〜 jade 〜





 成都、五虎将軍の一人、馬超の館。
 奥まった一室で、二人の談議は続いていた。
「…それで、兄上。雲緑が趙将軍を慕っているのは間違いがないようなのですね?」
 そう、馬岱は、改めて従兄に問うた。
 馬超は深く頷く。
「ああ。俺がどれだけ鈍くても、さすがに分かる。趙将軍からの贈り物を、ずっと眺めていたのだから」
 趙雲から贈ってもらったというガラスの首飾りを、深い瞳で眺めていた雲緑の姿。いかに馬超が朴念仁でも、そこに何があるのか分からぬはずがなかった。
「いやはや…。では、趙将軍も雲緑のことを…?」
「そこまでは分からん。律義者だと聞くし、ただの礼儀であるかもしれん」
「そうなのでしょうか。本当に律儀な方なのなら、返礼の返礼など奇妙なことはしませんよ。趙将軍は堅実な方と聞いております。うかつにそのようなことをされる方ではないと思われますが」
「む…」
 もっともであることを従弟に突かれ、馬超は押し黙った。
「ですから…きっと好意でしてくださったのでしょう。趙将軍も雲緑を気に入ってくれていると考えて良いのだと思います」
「そう…そうだろうか。そうなるのか」
「きっとそうです。素晴らしいことじゃありませんか。いくら強いといっても雲緑が独り身のままでは私たちも先が案じられますし、趙将軍ほどの方なら願ってもないことと思います。地下の騰伯父も喜ばれるでしょう」
「父上が…。確かに父上は、雲緑は蓋世の英雄に嫁がせるのだとよく言っていた」
「迷うことはないのではありませんか?幸い、というと失礼かもしれませんが、趙将軍もどなたも内室を迎えておられないようですし」
「しかし、趙将軍は劉備殿の信任も厚い古参の武将だ。新参である俺たちの家から嫁を迎えてもいいものなのだろうか。もっと他に相応しい家が…」
「兄上、何を遠慮されているのです。趙将軍は蜀の名高い五虎将軍のお一人、兄上も同じくその一人です。その妹から花嫁を迎えて、どんな不都合なことがありますか」
「花嫁…」
 馬超は暗然と呟く。その力ない姿に、馬岱は、ちょっとした思いを抱いた。
「…兄上。ひょっとして雲緑を嫁に出したくないのですか?」
「いや。違う。そんなわけはない」
 翻然、馬超は言葉を吐する。
「当然、俺だって雲緑に幸せになってほしい。父上はたくさんの子のいる中で、たった一人娘として生まれてきた雲緑を誰よりも可愛がっていたし、鉄も休も雲緑によく構ってやっていた。あいつには幸せになってほしいんだ」
「ならば何故躊躇われるのです。この縁はきっと殿も軍師殿も喜んで…」
「分かっている。分かっている。…いいか、岱」
 深刻な表情で、馬超は馬岱に向き直った。
「俺にも、もしもこの縁が成ることになれば、それは雲緑の幸せになるばかりじゃなく、西涼勢と蜀軍との結びつきが強くなるだろうということは分かっている。その面から見ればこの縁は望まれさえするものだろうし、そのうえ二人が相思であれば、言うことが無いほどめでたいことなのだろうと思う。世の中には不幸な結婚が幾らでもあるんだからな。だが、俺が心配しているのはそれとはもっと別のことなのだ」
「別のこと…?」
 聞き返す馬岱に、馬超は眉間に深く皺を寄せ、
「…ああ。あれが、問題なんだ」
 言って、手真似で何かの仕草を馬岱に示した。
 それで馬岱も、従兄の言わんとすることを理解したようだった。その顔色が途端に蒼くなる。
「…そうでした」
 先ほどまで良縁を見つけた母か姉かのように欣然としていたのに、冷水でもかけられたようにしょぼくれてしまった。
「…そうだろう?あれだけは普通の男では太刀打ちできまい。誰でも逃げ出す」
 馬超は、落ち込む馬岱に追い討ちをかけるように、肩で息をして言い放った。
「…なら、それなら兄上」
 明らかに馬岱は周章しながら、それでも、と顔を上げた。
「一度、趙将軍にご足労願っては?馬家に一箇の名玉ありなと、何かうまく口実を設けて。直に知って頂くのが一番です、もしかしたら、ということもありますし…」
 ちらと馬超は目を動かした。
「もしかしたら、か?」
 確率は低いと言外に言っている。
「しかしこのまま動かぬというのも…。もしも、何かことが起こってからでは遅すぎます」
「こと?まさか」
 思わず馬超は笑った。莫迦がつきそうなほど大真面目で、女性に贈り物一つ渡すのにもその兄の手を介そうとするような…不審、あるいは妙な勘繰りをされるとは思わなかったのか…?…不器用なあの将軍が、このまま雲緑とどうなっていくというのだ。
「兄上、憚りながら雲緑の名誉に関ることですよ」
「名誉…」
「ええ。そりゃ、私も時々忘れそうになりますけど、雲緑は女なんですから」
 言い切る馬岱に、馬超は沈思した。確かにそうだ、いや、しかし、と、暫しその心中で思惑を戦わせていたようだったが、
「分かった。一度、やってみよう」
 意を決したように、座っていた椅子から立ち上がった。馬岱は明るく眉を開く。
「兄上」
「…が」
 すとんと、再び馬超は椅子に戻った。
「もしも、いやそれで当然だろうと思うが、趙将軍がマトモであれば間違いなくこの縁談は成らないぞ。そのほうが雲緑の不名誉にならないかなぁ…?」



