教会の周りの花畑を、ひらひらと蝶々が飛んでいく。
一本の樅の木にもたれていたウルは、赤い目を細めて大きくあくびをする。
木から離れたところに立っている教会へ目を向けた。白い壁、小さな尖塔。どこにでもある田舎の教会。そこへアリスが、旧知だという神父を尋ねに入っていってから、どれほどの時間が経っただろう。
アリスと共にチューリッヒへ向かう旅の途中に立ち寄った、小さな村だった。
この村の神父と、アリスの父であるエリオット神父が知己であったので、挨拶をしていきたいとアリスが言ったのだ。子どもの頃に父に連れられ、何度か訪れたことがあるらしい。
急ぐ旅ではなし、アリスがそう言うのなら、と、ウルは素直に頷いた。
ウルも一緒に、とアリスは言った。しかしウルはそれを拒んだ。ウルは神父が苦手だった。頭が堅く、説教好きで、話が長い。ウルは神父というものを、そういうふうに思っている。
ここで待ってるからさ、アリスちゃんだけ入ってきなよ。
言うが早いか、さっさと木にもたれた。ウルの性格をよく知っているアリスも、特に気にするでなく、一人で教会に入っていった。
そしてそれから、ウルはずっとここにいる。途中、礼拝にやってきたらしい村の小さな子どもたちが、よそもののウルを珍しそうにじろじろ見ながら教会へ入っていったが、それも大分前のことだ。
遅すぎる。
ウルは、指先で膝を叩いた。
いくら相手が昔の知り合いだとしても、少々長すぎるのではないだろうか?
何をしているのだろう?
痺れを切らし、ウルは立ち上がった。
素朴なレリーフが掛けられた、木製の扉を押し開く。
アリスは、いた。
祭壇の前で、先ほどウルが見た子どもたちに囲まれていた。何か古物語をしてやっているのか、か細い手には聖書を抱えている。
降り注ぐステンドグラスの光を受け、アリスの銀色の髪が七色に輝いていた。
我知らず、引き込まれるようにウルは一歩を進めていた。
アリスがどんな話をしているのか、聖書に関する素養の無いウルには分からない。 ただ、彼女を美しいと思った。天使のようだと。
「あ、ウル?」
鈴を転がしたようなアリスの声。いっせいに、子どもたちがウルを振り向く。
「えっ、あ…」
惚けたようにアリスを見つめていたウルは、今更のように現実に戻る。
「ごめんね、もうちょっと、待ってて」
すまなそうにアリスが言う。子どもたちのうちの一人が、アリスの袖を引っ張った。物語の続きを求めているのだろう。
「うん」
子どものように頷いて、おとなしくウルは外に出た。
教会を出たウルは、元いた木の下にもう一度腰を下ろした。
木漏れ日が揺れている。柔らかな光。
目を、閉じた。
世界が闇に包まれる。
目を開いていた時には聞こえてこなかった、様々な音が聞こえてくる。風の渡る音。木々のさざめき。羊たちが啼き交わす声。その羊を追っているのだろう、犬の吠え声。誰かが井戸を使う音。水の跳ねる音。女たちの笑い声。赤ん坊の、泣き声。
もう、「声」は聞こえない。否応なしに自分の中から聞こえてきた「声」。遥かイギリスから呼びかけてきていたクーデルカの声。導きの声。
今はもう、必要ない。
今、聞こえてくるのは。
「ウル」
細く、か弱い声。誰よりも愛しい者の声。ウルは目を開いた。アリスの、菫色の瞳と目が合った。
「ごめんね、待たせちゃったね」
アリスはウルの隣に腰掛ける。
「いや、いーよ」
微笑み、短くウルは言う。
「眠ってたの?」
アリスの言葉に、ウルは首を横に振った。
「いや…平和だなあって思ってさ…」
感じ入ったような瞳で、ウルは村の光景を眺める。
小さな家々、家畜小屋、教会、他には何も無いと言っていい、素朴な農村。
ロバに荷車を引かせていた農夫が、聖書を手に持ったままのアリスに軽く帽子を上げてくれる。子の手を引きつつ、夫へ弁当を届けに行くらしい女性も、同じようにアリスへ慎ましい会釈をしてくれる。
「俺たちが守ったんだよな」
ウルは呟く。
驕りではない。誇りだった。
自分たちは決して負けなかったというウル自身の誇りが、ウルにそうした思いを抱かせている。
「うん」
アリスは頷く。
「でも、みんなはそれを知らない。ただ、自分たちの生活を守って暮らしていくの」
そう、言った。
「ああ」
ウルも頷く。それでいいと、ウルも思う。
「そして、それが明日に続いていくの。未来になっていくの」
アリスは言う。ウルに、顔を向けた。
「ね?ウル?」
そう言って、微笑む。
「ああ」
この笑顔も、きっと未来へ続いている。
ウルは、アリスの手に手を重ねた。顔を、近づけていく。アリスは淡く頬を染め、そのまま瞳を閉じた。
唇を優しく重ねようとした時、ふと、ウルは視線を感じて、顔を向けた。
「あら」
目を開いたアリスが、ウルと同じ方向を向いて笑った。
教会の扉を開けて、子どもたちがウルとアリスを見つめてきていた。
ウルとアリスと近々結婚するということを神父から聞かされでもしたのだろうか。アリスを慕う目を見せる一方で、物珍しいものを見るような目でウルを眺めている。その、好奇心に満ちたまなざし。
ウルは顔を赤くし、アリスから手を離した。子どもたちの視線の中でアリスとキスをするなどと、そんな照れくさいことができるわけはなかった。
「なんだよ」
離れようとしない子どもたちにウルは呟き、続き、おもむろに立ち上がってみせた。
「なんだよ!おらぁ!ガキども!食っちまうぞ〜!!」
御伽噺の怪物のように両手を上げ、子どもたちのもとに飛び込んでいく。半ば腹いせのようにも見えた。子どもたちは、途端にきゃあっと歓声をあげ、ウルの腕から逃げ回った。
アリスは微笑み、立ち上がる。ウルの照れ隠しだということは分かっていた。そして、今はウルは、そんなことも忘れて子どもたちと走り回っている。子どもがそのまま大人になったようなウルは、童心に返るということもしない。本当に子どもと一緒になって、明るく、無邪気に駆け回っている。
走り回るその中から、ウルはアリスを見つめてきた。
笑みかけてくる。その悪戯っぽい赤い瞳は、アリスに向かってこっちへ来い、と言っている。
「わあっ、アリスおねえちゃん、たすけてー!」
両手を伸ばし、頬を笑顔ではちきれんばかりにさせながら、少女が駆けてくる。
アリスは笑って手を伸ばし、光の中へ駆け出した。
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