あなたのうえにあかるい光を アメリカ、グラスヒル・バレー、ワイラー家。 広いサン・ルームから、フレア・ローレンスは外を眺めていた。 小高い丘にあるこの屋敷からは、町のほぼ全景が見渡せる。 どこかメキシコの風土に近い、乾いた砂埃の目立つ町。住む人々の気性はラテンの色を強く映して濃く明るく、同時に、荒い。 そんな町も、今日だけはどこか静まって見えた。町にただ一つある教会に、人影がまばらに吸い込まれていくのが見える。 今日はクリスマス。主の生まれ賜うた、聖なる日。 年に一度訪れる穏やかな光景を、フレアは見つめるともなく見つめていた。 足音が立った。 「フレア」 ハスキーな女性の声がかかる。フレアは振り返った。 サン・ルームの入り口近くに、一人の女性が立っている。褐色の肌と漆黒の瞳。この屋敷の執事のような存在の、シンクレアだった。ワイラー家に古くから仕えている女性で、現当主のワイラーが長く伏せることになった今でも、こうして屋敷に留まっている。 そのシンクレアが途方に暮れた顔をしている。沈着な彼女には見ないような表情だった。 「どうかしたの?シンクレア。まさか、ワイラーに何か…」 「いや、違うよ」 困ったような眉をして、シンクレアは言葉を続ける。 「花だよ。花が届いた」 「花?」 フレアはシンクレアに向き直った。引き締まった彼女の手には、確かに小さな花籠が抱かれている。繊細な絹糸のチュールに包まれ、レースのリボンで飾られていた。 シンクレアはフレアに近づき、花籠を手渡した。 そのまま一歩、後ろに下がる。 「イタリア、ガルシア家…。フレア、ロバート・ガルシアからだよ」 「えっ…」 フレアは顔を上げる。シンクレアは、沈痛な面持ちでいるのを隠せないでいる。 町を荘重な空気が包んでいく。 祈りの時は近い。 冬の冴えた夜空に、星が詠うように煌いている。 イタリア、ガルシア家本宅。 ガルシア家では、御曹司の誕生日を祝う、ささやかなホーム・パーティが開かれていた。 「ロバート様?」 ロバートつきの執事、ロマーリオは、このパーティの主役が一人きりでバルコニーに立っているのを見出した。手すりにもたれ、空を見上げている。 「いかがなされました?」 近くに寄り、声をかける。生まれた時から彼が知っている黒髪の青年は、驚いたように後ろを振り返った。 「な、なんやロマーリオか。いや、別になんでもないけど…」 言いながら、汚れてもいないはずの袖口を払ったりしている。落ち着きの無いその仕草に、ロマーリオは主人の胸中を察した。自身の、使い込まれた腕時計を見やる。 「フレア様へのお届けものなら、そろそろ着いた頃でございましょう」 「そ、そうか」 彼の主人…ロバートは苦笑した。なんでもお見通しかと、言いたいように。そもそも、グラスヒル・バレーへ送るつもりの品物の、一切の手配をこのロマーリオに任せたためでもあるものの。 ロバートは再び手すりに戻り、空を見上げた。 「わいにはこのくらいのことしかできんさかい…」 どこか寂しげに、そう呟く。 主人の目線を追い、ロマーリオも空を見上げる。 薄雲が月に照らされ、淡い光を纏っている。 「クリスマス・ローズ…」 リボンを解いて、広がった花の姿にフレアは呟いた。 白く小さな、可憐な花が瑞々しく輝いている。 それは、中南米に咲くことが少ない花。 大西洋を隔てた大陸、特に地中海沿岸の国が故郷の…。 「ロバート」 フレアは声を上げた。一枚のカードが挟まっているのに気が付く。 そっと、手に取った。 純白のカードには、短い言葉が記されている。 彼女の黒髪の幼馴染の、手書きの母国語。 息を詰め、吸い寄せられるようにフレアはその字に目を通す。 「どうかあなたが、あなたのままにいられますように」 麓の町で、鐘が響いた。 白い鳥が羽ばたいていく。 「フレアには幸せでいてほしいねん」 おもむろにロバートはそう言った。が、すぐ慌てたようにロマーリオを振り向く。 「いや、変な意味とちゃうで。何があってもわいはユリちゃん一筋やし。ユリちゃんのことはわいが絶対に幸せにしてみせるて…」 「ロバート様」 いつもひたむきでいる主人に、ロマーリオは目を細めた。 「承知しておりますよ、そのようなことは何も申されずとも」 「あ、そうか?」 「はい」 「いやぁ、ははは…」 照れたようにロバートは頭をかく。飾らないその仕草は、幼い頃から少しも変わらない。ロマーリオは、微笑せずにはいられない。 「…そうやねん、フレアのコト」 ひとしきりしたあと、ロバートは言った。 「フレアは今、グラスヒル・バレーのワイラー家で暮らしてる。あの事件が終わった後で…」 あの事件。グラスヒル・バレーでの出来事。ロマーリオは姿勢を正す。 