〜 epidote 〜







 目を閉じれば、浮かんでくるのは英傑の姿。
 竜のように気高い人、駿馬のように美しい人。
 水鏡のように清廉な人、白玉のように、潔白の人…。



 厚い雲が立ち込めている。
 今日も、暑い。
 水を汲み替えに井戸に出てきた雲緑は、物憂げに瞳を空に向けた。
 陽は見えないというのに、この蒸し暑さ。何もしていなくても汗が出てくる。
 井戸へ、桶を放り込む。雲緑は吐息をついた。
 超兄も大変だなぁ。こんな日でもお城に…。
 自分同様、この蒸し暑さに毎日のように辟易している兄のことを、雲緑は思いやった。蜀の五虎将軍の一人、雲緑の兄である馬超は、今日も城へと出仕している。蜀を治める漢中王、劉備の元へ。
 そこには、あの人がいる。雲緑は、水の揺らめく井戸の底へと目を落とした。止水のように穏やかな、あの人…。
「雲緑、うんりょーく」
 のんびりとした声が中庭から聞こえてきて、雲緑は我に返った。あの声は雲緑の従兄の馬岱のものだ。雲緑が振り返ったと同時に、ぱっと、土間に顔を出した。馬岱の手には木の棒が握られている。いつも使っている、稽古用の棒だ。
「稽古の時間だよ、相手をしておくれ」
 棒を振って、馬岱は催促する。雲緑は女性ではあるが武術の、腕を磨き合うことはこの従兄妹たちには当たり前のことだった。戦となれば馬超は勿論、馬岱も、雲緑も、馬上の人となって戦場を馳せ巡るのだから。
「はぁい。ちょっと待って」
 雲緑は返事をして、桶を引き上げる手を早めた。



 木の棒がぶつかる、烈しい音が響き渡る。
 幾度も幾度も、馬岱と雲緑は得物を打ち合わせている。
 ただの棒とはいえ、二人とも真剣だった。戦場にあるような厳しさを持って、手合わせに臨んでいる。
 やや、馬岱が押されている。
 馬岱は雲緑よりも腕前が劣る。しかしそれは馬岱が弱いというわけではなく、雲緑とは強さの種類が違うだけだった。馬岱は、個人の武勇よりも一軍を束ねる武将として活躍できる男なのだ。
 だが。
 一瞬、現れた雲緑の隙を、馬岱は見逃さなかった。鋭く雲緑の懐に踏み込み、顎の下へと棒を擬する。
「ううっ」
 雲緑は呻く。馬岱は、にっこりと笑う。
「私の勝ちだね」
 すっと、身を引く。
「うーん」
 納得がいかないように、雲緑は頭をぐらぐらと振った。ふと、馬岱の眉が曇る。
「雲緑、どうしたんだい?…まさかまた熱でも?」
 過日、雲緑が倒れた日のことを馬岱は言った。あれから暫く経ってはいるが、馬岱は気にかけずにはいられない。この従妹が調子を崩した姿など、今まで見たことがないと言っていいほど見たことがなかったのだ。
「ううん…ううん」
 雲緑は、従兄の心配を否定するように、強く首を振った。
「大丈夫っ!岱兄、もう一度っ!」
 いやに強がって雲緑は言う。馬岱は釈然としないながらも、言われるままに、棒を構えた。



 成都城。
「馬将軍」
 大廊下で、馬超は振り向いた。趙雲が立っている。手に、何か携えていた。
「何か」
 そっけない答えだが、これは馬超の癖だった。だが趙雲はそれを気にするふうでもなく、歩み寄ってくる。
「あの、馬将軍。これを…雲緑殿に渡してもらえないでしょうか」
 言って、手に持っていたものを馬超に渡す。手触りのよい絹の包みを馬超は開く。中に入っていたのは、精緻な綾取りのなされた、錦の袋だった。
「?」
 馬超は怪訝な顔をした。
「これを…妹に?」
「はい。巡回中に見かけて…終わってからすぐ買いに出たんです。先の…お返しになればと思って。」
「お返し?」
「この間、雲緑殿に、私の忘れていた肩布を返していただいたのです。その中に、これが入っていて」
 そう言って趙雲は己の手甲を示した。使い込まれたそれの中に、真新しい留め具が光っている。特に高価なものではないと一目で分かる、ささやかなものだった。馬超は口を開いた。
「趙将軍にそんなものを…。申し訳ない、迷惑になったんじゃないだろうか」
「いいえ、とんでもない。有難く使わせてもらっていますよ。それで、その袋は、このお返しです」
「そうですか。確かに。雲緑に渡せば良いのですね」
 特に何も思わずに馬超は言い、預かったものを押し頂いた。
「はい。お返しのお返しはおかしいですけど。それに本当は私が直に渡せばいいんでしょうが…」
 趙雲は笑った。まるで少年のような含羞を、強く見せながら。
「どうもこういうことには慣れていなくて…。私らしくない」
「?」
 漢中王自ら一身これ胆と称え賞された、目の前の将軍が何を言っているのか分からなくて、馬超は首をひねった。



