〜 Marriage 〜







 戦いが終わった。
 長く辛い──決して世に知られることのない、戦い。
 不可思議な因縁に結ばれた仲間たち…共に過ごした、数々の日々。
 ──それに今、別れを告げる。



 豊かな金色の髪を揺らし、その男勝りの女性は優雅に言った。
「じゃあね。素晴らしい旅だったわ」
 手にした杖で地面をつき、輝く眼をした老人は笑う。
「元気でな。楽しかったぜ」
 気品溢れる会釈を送り、細面の青年は恭しく胸に手を当てた。
「それでは失礼致します。寝覚ましには勿体無いくらいの夢でしたよ」
 まだ幼さが十分に顔に残った、小柄な少年は懸命に帽子を振る。
「バイバイ!本当にありがとう!」
 皆、離れていく。離れ離れになっていく。
 それぞれの道を生きていくため。己の生を、掴むため。
 ウルはその背を、ずっと見送っていた。
 たった一人、そばに残ったのは。
「…ウル」
 鈴のような声が耳に転がる。振り返ると、紫の瞳と目が合った。
 清らかな、光そのもののような、佇まい。
「アリス」
 ウルは、手を伸ばした。差し出された手を、しっかりと握り締める。
「行こう。一緒に…」
 ウルの言葉にアリスは微笑み、頷いた。



