風を摶つ音──少女は外に出た。
そして、見た。
翼あるものの携えし、戦士の証の宝刀を。
風に儚くひるがえる、一すじの赤き布を。
それの持つ意味はすぐに分かった。
長老と祖母が泣き崩れる中、恐れながらも手をのべて…少女はそれを受け取った。そして耳に聞いたのだ。
光となった姉の声。
生命の全てを輝きとなし、世を浄化した巫女の声。
どうか
なつかしいその声はすでに遠い。
かなしまないで
いっしょに笑うことはできないけれど
わたしはいつでも風の中に
空の中の綺麗な…手の届かない、風の懐。
限りなく白い、北の大地。
青い額布を髪に巻いた少女が、白樺の木立を分け入っていく。
「シクルゥ、シクルゥー、どこー?」
幾度もその名を呼びながら、きらきらと光る小さな足跡を雪の上に残していく。
丸く大きな飴色の瞳、くっきりとした濃いまつげは、少女に流れる血のゆかりを教えている。草木で染め上げた衣の鮮やかな刺繍、腰の小刀に輝く彫刻は、そのまま彼女の誉れだった。
彼女はアイヌ。神とともに生きる民。
漆を塗り重ねたような艶やかな髪に、白いものが空から降った。こつんと冷たい、一粒の霰。
顔を上げて、空を見る。
鉛色の雲が鈍く光っている。また、吹雪が来る。
「シクルゥ、もうっ、わたし一人で帰っちゃうよ!」
そう、幼い声で呼びかけた。
ざっと、きららかな煙が立つ。
凍った雪をも打ち砕く爪、一匹の狼が立ち塞がる。
「シクルゥ」
金色の虹彩輝く恐ろしげな狼へ、怯えも見せずに少女は微笑む。狼は、恭しいように少女へ向かって頭を垂れた。
少女はひらりと軽やかに、当然のようにその背へ飛び乗る。狼が親しげに鼻を寄せてくる。少女は手を伸ばして、その喉を優しく撫で上げた。
「走って、シクルゥ」
一声、言った。少女と狼は長い友人だった。親しき者のその声に、牙あるものはすぐに大地を蹴り立てた。
果て無き雪原を、銀色の獣が疾駆する。
冬深き今、世界は一面、鏡を張ったようだった。
あの日から、月も何度満ちただろう。
身に宝刀を受け継いだ日から、少女は毎日大地を巡った。
重く澱んでいた大気がもとの清々しさを取り戻した日のことを、少女は生涯忘れない。
少女の姉は巫女だった。人と神との間をとりなす、稀有なちからを持った人。
禍つ神の災厄により傷ついた自然を癒すため、良き神に祈りと命を捧げ、魂の全てを光に変えた。
光は世界へゆきわたり、大地は命を吹き返した。
そのまま、姉は帰ってこない。神の寵愛深い姉は、美しいものに満ち溢れた、神の国へと導かれた。
人の身にはもうその笑顔を見ることはできない。言葉を交わすことも叶わない。
それでも、姉に後悔は無かっただろうと少女は思う。そして、自分は捨てられたとも思っていない。
姉は世界を愛していた。自然が傷ついていくのを誰よりも悲しんだ。
美しい世界を取り戻すことが姉の何よりの願いだったのだ。
姉の声を、少女は思い出す。
草木を巡る風の中に
私はいます
どうか
かなしまないで
姉は知っていた。全ての命は繋がっている。あらゆる命は、支えあって生きている。
風が吹く、花が咲く、木々が芽生える。生きとし生けるものたちの命の中、姉の心はそこにある。
そして、姉が守ったこの世界で、自分たちが出来ることは。
「コンル!」
高く呼ぶと、凍てつく大気がそばに宿った。氷の精が巫女に応えて、確かにそこに坐したのだ。
「おいでコンル、わたしとシクルゥとコタンまでかけっこだ!」
言うと同時に、疾風のように友が駆け出す。精霊が閃くその軌跡を、幾筋もの虹があとを追った。
いよいよ強まる白いつぶてが、少女の頬を打ちつける。しかし少女は怯まない。
風の声はそこにある。少女の耳に音と聞こえ、髪に、額に触れていく。
ねえさま、ねえさま見ていて。
心の中から呼びかける。
ねえさまがいないのは寂しいけれど。わたしたち、生きていくよ。
ねえさまの大好きだった大地を護って、ねえさまの歌を語り継いで。
だからきっとそこにいて、わたしたちを見守ってて。
わたし、きっとがんばるから…!
迫った丘を、狼は跳んだ。氷晶がきらめき舞い上がる。少女は風と手をつなぐ。
自然との絆を結べる彼女は、カムイコタンのナコルルの妹。
神より授かりし大地を守護する、気高きアイヌの巫女リムルル!
広い雪原、一陣の風が、世界のうちへと溶けていく。
雲を散らせて、太陽を呼ぶ。澄んだ空が顔を出す。
輝く空は豊かに広がり、明るい光を投げかける。
無垢な光が、大地に遍く恵みを与える。
一人の少女の、笑顔のように。
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