 鳥が、塒へ帰っていく。大空に整然とした一列を形作りながら。
 雲緑は窓辺の椅子に腰掛け、その光景を眺めていた。
「雲緑」
 呼ばれて、雲緑は振り向く。すぐに立ち上がった。
「超兄。おかえりなさい」
「ああ、ただいま。雲緑、今日これを趙将軍から預かってきたんだが…」
 言って馬超は、趙雲から預かった絹の包みを手渡した。
「趙将軍が?私に…?」
 雲緑は驚いたように、絹の包みを静かに開いた。目にも鮮やかな錦の袋。中に何か入っている。そっと紐を引き、中身を開く。掌の上に、それを転がした。
 紅色の光が掌に灯る。一粒の赤いガラス玉。
「ガラスか?益州に珍しいな」
 何気なく雲緑の手元を覗き込んだ馬超は言うが、雲緑は兄の言葉には答えなかった。手の中の輝きを見つめ、ただ、言う。
「赤い、ね」
「ああ。赤いな」
「夕陽みたい。涼州の…涼州の夕陽は真っ赤だった」
「…ああ…そうだな…。…しかし、よく見つけたものだな。西からのものは少ない益州で」
 雲緑は暫く、赤い輝きを瞳の中に揺らめかせていたが、ふと、兄に顔を向ける。
「超兄、どうしてこれを趙将軍が?私なんかに」
「知らん。俺が聞きたいぐらいだ。巡回中に見つけたものらしいぞ。俺からお前に渡してやってくれ、と言われてな。『お返しのお返しはおかしい』とか『私らしくない』とか、よく分からんことばかり言っていたな」
 雲緑は眼も放たずにガラス玉を見つめている。赤い色。西日をまっすぐ射込んだような。
 強く、雲緑は顔を上げた。
「超兄、私ちょっと出かけてくる!」
 言うが早いか、飛燕のように身を閃かせ、部屋を飛び出していってしまう。
「何?おい、出かけるってどこへだ!」
 馬超は呼びかけるが、
「とにかく!行ってくるの!夕飯までには帰ってくるわ!」
 切羽詰った声だけを残して、あっという間に雲緑の足音は遠ざかっていった。一人残った馬超は、また首を傾げた。
「兄上」
 不意に、声が後方で起こった。馬超は振り返る。
 馬岱がいた。馬超に何か言いたいような目をして、浮かない表情だった。
 今日はわけの分からないことばかりだと思いながら、馬超は従弟のほうへ沓を向けた。



 厩へ飛び込み、雲緑は愛馬の柵の木枠を外した。鞍も載せずに、その背へ飛び乗る。
 旋風のように、館を出て行った。



「なんだ、岱」
 従弟が勧めた椅子に腰を下ろし、いささか不機嫌に馬超は言った。雲緑のこともそうだが、不可解なことが続きすぎる。
「兄上、最近、雲緑の様子がおかしいとは思いませんか?」
 開口一番、馬岱はそう切り出した。
「おかしい?確かに、変に無口だし、さっきもいきなり外へと飛び出していってしまったが…俺には訳が分からん」
「え、そうなんですか?どこへ行ったんでしょう」
「分かれば苦労はせん」
「きっとすぐに帰ってくるでしょうけど…それより兄上、雲緑はこの頃、ぼーっとしていることが多いんです。気がつけば空ばかり見ているような」
「何」
「稽古にも身が入っていない様子で…今日も五本打ち合わせたのですが、五度とも私が勝ってしまいました」
「何だと」
「今までにそうなかったことです」
「まだ調子が戻っていないのか?この間倒れてから…」
「私もそう考えたんですが…でもそういうわけでもないみたいなんです。顔色はいいし。兄上、一体雲緑はどうしてしまったんでしょう」
「ふむ…」
 困った様子の従弟を前に、馬超は、考え込んでしまった。