「趙将軍」
 出仕が済んでから、馬超は都の巡邏に出ようとしていた趙雲を呼び止めた。
「はい」
 何気ない様子で趙雲は振り向く。馬超は言葉に困った。馬岱にああは言われたものの、もともと、馬超は弁舌の才には長けてはいない。どう言って屋敷に招いたものか。
 それでも、苦しいながらに二、三、世間話などを持ち出した後、
「良かったらうちに夕食を食べに来ないか」
 単刀直入にそう切り出した。
「え、よろしいのですか」
 案外、趙雲は気軽な様子だった。
「そちらの都合さえ構わんのなら」
 一つの関門を突破したことに安堵しながら、馬超は顔だけは無愛想に、そう答えた。



 趙雲が訪れてきたのは、西空に夕星が輝き初める頃だった。
 馬超はすでに雲緑に言いつけて、館中の灯火を明るくさせている。
「いいか、くれぐれも趙将軍に失礼のないようにな」
 そう言い添えて雲緑を奥へと追い立て、馬超は馬岱と共に趙雲を迎え出た。
 身軽に白馬から降りる趙雲の姿はいつもながら颯爽として、夜目にも清々しいばかりだった。
 背後から馬岱は馬超に言った。
「兄上、やはり」
 この人ならでは、と言いたげでいる。
「…うん」
 憮然として馬超は答える。その気持ちは馬岱と同じだった。気持ちの上だけでは。
 儀誼挨拶もそこそこにして、馬超は食堂に彼を招く。ここからが本番だと、心に言い聞かせている。
 席につき、暫くもしないうちに雲緑が酒と、馬岱が市場で買い求めてきた簡単な肴を捧げ持ってきた。まず、客の趙雲の席へ寄る。胸には、あの首飾りを下げて。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 言葉少なな中にも柔らかに笑み合って、打ち解けている様子が見える。馬超は何気ないふうで、趙雲に酒を勧めた。
 雲緑は奥へ下がり、膳の用意を整え出した。馬岱はそれまで、訪客が退屈を覚えぬように、つとめて会話に心を砕いた。趙雲も話は好きなようで、心のこもった受け答えを返してき、気が付けば馬超も、己が口下手であることも忘れて話の輪に入ってしまっていた。
 武具、防具、馬のことなど、大陸を馳せる勇士同士、話題はなかなか尽きなかった。
「お待たせしましたぁ」
 弾んだ声がして、雲緑が佳肴を運んでくる。来た、と、馬超も馬岱も頬を強張らせた。
「趙将軍、どうぞゆるりとなさってね」
 溌剌とした笑顔を見せる。ええ、と答える趙雲の顔は明るかった。
 趙雲、馬超、馬岱の順で雲緑は卓を整えていく。
 眼前に並べられたものを見て、馬超は、己の認識がやはり甘かったことを知った。
 趙将軍に出すものなら、と思ったのだが…。
 激しく後悔の臍を噛んでいる。
 無造作に焼かれた野菜と肉が、まとめて皿に放られている。お世辞にも美味そうと言えるものではなく、驚いたことに、その匂いさえ素材たちとはかけ離れたものに変わり果てていた。
 父馬騰は、娘の雲緑に素槍は持たせても、包丁を持たせるということは忘れていた。馬超にとっては、雲緑を嫁に出すことを躊躇う一番の理由を見せつけられているようなものだった。
 料理人でも雇えば良いのだが、故郷を追われて以来、人と交わることが厭わしかった。それよりはと、雲緑が自然に料理を習得してくれることを望んでいたのだが…。
 それが甘かったようだった。
 馬超も馬岱も表向きは談笑しながら、どうなるものかと趙雲の姿を横目に見ている。
 こうなることは分かっていたんだ。
 間違ったことをしてしまった。
 声にはしないが、二人とも、落涙したいような思いで胸に呟く。
 しかし。
 趙雲は怯むでもなく、皿のものを平らげる。
「馳走になりました」
 慇懃に礼をする。
「気に入った!」
 椅子を蹴って馬超は立ち上がる。
「趙将軍、どうか末永く雲緑とよしみを!」
 悲鳴に近い声で馬岱は趙雲に拝謝する。
「な、な、なんですか!?」
 馬兄弟に左右から肩を掴まれて、趙雲は眼を白黒させた。



 梁を揺らせるような大快笑に、食後の茶を用意していた雲緑は食堂を覗いてみた。
 見てみれば、馬超が趙雲の肩を親しげに叩きながら哄笑し、馬岱は真っ赤な顔をしているが、どうやら感涙に泣き咽んでいるようだった。
 何だろう?何かいいことあったのかなぁ…。
 普段と似げない兄たちの様子に雲緑は首をかしげながらも、どこまでも快然とした二人の様を喜ぶのだった。

 月の夜、蜀の眠りは、深かった。










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