 月の無い、夜だった。
「……」
 質素な宿の一室で、ウルは毛布にくるまり、卓に置かれたランプを見つめていた。
 油が切れかかっているらしく、煤けた硝子に閉じ込められた小さな炎は頼りない明滅を繰り返し、そのたびにウルの影法師がゆらゆらと揺れる。
 アリスは用があるといって階下に降りていった。
 ウルは落ち着かなかった。
 アリスと、二人きりの夜。
 ウルはちらりと視線を移した。そこにはベッドが二つ並んでいる。
 すぐ目を背け、考えあぐねるように頭をかきむしる。
 だってさ、いきなり一つフトンってのも?なんだし?
 きつく目を瞑った。
 ていうか、二人なのにさ、ベッドがいっこしかない部屋を、なんてわざわざ言ったりしたらぜってー宿の人間にやらしい目で見られるじゃん、俺じゃなくてアリスちゃんのほうが!そんなのいやじゃん!
 悶える心を誤魔化すように心の中で御託を並べ、テーブルの上に行儀悪く足を投げ出した。
 二人なんだからベッドが二つある部屋で泊まるのがフツーじゃん!別に何もおかしくねえって!
 何かから逃れたいように頭から毛布を被る。
 二人。ウルがアリスと二人きりで宿に泊まるのは、本当に久しぶりのことだった。
 今までは常に仲間たちがいた。
 宿で休む時には、それが例え野宿であってもアリスの傍には常にあのマルガリータがついていたし、ウルのそばには朱震、キース、ハリーが…特に悪気は無かっただろうけれども…いつだってついていて、騒がしかった。
 楽しかったから、一人になりたいなんて思わなかったけど…。
 そんな仲間たちとも今は別れてアリスと二人だけになってみると、がらんどうとした夜の広さをウルはひしひしと感じてしまう。今まで生きてきた人生の中であれは本当に短い間であったのに、それは真の仲間と呼べる存在を初めて手に入れたからだろうか…。
 それでもウルは、戦いが終わって皆がそれぞれの道を選んでいく中で、アリスと二人で行く道を択った。
 同じ道を歩いていきたいと思ったから。一緒に生きていきたい、と。
 離れることなんかできない。長かったあの旅は、自分たちを一枚のコインの表と裏のように別ち難く結びつけた。自分たちを切り離そうとしてきた悪意の手を、そのたびに逆手にねじ伏せてきた。
 相手が誰であろうと。怨念に染まった陰陽師だろうと自分自身の影だろうと銀河の果ての神だろうと──。
 離れられるわけがない。アリスは自分にとってただ一人の女だ。
 …でも。でもでも、でも…。
 ウルは長い足を折り畳み、子供のように膝を抱えた。
 ほんとに、オレでいいのかな。
 そんなことも思ってしまう。
 さわっていいのかな。
 アリスと初めて出会った日、彼女に何をしたのかウルは忘れたわけではなかったが、今、改めてそう思うのだった。
 だって、あの時のオレにとってはアリスはただの女だった。「声」に言われて、言われるままに一緒にいるしかなかったメンドくせえ動くお荷物。
 だけど今は…誰よりも…、はっきり言って、自分の命よりも大切な存在になっている。オレの女。
 アリスはきれいだ。どこから見てもとんでもなくきれいで、白くて、光みたいで。だから余計に、オレみたいなみっともねえ、薄汚れた、闇みたいな男が触っちまったらいけないんじゃないかって──。
 消え入りそうな小さな炎を、ウルはじっと見つめている。
 慎ましいノックの音が響く。
 毛布を払いウルは椅子から立ち上がった。
「アリスちゃん?」
 ドアに寄り、鍵を開く。
「ありがとう」
 アリスの華奢な体が、ウルの脇をすり抜ける。何か、片手に抱えられるほどの包みを抱いている。
「なにそれ?」
 鍵をかけながらウルが尋ねた。アリスは頷く。
「明日のね、パンと干し肉をいただいてきたの。それからぶどう酒…」
 危ういほどに透き通った声で、そう言う。
「ウルはたくさん食べるだろうから…少し多めに」
 ウルはテーブルに戻り、椅子に座った。
「そんなのに行ってたの?別に明日の朝でもいいじゃん」
「うん。でも、早く出ることもあるのかなって思って…。でも…そうだね。明日でも良かったね。みんなといた時のクセがまだ抜けてないみたい」
 アリスは寂しそうに笑った。
 みんなといたとき。ウルも、思わず遠くを見た。
 街から街へ。森を抜け、国境を越え、大陸を渡り、海を、空を…。
「そう…だよな。大変だったもんな」
 明日のことなんて分からなかった。だから今日を必死に生きて、懸命に明日につなげようとした。
「うん。でも…もう大丈夫だよね。戦いは、もう終わったんだものね」
「ああ」
 ウルは頷いた。アリスは微笑み、包みを置いてウルの向かいに腰掛けた。
 ウルはテーブルの上で手を組み合わせ、指をもじもじと動かした。こうしてアリスと向かい合うといよいよ平静ではいられない。油の切れゆくランプはウルの目の前で鬱陶しいほど点滅を繰り返し、同時に、アリスの髪の艶は、天使の輪のように麗しく輝く。
「何だかランプの調子悪いね。替えてもらってこようか…」
「なぁ…ちょっと、アリスちゃん」
 立ち上がりかけたアリスを、ウルは手で制した。座るように、ゆっくりと手で示す。
「?」
 アリスは無心にウルを見る。すとんと、椅子に戻った。その透明な瞳に見られてさえ、ウルは心臓を射抜かれる気がした。
「ホントに、オレなんかでいいの?」
 思わず、口走っていた。景気の悪い炎のせいで、アリスの顔がよく見えない。それが余計にウルの不安を駆り立てる。
「え?」
「だってさぁ、オレ、自分で言うのも何だけど問題ありまくる男だよ?ろくすっぽ字は読めねーし、書けねーし、考えんの苦手で頭だって超悪ィし。マトモな職には多分ありつけねえだろし、きっとアリスちゃんに苦労ばっか…」
「ウル」
 怒涛のように言葉を連ねるウルを暫くアリスは見つめていたが、手を伸ばして彼の手を握った。ウルの眼を見て、ゆっくりと、首を横に振る。
「そんなウルだから…私、大好き」
 柔らかに微笑んだ。
「ウルはいつも私のことを気遣ってくれて、守ってくれて…あったかく包んでくれる」
 アリスの瞳を、ウルはひたと見据える。
「今まで、色んなことがあったね。だけど私、どんなことでも、あなたがいたから乗り越えられたよ。あなたがいたから何も怖くなかった。ウル…あなたが大好き。生きていきたいの。あなたのそばで、ずっと…」
「アリス…」
 ウルの手が震えた。
 アリスの手を握り返す。柔らかく、暖かい。
 アリスの、手。
 自分の心の影に怯えて、もがいて、あがいて。それでもどうしても一人では抜け出られなかった闇の中に差し伸べられた、白く輝く光の手。
 考えることなんて無かったのだ。
 二人で同じ道を選んだ。それが、答えだった。
 ウルは椅子から転がり落ちた。ウル自身は椅子から少し離れたつもりでいたのだが、もんどりうったようにしか見えなかったアリスは驚き椅子から腰を浮かせた。
「アリス、オレと結婚してくれ」
 駆け寄ろうとするアリスの手をしっかりと握り、訴えるようにそう言った。
 唐突なようなウルの言葉にアリスの瞳が丸くなる。
「今まで生きてくだけで必死だったから、アリスちゃんにあげられるようなものはオレは何も持ってないけど…それでもオレ、お前を愛してる」
 巡礼者のように跪き、ウルはアリスの手を強く握った。首を垂れ、ひたむきに、アリスの返答を待つ。
 アリスは暫し放心していた。思いがけない言葉を…漠然とそう思っていたつもりでいても、はっきりと言葉にして伝えられた驚きに、瞬きすらも忘れていた。
 だが、彫像のように動かなくなったウルの姿に気がついて、アリスはやっと我に返った。真珠色のその頬が、ゆるゆると薔薇色に染まっていく。
「うん。ウル…」
 アリスは、はっきりと頷いた。ウルは顔を上げる。
「ウル…ありがとう…!」
 躊躇うことなく、アリスはウルの胸に飛び込んだ。
「は…ははっ……」
 くぐもった声でウルは笑った。アリスの身体をしっかりと抱き留める。その眦に、涙の粒を浮かべながら。
 温いものがウルの胸を濡らしている。アリスの涙だった。弱弱しく、けれど清く、春の雨のように降っている。温かなものがウルの胸を満たしていく。
「アリス…アリス、ありがとう……」
 壊れやすいものを引き寄せるように抱きしめた。
 ウルの背に、おずおずと恥ずかしげにアリスの手が回される。
 見つめ合う。瞳を、閉じた。
 唇を重ね、深く、抱き合う。想いを、魂を、寄せ合うように。
 長く深い口づけのあと、ウルはそっとアリスの身体を抱き上げた。あれほど懊悩していたベッドの上へ、迷いなく、自然に運ぶ。
 枕に銀色の髪を埋め、羞恥に頬を染めるアリスに、ウルはもう一度、優しく口づける。
「一緒にいような?オレたち、ずっと…」
 菫色の瞳に涙を浮かべ、アリスは頷いた。
「ウル…ずっと、ずっと…」
 燈火が完全に消え落ちた。暗闇が部屋を覆い尽くす。
 何も見えない。
 見えない、けれど。
 ウルは手を伸ばし、アリスに触れた。蝶の羽搏きのようなアリスの細い息づかいが、間近に肌に感じられる。
 アリスはここにいる。ずっと、おれのすぐそばに…。
 震えるような思いの中で、ウルはアリスに口づける。甘く、幾度も。
 夢見るような溜め息をアリスは零す。絡め合わせた指と指を、さらに深く握りしめた。涙が頬を伝っていく。愛する人と想いを交し合える、喜びの涙が。



 ずっと一緒に。
 生きていく。
 かけがえのないあなたと、新しい未来を見るために…。