 湿った風が吹く。
 兵士の修練場。
 そこを見下ろせる高い丘…いつか雲緑が立っていた場所…で、西を向いて趙雲は一人、座り込んでいた。
 細い、一本の革紐を目の前にぶら下げ、思いに沈んだ目を見せている。
 何を思っているのか、肩を落として、深いため息をついた。
「趙将軍!」
 張り詰めた声が馬の蹄の音と共に急速に近づいてくる。ぎょっとして、趙雲は立ち上がった。
「う、雲緑殿!?」
 驚く趙雲をよそに、ひらりと雲緑は馬から下りた。趙雲は駆け寄る。
「雲緑殿、どうされました、こんなところまで…」
 馬には、馬銜どころか鞍もついていない。この男勝りの少女が裸馬を乗りこなせることは、趙雲の想像に難くなかったが、そこまで少女を急がせた理由までは分からなかった。
 頬を上気させたまま、雲緑は言った。
「あの、お礼を言いたくて」
「お礼?」
 雲緑は、懐から錦の袋を取り出した。中の、ガラス玉を取り出す。
「あの、これの。ありがとうございます、珍しいものを。私なんかに…」
「ああ…そんな、大したものではありませんよ…こちらこそ、お礼になればと思って」
 趙雲は手甲をかざした。そこに光る、確かに己が選んだものを見つけ、雲緑は笑う。
「それ、使ってくださってるんですね。ありがとうございます」
「いいえ」
 なんでもないことのように趙雲は笑う。雲緑は口を開いた。
「けど、趙将軍にこんな品をいただいてしまって…なんだか申し訳ないです」
「いいえ。そんなふうに思っていただかなくても」
 ガラス玉を見つめ、趙雲は、言う。
「そのガラス玉。その赤い色を見ていて、あなたを思い出したんです。それから、あなたにお見せしたいと思って…」
 柔らかな目で、雲緑を見つめる。
「あ…ありがとうございます。嬉しいです。夕陽みたいな色…懐かしい色」
 言い、雲緑はそっと、掌にガラスを包んだ。頬にかすかに朱が射している。
「そう言っていただけて…私も嬉しい」
 趙雲は静かに微笑む。
 雲緑は目を伏せた。すると、趙雲が、一本の革紐を握っているのが目に入った。
「あの、それは?」
 雲緑は指を差し、尋ねた。
「えっ。あっ」
 趙雲は声をあげ、反射的に背中に隠した。が、その仕草は余計に雲緑の興味を引くことになった。
「なんですか?それ」
 興味津々で背に回り込もうとする。
「な、なんでもありません」
 明らかに慌てた様子で、趙雲は雲緑から背中を庇おうとする。その必死な様が可笑しく、雲緑は笑った。
「なんでもないことないでしょう、見せてくださいっ」
「そんな、雲緑殿が気にするようなものじゃありませんっ何でもありませんっ」
「だって隠されると気になりますっ」
 ぐるぐると、雲緑の愛馬を中心にして二人は回る。大人しくしていた雲緑の馬が驚き、足を踏み替えいなないた。馬を驚かせてしまったと趙雲の動きが鈍った瞬間、雲緑の両手が趙雲の右手を捕まえていた。
「ああ…」
 諦めたように趙雲は呻く。現れたものは、か細い革紐。雲緑は目を丸くする。
「お渡しするかどうか迷ったんですよ」
 まるで弁解でもするかのように趙雲は言葉を連ねる。
「でも、あんまり地味だし、そのようなものをつけたって、気に入ってくださるかどうか分からなかったですし…。本当はもっときらびやかなものにすべきなのでしょうけど、ああいうものは何かの拍子でガラスを割ってしまうんじゃないかと思って…」
 つぶつぶと呟く趙雲の言葉を聞いているのかいないのか、雲緑は黙ったまま、革紐を見つめていた。
 趙雲は不安になった。不愉快にさせてしまったのだろうか。
「…雲緑殿?」
 こわごわ呼びかける。雲緑は呟くように言った。
「趙将軍…」
「はい」
 顔を、上げる。
「…で、これは何に使うものなんでしょう」
 趙雲は雲緑の顔を凝視した。雲緑は、本当に何も分からない、という顔をしている。
 まるで童のような頑是無い表情だった。趙雲は呆気に取られたような顔をし、続き、声を上げて笑い出す。
「なっ!なんで笑うんですか!」
 空を仰いで快笑し続ける趙雲に、真っ赤になって雲緑は叫ぶ。
「い、いえ…いえ、失礼しました」
 それでも堪えきれず、趙雲は笑い続けていたが、
「全く…本当に稀有な人です、あなたは」
 目に涙まで浮かべて言う。そんな言葉を笑われながら言われても、嬉しいわけがなかった。雲緑は頬を膨らませ、その子供のような仕草がまた、趙雲の笑みを誘った。
 雲緑の手から、趙雲はガラス玉と革紐を引き取った。すっと、ガラス玉に革紐を通す。結び目を作った。
「あ…」
 さすがに察しがついて、雲緑は声を漏らす。
「こうしたかったんです」
 ガラス玉と革紐。慎ましい首飾りが、趙雲の手の中で輝いた。
「…ご、ごめんなさい。私、何も気がつかなくて」
「いいえ。あなたは…楽しい女性ですよ。一緒にいると…楽しい」
 微笑みながら、趙雲は噛みしめるように言った。
 雲緑は赤面したまま俯く。
 趙雲は、華奢なその首へ、贈りたかった贈り物を、かけた。
 雲緑は俯いたままでいたが、自分の胸元で輝いた光を見て、驚いたように顔を上げる。趙雲の笑顔と出会い、花の咲くように笑った。
 それに応えるように、趙雲ももう一度、静かに微笑んだ。



