「出門様ー!いずも様、出門様ー!どこにいらっしゃいますのー?」
鬼御門の屋敷に帰ってくるなり、邪空を出迎えたのはその姫の大きな呼び声だった。
燦然と輝く簪と、目にも綾な桜の振袖を纏った姫君が、屋敷の奥から一直線に駆けてくる。
「あ!邪空どの、出門様を見かけませんでした?」
たった今、戻ってきたばかりの邪空にそう言う。
小柄な身体に円らな瞳、この姫、その名も桜姫は、この鬼御門の家の姫御前だった。江戸の闇を守護する陰陽師の長、十三代目安部晴明の一人娘である。
「さぁ…私は存じ上げませんが」
慇懃に邪空は答えた。
幼い日に晴明に拾われ、以来陰陽術師として育てられ養われてきた邪空にとっては、この桜姫は主筋にあたる。
「出門がどうかしましたか」
務め半分、そう尋ねた。
姫はぱっと顔を輝かせたが、邪空の切れ長の目を見ると急にぶんぶんとかぶりを振った。
「いいえ、なんでもありませんわ、邪空どの、おつとめご苦労様でした」
言い残して、意味も無く頭の簪を気にしながらそそくさと去っていく。
性活発で裏表の無い、素直な気立ての桜姫だが、彼女はなぜか邪空にはそっけがなかった。眼光鋭く、抜き身の刀のように殺伐とした雰囲気を持つ邪空が、姫は好きにはなれないのかもしれない。逆に色町の女どもはそこがいいといって、邪空を下にも置かないのだが。
あくまで姫は、出門だけに執心している。彼に対する姫の態度は、他のそれとは全く違った。
出門は、邪空とほぼ同時期に晴明に拾われた青年だった。年頃も邪空と近く、ただし性格は正反対と言って良かった。愛想がなく倣岸ですらある邪空と違い、明朗な性で、誰に対しても分け隔てがない。
姫はずっと、そんな出門を慕っている。いや、慕うというのも生易しかった。
姫の母はすでに亡く、父は一人、娘は一人、かしずく家人は幾数人。べったりと甘やかされ、極めてわがままに育った姫の感情表現は、まるで甘いものを目にした子どものように率直で、言い換えれば露骨だった。出門にその気が全くなくても、猪突猛進、お構いなしだ。
出門には、明るく自由な性格の中に、いやに義理堅い一点がある。まるで子犬のように付きまとってくる桜姫に対しても、邪空よりは真面目に相手をしてやっていた。どんなくだらない話でも一応は聞いてやるし、ばかばかしい申し出でも、筋さえ通っているのなら決して断ったりはしない。
邪空と違って女も作らぬ朴念仁だが、そこがまた、姫に気に入るところなのだろう。出門、出門と毎日のように名を呼んで、全くもってかしましい。
無邪気なものだと邪空は思う。出門にとっては姫の相手も、師父である晴明への恩返しでしかないだろうに。
ともあれ、幾つになっても、箸が転がっても笑い出すような姫君だった。どうせ出門を呼ぶのも大したことではないだろうと、邪空はそのまま足を進めた。
歩き慣れた渡殿をずいずいと通る。
広い。
鬼御門の屋敷は、このひしめくような江戸中にあって、類を見ないほどに広かった。
江戸幕府開闢からそう遠くせずに置かれたこの屋敷は、そのときに築かれたそのままの姿で、この文政の世にまで続いている。
徳川家康が入府した当時、江戸はまだまだ未開の地であった。
それを、かの神君家康公は多くの民衆を呼び込んで、ここに大きな都を作らせた。京の町を意識しながら、決してそこにはひけを取らぬ、絢爛豪華な文化の地を。
家康公のそうした意思は二代目将軍秀忠にも受け継がれ、彼はさらに、都の建設に力を注いだ。
その急激ともいえる土地の発展は町に豊かな光をもたらしたが、同時に多くの闇を呼び込んだ。
栄える者の陰には、必ず衰える者がいる。競うようにして巨大化してきたこの町に、一体どれほどの人々の悲嘆、憤懣、憎悪が埋もれていることか。
そうした人の闇に魅かれて、この江戸の地を、異界の鬼どもが跋扈しはじめたのはいつ頃からだったか。
闇より出ずる悪霊ども、それらは人を襲い食らった。陰に潜む魍魎どもを人々は恐れ、それを祓うものたちを求めた。
その人々の求めに応じ、設置されたのがこの鬼御門の家である。
そこに働く人々の全ては鬼祓いのための力、陰陽師の多彩な術を習得していた。
邪空はここに、鬼祓いの達人として名高かった。そしてそれは、出門も。
出門は”鬼殺し”とさえあざ名され、頭首である晴明を除いては、まず鬼御門第一の使い手と呼んで良かった。
邪空と出門、二人の腕前は伯仲する。
人の囁くそのことを、邪空もそうだと思っていた。好敵手と呼んで良かった。そう、ただ一人の。
前栽を通りかかる。
ひたと、邪空は足を止めた。
大空に目を向けた。そこには、常盤を思わせるような青松がそびえている。
じっと目を凝らす。松の木の上、幹と幹とのわずかな影に、何者かが猫のように潜んでいる。
