、あたたかなものが頬に当たった。
雲緑は顔を向ける。西を見ると、傾きかけた陽が、絹で包んだようなまろやかさで、輝いていた。
調練も終わった様子で、兵士たちは、整列しながら帰っていく。
それと共に雲緑が愛馬の鞍に足をかけたその時、白馬を連れた趙雲が、丘に登ってきているのに気がついた。
「雲緑殿」
趙雲は穏やかに雲緑に話しかけてくる。先ほどまでの烈しさが嘘だったように。
「どうされました?こんなところまで」
わざわざ趙雲のほうから近づいてきてくれたことを意外に思いつつ、雲緑は頷いた。
「趙将軍の訓練を見ておきたいと思って」
「光栄です」
「それと…」
雲緑は、腕に抱いていたものを趙雲に渡した。
「あの、これ…。この間はご迷惑をかけてしまって」
先日、雲緑が熱を出して倒れた時に趙雲が介抱してくれた日のことを、雲緑は言っている。あの日、目を覚ますと枕元には市場から戻ってきていた馬岱がおり、かたわらには、見慣れぬ肩布が置かれていたのだ。馬岱の話によると、趙雲は医者が到着し、馬岱が館に戻ってきてすぐ、姿を消してしまったのだという。馬岱に気を遣わせないようにしたのだろう。急いで去ったついでに、肩布を忘れてしまっていたのだ。
「変なところもお見せしちゃって。あの、私何を言ってたんでしょう」
枕元に居た趙雲に対し、うわごとのように、去りにし日々を物語ったことを、雲緑は夢うつつに覚えている。それは、決して人に聞かせる種類のものではなかったことも…。
「いいえ」
趙雲は首を横に振る。趙雲のほうも趙雲で、あの時、雲緑が口走ったことをいちいち彼女に糺すつもりはなかった。ただ…彼女の孤独に触れた。この、鷹のような凛々しい娘の。趙雲は、ただそれだけのことだと思っている。
「気にされずともいいですよ。体を悪くされていたのですから…」
趙雲にそう言われても、なお気恥ずかしいように雲緑はうつむく。
「それにしても、夕陽を眺めていらっしゃいましたね」
目の前の少女が居心地を悪そうにしているので、趙雲は話題を転じた。雲緑は顔を上げ、幸い、とばかりに強く頷いた。訓練の間、趙雲が己の姿に気づき、しかも何を見つめていたのかも理解していたということにまでは、思い及ばない。
「ええ、成都の夕陽を見たのは初めてでしたから」
「夕陽がお好きなのですか?」
初めて雲緑に槍の稽古をつけた日、雲緑は「夕日が無い」と言ったことがあった。それはどういうことなのだろうと、心のすみで、趙雲は思っていたことでもあった。
「好きというほどじゃないんですけど…。でも私の知っている夕陽とは違いすぎて」
「違う…私にはよく分かりません。雲緑殿、どう違うのでしょう。あなたの知る夕陽と」
「そうですね…」
雲緑は、ふっと遠い目をした。
「赤い…そう、赤いんです。まるで血みたい、命の輝きそのものみたいな。何もかもを真っ赤に照らして、砂の果てに沈んでいく。そして光が燃え落ちたあと、星々が夜に溢れ出す」
流れるように雲緑は語った。
趙雲は瞬きをする。
真紅の光。砂漠に燃える炎。
見えたような気がした。雲緑の語るものが。
雲緑は趙雲を見た。風に磨き立てられた、澄み切った、瞳だった。
「趙将軍にも見せたいぐらい。本当に、本当に綺麗な光なんです」
「ええ」
頷いて、趙雲は柔らかな瞳で雲緑を見つめた。この少女が、己の内に大切に抱えたものの思いを話してくれたことが、嬉しかった。
見守るようなまなざしに、雲緑は我に返った。
「ご、ごめんなさい!私また変なことを…」
「構いませんよ」
趙雲は首を振る。
「見てみたいですね…私も。雲緑殿の言う、夕陽の色を」
雲緑は顔を上げる。趙雲の穏やかな瞳と出会って、微笑んだ。趙雲も、笑顔を返す。
蜀の夕陽はあくまで柔らかに、雲にくるまれ西の果てへと、埋もれていく。
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