〜 花雪―hanayuki― 〜







「うわぁ……」
 ある寺の前で真田小次郎が思わず足を止めたのは、京のあちこちで咲く桜が七分咲きを迎えたある晴れた日のことだった。
(こんな所にこのような桜があったとはな)
 遠目からでもはっきり分かる程見事に咲く桜に、近くで見てみたいと思ってしまう。
「ちょっとだけならいいか」
 一目見ても人のいない古寺の門をくぐると、彼は境内の奥へと歩いていった。
 境内の奥で咲いていた桜の樹は彼が思っていたよりも大きく、よほどの年月が経っているように思えた。
「……?」
 その近くに人が一人立って桜を見ている。誰もいないだろうと思っていただけに彼は少し驚いたが、その後ろ姿には見覚えがあった。
(確かあれは……)
 一つに束ねた赤毛と鉄紺色の外套姿に一人の人物を思い出すと、彼は静かに桜の方へ歩き声をかけた。
「――先客がいたとはな、御名方守矢殿」
 名を呼ばれ、外套姿の青年―――守矢が振り向く。
「何の用だ」
「別に用などないさ、ただこの寺の前を通りかかったら見事な桜が見えたんで近くで見てみたくなっただけのことだよ」
 涼しげな表情を変えることなく訊ねる守矢に小次郎はさらっとそう返すと、ちょうどいい高さの段に腰をおろし改めて間近で見る桜を見上げた。
「京にこんなに見事な桜があったとはな……、屯所近くにも桜はあるが、これほどの桜はそうそう見ない」
「……だろうな」
「守矢殿も突っ立ってないで座ったらどうだ? 立って見るよりもいいと思うぞ」
「遠慮する」
「……相変わらずだな」
 守矢の返答に小次郎は苦笑すると、差していた刀を外して側に置き、時折はらはらと風に舞う花びらを眺めた。
「思い出すなー」
「何がだ?」
 訊ねる守矢に彼はどこか懐かしむような表情で桜を見上げるとこう答えた。
「故郷にあった桜。家の近くにあったのをよく三人で見に行ったっけ」
「三人、か……。――あの鷲塚とかいうのと二人で見には行かないのか」
「――――そういえば貴方には気付かれてたんでしたね」
 僅かな沈黙の後、先程までと違う穏やかな口調――「小次郎」としてではなく、本来の「香織」としての口調――になると、彼女ははめていた手甲を外し微苦笑を浮かべて言った。
「……お互い忙しい身ですから。――ところで、守矢殿には何か思い出でもないのですか?」
「さて……」
「全くないということはないでしょう」
 言われて桜の樹を見上げた瞬間、守矢の脳裏にある光景がよぎる。それはもう戻ることのない、遠い過去の記憶――――
「……いつだったかこのくらいの季節に桜を見た。師匠に連れられ、楓と雪と四人で」
「四人……」
(――ということは少なくとも五年は前……)
 じっと桜の樹を見つめたまま話し出す守矢の表情は先程とそう変わりなかった。少なくとも香織にはそう見えた。
「その時見た桜は満開で、今まで見たことがないくらい綺麗な桜だった。……何故だろうな、その時話した会話などは覚えてないのに、風で花びらがはらはらと舞い落ち続けているというのに花は尽きることを知らないかのように咲き誇っていた事と、もう一つ―――」
(「もう一つ」?)
 香織がはてと首を傾げていると、一息ついて守矢が続けた。
「『とても綺麗な桜』と言って、雪が人目につかないようまとっていた頭巾を取って笑顔で樹の下で嬉しそうにはしゃいでいた、……その時の笑顔だけは覚えている」
「よほど嬉しかったんでしょうね」
 立ち上がって樹の方へ歩み寄りながら香織はそう言うと、続けた。
「―――以前雪殿に言われたんですよ、『貴方が羨ましい』って。そして言ってました――『もしかすると私の事なんて、義理の妹くらいにしか思っていないんじゃないか』と」
「………」
「その時私は彼女にこう言いました。『守矢殿にとって貴方は何者にも代え難い存在でないのでしょうか』、と。……違いますか」
「――――」
 返事はなかったものの僅かに変わった表情から当たっていたのだろうと推測すると、香織は優しく微笑み「別に答えなくても構いませんよ」と言って守矢の方をくるりと振り向いた。
 瞬間――――――少し強い風が吹いてたくさんの花びらが雪のように舞う。
「!?」
(――――ゆ、雪!?)
 花吹雪の中振り返った香織の姿に雪の姿が重なって見え、守矢は眼を疑った。
(いや、そんな筈は―――)
「……守矢殿?」
 声をかけられてはっと我に返る。眼の前にいたのは雪ではなく香織だった。
「……幻、か……」
「?」
 小さな呟きに香織はきょとんとしていたが、やがて思い出したかのように置きっぱなしだった刀の所に戻ると手甲をはめて刀を差し直し、「小次郎」としての口調でこう言った。
「―――それでは拙者は用がある故、これで」
「……礼を言う」
 振り返り短く言った守矢に彼女は一瞬何の事か意味が分からなかったが、すぐに理解したらしく、「どういたしまして」と苦笑交じりの顔で言うと、足早にその場を後にした。 その華奢ともいえる後ろ姿を守矢はしばし見送っていたが、やがて彼も桜に背を向けて歩き出す。
 角を曲がる手前で守矢はくるっと桜の方を振り返った。先程の風の所為か、花びらはここに来た時よりも多く舞い落ち続けている。
 はらはらと雪のように舞う花吹雪の下―――そこに雪が立っていた。
「!」
 夢でも見ているのだろうか、そう彼が驚きの表情を見せていると、彼女はにっこりと優しく微笑み―――そしてすうっと消えていった。
「…………」
 風に運ばれて花びらが一枚外套の襟へと落ちる。それを気にもとめず守矢は桜の樹を見つめ呟いた。
「――ずっと忘れなかったのは、自分でも気付かぬうちに想っていたから、か……」
 それはつまり、自分にとって今も彼女が何者にも代え難い存在だから。
 そんな守矢の耳には、遠くで誰かが弾いているのか琵琶の音が響いていた。



<終>



風科空野さんのサイト「 『SWORD BLUE』」初来訪でキリ番を豪放にも踏みつけてしまった時に
さらに恥ずかしげもなく「雪の出てくる話を」とリクさせていただき押し戴いたお話です(笑)
穏やかな口調の中にも凛とした美しさが伺える香織どのはもとより、
口数少なく無愛想な守矢がかなり好みです……(悦)

儚く浮かんだ雪の笑顔は桜が見せた幻か、それとも守矢の記憶であるのか……
守矢の心の中でいつまでも雪が笑顔であることを願わずにはいられません。

風科さん、無遠慮な申し出にも関わらず(汗)
幻想的なお話をありがとうございました!!