邪空は腕組みをした。
あの姫のお呼びと、この、気配。
ふっと、笑う。
「出門。おい、いずも」
一応は気を遣って、低く呼びかける。
途端に木の上の気配が消え、まつぼっくりが足元に転がった。
思わず目を落し、再び上げたときには、横伸びの幹に一人の青年が腰掛けていた。
「お前にかかっちゃしょうがないな」
色白の顔よりさらに白い歯を見せ、闊達に笑う。
「出門、桜姫がお探しだったが?」
「知ってるさ。だから隠れてたんだ。全く、あの姫さまにも困ったもんだ」
悪態をつきながら、身軽に松から飛び降りる。
「何を言う、主家の姫に懸想されるなど、僥倖なことではないか。あのお転婆ぶりでは嫁の行き手にも苦労するだろう。お前が貰えば万事おさまるぞ」
「よく言う、他人事だと思って。女など面倒でしょうがない。それに百歩譲ったとして、おれと桜姫が添えるわけないだろう。姫はきっとよそに嫁ぐさ、先生がそうさせるに決まってる」
「陰陽の血をより濃くするために…か?」
「ああ、おそらく京の賀茂家か、土御門家のどっちかにだろう。特に賀茂家のほうには姫と近い年頃の兄弟がいると聞く、あの妙に計算高い先生だ、お互いの家の血のためなら、そうしないわけがないだろう」
鬼祓いの血を守るため。
代々続く陰陽師の家に生まれたあの姫は、自由に恋のできない身分だった。
特殊である鬼祓いの血を存続させるため、いつかは、名のある同格の家に嫁がねばならぬ。
今は出門を追ってばかりのあの姫も、いつかは想いを断たねばならない。そう思えば不憫なものだった。だからこそ余計に、姫は出門のそばにいたがるのかもしれないと。
「出門よ、実らぬようだなぁ、お前たちの恋は」
「恋だとぉ?」
心外、とでもいうように、出門は眉をそびやかす。
「馬鹿を言うな、仮にでも桜姫と恋なんかしたら、命がいくつあっても足りないさ。だいたい女なんて鬱陶しいだけで面倒でしょうがないんだ、おれは御免だ。…おい邪空、さっきから好き放題言ってくれてるが、お前はどうなんだ。面白そうに見物してばっかりで、人に勧めるくらいならお前が貰えばいいだろう」
「俺が?」
思わず、鼻で笑う。
出門は舌打ちした。
「ちっ、それだよ。お前に言った俺が馬鹿だった。色町通いで鍛えられたお前だ、あの姫さまで満足できるわけがないか」
「おいおい、人聞きの悪いことを言うな。女たちが勝手に寄りついてくるだけだ、俺の知ったことではない」
「冷たいことだな」
「そのあたりは貴様と変わらん」
「一緒にされちゃたまらないよ」
顔を背けながら、出門は笑っている。邪空も笑った。
「それにしても邪空…」
まつぼっくりを拾い上げ、出門は黒光りする廊下に腰掛けた。手で弄びながら、話す。
「最近、妙だとは思わないか」
「何がだ」
「鬼の数が増えてきているような気がする。ここ数年、年を追うごとに。晴明先生の眉は険しい一方だ」
出門は宙を睨んでいる。おそらくは鬼たちの姿を描いているのだろう。暗闇に蠢きのたうち回る、彼らの醜悪な姿を。
「…そうだな…。…だが、鬼どもを祓うのが俺達の仕事だろう。本当に奴等の数が増えているとしても、俺達はその分、戮していくだけだ」
「淡々としてるな」
「そうでもないさ」
「そうか?…ただ、鬼を滅ぼすのは一向に構わないんだが、たまらないのがあいつらの返り血だな。洗っても洗っても、少しだって落ちてくれない」
今も臭うか?と、出門は己の袖に鼻を寄せる。”鬼殺し”のあざ名に似ない、随分と無防備な姿だった。
「なあ、どうだ邪空?」
出門は聞いてくる。
「いいや」
短く邪空は答えた。たとえ出門の心配する通りだとしても、それは出門の責任ではない。確かに昨今、鬼の数が多すぎる。邪空も出門も、他の鬼御門の面々も、町の見回りを怠らない日はないほどだ。この人数と、それぞれの卓越した腕前が無ければ、とても太刀打ちできるものではなかった。
鬼御門の精鋭たち、言い換えれば、晴明が拾ってきた者たちは、この二人のみではなかった。
弟子入りを望んで鬼御門の門を叩く者も、容れてはいた。それよりもさらに他、晴明は、飢饉のあとや貧困の村、そうした土地に打ち捨てられた子どもを拾ってきては、陰陽道の教育を施してきた。
もちろん、異能である陰陽術を習得できずに落伍する者も多く出たが、それにも構わず、晴明はふるいをかけるようにして残った子たちを育て上げた。
今では出門、邪空のほか、毘沙門、大黒の二人、ほか三界衆と呼ばれる三人の青年たちが、鬼御門の家名を重からんものとしている。
邪空たちが長じてからは、晴明が孤児を拾ってくることはなくなった。その分、鬼御門の仕事を次々と回してくる。邪空たちは、晴明の教える基礎以外は、殆ど実戦に育てられたといっていい。