 愛馬を姿も軽やかに、雲緑は夕暮れて自分の館に帰った。館にはすでに灯火が点されている。
「雲緑、どこへ行っていた、いきなり飛び出すなど」
 馬をつないで、館へ入った妹を待ち構えていたように、馬超は妹を叱り付ける。
「ごめんなさい」
「最近お前の様子がおかしいと岱が言っていた。この間倒れてからまだ本調子ではないのではないか?」
「そんなことないわ。もう元気よ」
 いかにも気が強いように、雲緑は凛と顔を上げた。胸のガラス玉が、かすかに揺れる。
「…なんだ、それは」
「え?」
 馬超は、雲緑の首から下がっているものに気がついた。雲緑は、あ、と言った。
「趙将軍にいただいたの」
「趙将軍に?」
「ガラス玉をいただいたでしょ?お礼を言いに行ったら、これを作ってもらっちゃって…。本当はこの革紐とくださるつもりだったんだって。こういうふうに、首飾りにして」
「…」
「びっくりしたわ。趙将軍からそんなふうにしてもらえるなんて…本当にびっくりした」
 言いながら雲緑は、ガラス玉を掌に乗せる。切れ長の目を細めて、慈しむように、灯火の光をガラスの中に遊ばせている。
 その、まなざし。瞳の色。
 物思わしげなその横顔を馬超はまじまじと眺めていたが、ふと、妹と同じ切れ長の瞳を、妹とは逆にいっぱいに開かせた。
「雲緑、まさかお前…」
「え?」
 震える声で呟いた兄を、雲緑は見上げた。
 が、馬超はそれ以上は何も言わず、急に体の向きを反転させた。疾風のように去っていく。
「?」
 置いていかれた雲緑は、首をかしげた。


 ずんずんと、館内を馬超は大股に歩く。
 なんてことだ。
 荒々しく歩を進める馬超の脳裏に浮かぶのは、たった一つの事柄だけ。
 なんてことだ、妹は…妹は、趙将軍に恋をしている!
「…た、岱、岱っ!!」
 声が震えたが、どうしようもなかった。
 呼ばれて、奥からひょこっと馬岱が顔を出す。先に馬超に話をしてもらうつもりで、奥に引いていたのだ。
「なんでしょう兄上?雲緑は何か言っていました?」
「そのことだが…だが、あれは俺の手には負えん、お前が相手をしてやってくれ!」
「えっ、まさか本当に病…」
「違う、それでも俺には無理だ!岱、あとは任せたぞっ!」
 叫ぶが早いか、馬超は足早に去っていく。
「あ、兄上ーっ?!」
 事情の分からない馬岱は、後を追うしかなかった。

 二人の兄の狼狽も知らず、雲緑は目を閉じて愛しげに、ガラス玉を頬に寄せていた。










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