〜 光へ 〜







 欧州の小さなステーションで、彼らは列車を待っていた。
 黒髪の青年と銀髪の少女。
 遠い地平へ目を注ぎ、寄り添うように佇んでいる。
 手荷物は決して多くない。
 たった一つの鞄の中には、一冊の聖書と、清潔でいられる分の着替えだけ。
 それだけで彼らは十分だった。
 夜が冷えればコートがあるし、道に迷えば、二人で探していけばいい。
 二人でいれば何も恐くない。何よりも、誰よりも強くなれる。
 銀河を超えてきた神にも負けなかった。
 守りたかったのはこの世界。
 お互いの、笑顔。




 澄んだすみれ色の瞳が瞬きを繰り返す。
「どしたの?アリスちゃん」
 列車に乗り込み、アリスの斜向かいの座席に腰を下ろそうとしていたウルは、その視線に気が付いた。
 華奢なからだをちょこんと通路側の座席におさめ、アリスはじっと、ウルを見ている。
 ウルは小首を傾げたが、ふと嬉しそうに、にやっと笑った。
「あ、やっぱりオレがとなりにいないとサミシイ?」
「ううん、違うの」
 アリスは言う。
 ウルは、列車の進行方向と逆向きに座ろうとしている。
「のりものよい、大丈夫ですか?」
 おっとりと、しかしこの上もなくはっきりと、彼の弱点を指摘する。
 ウルはさっと青ざめた。
「言うなよっ、思い出さねえようにしてたのに!」
 予想外の大声に、アリスは肩を引っ込めた。
「ごめんなさいっ」
 ウルは鼻で大きく息をして、アリスの隣に乱暴に背中を投げ出す。
 固いシートに窮屈そうに肩を鳴らせてから、何かに気付いたような顔をした。
「なあ」
「はい」
「…アリスちゃん、ひょっとして窓際空けてくれてた?」
 うん、と言うようにアリスは頷いた。
「さいしょからそう言えば良かったね」
「…お前。いっつもそーだよ」
 アリスは微笑む。ウルは、コートの襟に隠れるようにして顔を沈めた。
「…あんがと」
 骨ばった手が、コートの中からさ迷い出てくる。
「いいえ」
 優しく言って、アリスはその手に手を重ねた。機嫌を直したように、ウルは笑う。
 汽笛が鳴った。ウルもアリスも、顔を上げる。
 圧縮された蒸気が噴き出す、けたたましいほどの熱の音。
 今の彼らにとっては、それだけのものではないように、胸に響く。
 旅立への勇ましい凱歌のようでもあるし、別離への甘い感傷のようにも、聞こえる。
 音が止むまで、耳を傾けていた。
 手を握り合い、そのまま身動きもしようとせず。
 ごとんと、地面が振動した。ゆっくりと列車が動き出す。
「……長かった、な」
 駅も小さく遠ざかったころ、ウルが、呟いた。
 汽笛の音のことでは、なかった。
「うん」
 アリスは短く頷く。
 思い起こしていた。広い欧州を渡り歩き、様々な人々たちに出会ったことを。
 思えば、数奇な旅ではあった。
 融合の術を駆使する青年と、白魔法を操る少女が出会ったときに始まったもの。
 特殊な力を持って生まれてきた彼らと、何かに定められていたように巡りあった仲間たちは、皆、尋常の育ちをしていなかった。
 陰陽師の老人。スパイの女。数百年の眠りから目覚めた吸血鬼。超能力を持った少年。他にも挙げれば、きりがない。
 そんな彼らと長い旅をした。世界を揺るがすものと戦い、そして見事に、打ち払った。
 本当に苦しかったその旅のことを、人々は知らない。話したって、信じもしないだろう。
 けれども。
「楽しかったよ」
 アリスは、言った。
「ウル、わたし、とっても、とっても楽しかった」
「オレも」
 赤い瞳を細め、ウルは笑う。
「楽しかった。ほんとに。親父のことやオレの力のこと…いろいろあったけど、何もかもがはっきりしたし。何より…」
 言葉を止めてアリスを見る。澄み切った紫水晶の瞳と、まっすぐに向き合う。
「お前に会えたから………なーんて、言ってみちゃったりして!ははっ!」
 自分で言って、一人で照れている。横を向いて壁をばんばんと叩いてみせたり、幼さの溢れたその仕種は、とても彼が24歳の青年であるとは思えないものだった。
 しかし、そんなウルにアリスは柔らかなまなざしをおくる。長身の彼へ、首を伸ばした。
 手にかけられたささやかな体重にウルは振り向き、その頬に、恋人の口づけを受け取った。
 深紅の瞳がまんまるになる。アリスはウルの肩に、頭を凭せた。
「ウル、大好きよ」
 言って、目を閉じる。
「うん」
 ウルは静かに頷いた。細い肩をそっと抱き、その銀の髪もろとも、彼女の額へキスを贈る。
「好きだ、アリス」
 耳元で囁くと、こくんと動いて、耳朶が桃色に色づいた。
 吐息を間近にしあって、互いに寄り添う。
 幾つかのトンネルを列車は潜り、明暗が交互に膝元を行き交う。
 瞳を閉じた二人には関わりのないこと。
 闇を探って、唇を合わせている。
「…なぁ、あの、さ」
 アリスを懐に抱いて、ウルは低く、ふと言った。
 ウルの胸にもたれてうっとりとしていた、アリスは顔を上げる。口づけの余韻にかすかに頬を紅潮させたままのウルは、何か言い出しにくそうな顔をしていた。
「アリス、行き先って、まだ遠い?」
 今更のようなウルの言葉だった。
 アリスは瞬きをする。
「? ええ。チューリッヒはまだまだよ。列車を降りたら馬車を借りて、たくさん、たくさん歩かなきゃ」
「そっか」
 そっと、ウルはアリスから瞳を外した。窓の景色に目をやって、ふうっと息をつく。
「ウル、どうしたの?」
 もしかして乗り物に、と言いかけた言葉をアリスは慌てて引っ込める。酔いやすい人には、思い出させるということが一番いけない。
「いやその、っつっかさー。それだよ」
 恥ずかしそうに笑って、ウルは頭をかいた。
「オレ知らないんだよね。ちゅーりっひって、どこにあんの?」
 アリスはあっけに取られたように瞳を丸くした。
 ウルは眩しいように、アリスを見ている。
 アリスは、頷いた。
「スイスに」
 愛する人へ、微笑みながら答える。
「お母さんのね、お墓があるの。ウルを見たらお母さんきっと喜ぶわ」
「そっか?」
「うん。だって私の大切な、新しい家族だもの」
 はにかみながらも言うと、ウルは少し驚いたような顔をした。
「…へへっ!」
 童心を頬いっぱいにのぼせて、弾けるように笑った。そのまま腕を伸ばして、アリスを抱きしめる。
「アリス、なぁアリス」
「なぁに?」
「ずっといっしょだぜ?俺たち」
 ひたとアリスを瞳にとらえて、ウルは言った。
 薔薇色の霞がアリスの頬に立ち昇る。
「…うん!」
 光の花のように、輝いて笑った。
 ウルも笑い、抱いた腕に力を込める。腕の中の幸せを、決して逃さぬようにして。
 どちらともなく、額に額をくっつけた。
 ぬくもりが流れ込む。熱が溶け合い、一つになる。
 生きていく。一緒に。
 未来。世界。明るいものではないかもしれない。
 それでもきっと、二人なら。
 閉じた瞼の裏。愛しい人との、夢を描く。




 白銀の車輪。陽光に眩しく煌いて、峡谷を縫い、駆け抜ける――