幾多もの死線を乗り越えて、確かに彼等は強くなった。今では見事に、鬼を祓う一流の魔事師として、この江戸の町を守っている。
まるで、こうした日々がやって来るのを、晴明は知っていたかのように。
そこまで考えて、邪空ははったと天を睨む。
もしも本当にそうであるのだとしたら、この鬼どもの増加についても、あの晴明には理解しえないということはないと…。
「邪空」
そうした邪空の思考は、兄弟弟子の声にかき消された。
出門も高く、空を見つめていた。真夏の夜であれば、牽牛の星が煌くあたりを。
「何か…大きな闇が、動こうとしてるかもしれないな」
邪空と同じことを、出門は考えていたようだった。邪空は頷く。
「…それでも、答えは同じだ。俺達は鬼御門の人間。それ以外の何者にもなれはせん」
厳しく眉間を寄せる邪空を、出門はふいに笑った。
「おい邪空、お前はそうやって、何でも真剣に捉えたがる。そう決め付けることもないだろう」
「しかし俺は…いや、ひょっとすると俺たちは、もしかしたら」
言いかけたときだった。
「あっ出門さま!見つけましたわー!」
後方から黄色い声が飛ぶ。
振り向くまでもない。さらさらと鳴る銀の簪が軽やかに、出門めがけて走り寄ってくる。
「…まずい」
出門は低く言う。すでに冷や汗がこめかみに浮いている。桜姫の相手を務めながら、その実、姫より苦手なものはないらしい。
「邪空、また後でな!」
言うが早いか、出門は着物の裾をからげ、隼のように身を翻した。
「出門様?あらっ、出門様ー!お待ちになってー!」
あとを追う桜姫の足音が、邪空の後ろを遠ざかっていった。
姫がどんなに懸命になろうが、江戸の町を縦横とする出門に追いつけるはずがない。それでも出門の足裁きは、姫に対して容赦がなかった。すでに邪空の視界からも消えている。
鬼御門で見られる、数少ない平和な風景だった。邪空の表情が思わずして和む。
しかし、そこまで必死になって桜姫から逃げ出す出門は、怒涛のような彼女の勢いも手伝うだろうが、やはり彼の語るとおり、女というものが嫌いなのだ。すぐ泣く、怒る、嘘をつく、感情一つでことを決める。それらの全てが煩わしいと。
あの出門が恋をする姿とは、どのようなものだろう。
ふいに邪空はそんなことを思う。
どんな女に、恋をするのか。
その様も、風のように涼やかなるか、土のように和やかなるか。
それとも怒涛の水のようにか、炎のように激しくか。
飄々として、物事に深くこだわらない出門だった。どんな姿に変わるのか、長年ともに暮らしてきた邪空にも、想像がつかない。
その時は、見守っていてやろう、出門よ。
悠然、邪空は佇むのだった。
それから、しばらくして。
鬼御門の家に一つの依頼が舞い込んだ。
ある邪宗の寺に、異形の鬼たちが棲みついているという。
十三代目安部晴明は、その討伐を出門に任せた。
出門は愛用の霊剣「黒夜叉」と、晴明に与えられた鬼御門の配下数名を引き連れ、夏の闇夜へ溶けていった。
それはいつもと変らぬ出門の後ろ姿であったのだが、それきり、彼の姿を見た者はいない。
残されたものは、燃えて黒焦げになった寺の残骸と、調伏の激しさを物語る数々の変わり果てた遺体だけ。
人、鬼、いっしょくたになったそれらの中にも、しかし、出門のものは見つからなかった。
彼が帰らぬまま、時は過ぎ、いつか邪空は鬼御門の副頭領となった。
そして桜姫は、かつて出門の語ったとおり、京の賀茂家へ嫁いでいった。しかしながら、出門への恋慕を押し殺し…というような悲壮なものはなく、姫の晴れやかな装いと、その豪奢な輿入れ行列は、長く江戸の人々の語り草になったほどだった。
出門は生きている。きっと、どこかで会える。
そう、桜姫は思っているのかもしれない。女というものは鮮やかなものだった。桜姫は人が見ていたよりも深く真摯に、出門に対して恋をしていたのかもしれない。
邪空も、出門が生きていると思っている。あの出門が死んだなどとは、どうしても思えないのだ。今も江戸中のどこかで、生きているような気がしてならない。
再び会える。いつか必ず。
それは、陰陽師としての直感ではなかった。邪空には、そう思えてならないのだった。
彼らは知らない。
次なる因果、新たなさだめが動き始めたということを。
天地間の片隅で、孤独に濡れた、悲しき瞳が開いたことを。
文化文政、爛熟と停滞の同居する時代。
彼らが再び出会うのは、時の隔てがあったあと。
血濡れた糸が呼び起こす、闇の王が目覚めのときに。
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