初めはただ、ロバートが、偶然にサウスタウンで再会した幼馴染のフレア・ローレンスを、彼女の目的地であるグラスヒル・バレーのワイラー家に送っていくだけの話だった。父同士が古い友人であった彼らの、久しぶりの再会だった。 フレアは、考古学者であった父の遺言で、とある研究資料をワイラーの元へ届けに行くのだという。 フレアの父が遺跡から発見し、ワイラーの父のビクトリアと共に研究を始めた古代植物の種子。その研究資料。 その資料はかつてフレアの父が、ビクトリアのもとから無断で持ち去ったものだった。娘のフレアは何も聞かされていなかったが、フレアの父は研究を進めるうちに、この植物が危険であることに気付き、ビクトリアに研究を中止するよう求めたのだという。それが聞き入れなかったため、フレアの父は強行手段に出たのだ。 結果として友を裏切ることになったことをフレアの父は終生後悔していたというが、彼はそこまでして研究を止めさせたかったのだ。一度は援助を求めた、ガルシア財団との契約までをも反故にして。当時のロマーリオは、それを聞かされた時に驚いたものだった。ロバートの父、ガルシア財団の総帥、アルバート・ガルシアは篤実な男で、例えビジネスとして成り立たないような話であっても、友の助けとなることに労を惜しまぬ性質であったから。 しかし、ガルシア財団との話を切った後、フレアの父は、すでに母を亡くしていた一人娘のフレアを連れ、世間やビクトリアばかりでなく、ガルシア家の前からも姿を消してしまった。アルバートは友の助けになりたくともなれない状態になってしまった。 友が去った後もビクトリアは、残っていた僅かなデータを元に単独で研究を続けた。病に倒れ道半ばで没したが、研究は息子のワイラーが受け継いだ。 そして、ワイラー親子が求めた研究は、父の遺言に従ってフレアがもたらした、フレアの父の研究資料によって完成された。植物から抽出される成分を凝縮させた、薬剤の試作品が完成したのだ。 それが悲劇を呼んだ。 父親の研究が正しかったことを自ら証明させるように、ワイラーはフレア、ロバートの目の前でそれを飲用した。 その薬。劇薬。肉体に著しい変化を起こさせ、猛獣のような身体能力を得る。 瞬時にワイラーは凶暴化し、ロバートに向かって襲い掛かった。言葉を聞き入れなくなったワイラーに、ロバートは、彼を鎮めるために極限流空手の拳を用い、ワイラーを制止した。 ワイラーの肉体から薬の効果は消え失せたが、その強すぎる作用は彼の脳に大きなダメージを与えた。精神退行を引き起こさせるまでの。 現在のワイラーは幼児並みの知能しか持たない。薬に破壊された精神で、幼い頃の記憶の箱庭に生きている。彼が最も幸福であった、父親と過ごした思い出の中で…。 フレアは、そんな彼と生きることを選んだ。もしもここでワイラーを見捨てれば、自分の父親がワイラーの父親に対して行ったことの繰り返しになってしまう、と。 ロバートは、フレアを止めなかった。 「ワイラーのそばにい続けること。それはフレアが決めたことや。わいからは何も言われへん。せやけど、フレアは一人やない。いつでもわいがそばにいるって知ってほしかったんや。あの時、フレアがわいにペンダントをくれたみたいに」 そう言ってロバートは首元を探り、ペンダントを引き出した。幼い頃、アメリカへ旅出つことが決まったロバートに、フレアがお互いを忘れることのないようにとプレゼントしてくれたものだった。慌しい新生活の中でやがて母国を意識することが少なくなっても、誠実なロバートは、それを決して離さなかった。 ロバートはペンダントを握り、遠くを見上げた。 「元気でいててほしい。どんな時でも…。泣きたいときに泣いて、笑いたいときに笑うて。そういうふうに、いててほしい」 「ロバート様…」 ロマーリオは呟くように言った。 「…あ」 また、そそっかしくロバートは振り向いた。 「いやその、勘違いしたらあかんでロマーリオ、ユリちゃんはユリちゃんやねんから。わいが幸せにしたいと思うんはユリちゃんただ一人…」 「ロバート様」 ロマーリオは微笑む。何も言わずに、何度も頷いた。分かっています、というように。ロバートもそれを見て、少年のように笑う。ロマーリオは目を糸のようにしながら頷いた。 「さあ、ロバート様。ここは冷えます。そろそろ中へお戻りください」 「そやな」 颯爽と、ロバートは屋敷へ戻ろうとする。軽やかなその姿は、普段のロバートのものだった。 「ロバート様」 ロマーリオは、通り過ぎようとする主人に呼びかけた。 「自分は一人ではないと思えることが、それが孤独に苦しんでいる時ほど、どれだけ人の力になることか分かりません」 ロバートは振り返る。 「ロバート様の気持ちは、きっと確かにフレア様に伝わっておりますよ。私もフレア様を存じ上げております。それに、今日という日は、誰もが幸せになっていい日なのですよ…」 ロバートは、ゆっくりと頷いた。ロマーリオの言葉を心に反芻させるように、暫し瞑目する。やがて瞳を、静かに開かせた。 「ありがとう…。ロマーリオ」 深い声でロバートは言い、ロマーリオに向かって頭を下げる。ロマーリオも一礼し、丁重に主人の礼を受け取った。 その眼前を、白いものが行き過ぎる。 「…あ」 ロバートは顔を上げた。ロマーリオも、空を見上げる。 「雪…」 白い風花。風の中、小さな光のように、はらはらと舞う。 フレアは部屋の扉を開いた。 窓のそばに据えられた天蓋付のベッドには、この屋敷の当主である青年が横たわっている。すでに昼過ぎではあったが、彼はまだ眠っているのだろう、掛け物は規則正しく上下している。 陽のよく当たる窓際に、フレアは携えてきた花籠を飾った。 異国の地で、花は凛と咲いている。 この小さな花が秘める言葉を、フレアは知っていた。 それは、慰め。あなたを癒したい。 「わたしはパパの夢に夢を見ていたの」 付き添ってきたシンクレアに、呟くようにフレアはそう言った。 「パパはずっと話していたわ、この研究は人類全体を幸せにするって。私もそれを信じていた。だから、ガルシア財団がパパとの契約を解消したのが信じられなかった。研究を買い取ってくれればパパは何も苦労しないで済むのにって、ガルシア財団のことを私は恨んでさえいた」 シンクレアは無言で、扉のそばに控えている。 「だけど本当は違ったの。パパの研究していたあの植物があんなにもひどいことを生み出すものだったなんて…。だからガルシア財団は手を出さなかったんだわ。パパも何も言わなかった…多分、本当のことを私に伝えるのが辛かったんだと思う。私は…何も知らなくて」 「…あの植物が」 シンクレアははじめて口を開いた。 「危険なものだということはワイラー家の研究でもほどなく知れていたんだよ。誰も相手になってくれない。けれどワイラーは、先代が亡くなられた後でも研究を続けたんだ。研究に生涯を捧げた父上への思い、父上が正しかったということを証明するために。ワイラーはやめるわけにはいかなかったんだよ。間違っているのは自分たちを認めなかった世間のほうだと、そう思い詰めてね…」 シンクレアの言葉に、フレアは頷いた。 「…分かるわ。わたしにはその気持ちがよく分かる。お父さんを信じる気持ち、そして、そのために人に恨みを持ってしまった彼の気持ち。よく分かるの。だから…、彼が一人で苦しむことはない」 フレアは、シンクレアを振り返った。 「ワイラーのそばにいるわ、いつまでも。彼が幻から解き放たれる日も。その後も」 静かに、微笑んでいる。 「ロバートも願ってくれているんだわ。どこにいても、どんな時でも私が自由でいられるようにって。大事な、私の友達…」 フレアは、言った。 「シンクレア。あなたは?あなたまで、ここにいることは…」 フレアの言葉に、シンクレアは首を横に振った。 「…はじめはね。そう思っていたよ。けれどね、ワイラー家の人間として働きながら、私はワイラーを止められなかった。ワイラーがこうなってしまった一因を、私も担っているんだよ。私はここにい続けるさ。…それにね」 にこりと笑う。 「全てが元に戻って、幸せになったあなたたちを見守るのも悪くはないんじゃないかって…私は、そう信じているんだよ」 鐘の音が深く響く。町の間に、祈りの音色が渡っていく。 部屋に、掛け物の触れ合う音が起こった。 フレアとシンクレアは同時に振り返った。 ワイラーが、目を開けている。 「ワイラー」 フレアは呟く。 ワイラーは暫く横になったままぼんやりと天蓋を眺めていたが、やがてゆっくりと首を巡らせ、澄み過ぎているほど透き通った緑の瞳で、フレアとシンクレアを視界に捉えた。 「……」 二人の女性が見守る中、ワイラーはむくりと半身を起こした。 にこりと、天使のように微笑む。 「おはよう、フレア、シンク」 フレアの、青い瞳が潤んだ。笑顔で頷く。 「…おはよう!」 雪が降る。 鐘が鳴る。 雪の降る中、ロバートも、ロマーリオも、胸の前で手を組み合わせる。 鐘の音の中、フレアはワイラーと笑みを交わし、シンクレアが胸の上で十字を切る。 彼らは祈った。 ただ、祈った。 家族の平穏を。 友人の安らぎを。 隣人への愛を。 違う場所で同じ祈りを天へ捧げる。 静かに、祈りが満ちていく。 merry christmas and happy new year. どうかあなたが自由で、そして幸せでありますよう──。 |