〜 記憶野原 〜
<2>
たまには、酒も良い物だと知った。
束の間ではあるが、意図的に痛みを和らげてくれる。
忘れるわけではない。
逃げるわけではない。
酒に溺れることなど断じてない。
しかし今夜は安酒の所為もあってか、酷く酔った。
ぐるぐる回る世界は、酷く現実味を帯びていて、回っているのに地に足はしっかりついているような、そんな不快さを呼び起こす。
酔ったところで逃れられる筈がない。
酔ったところで忘れられる筈がない。
「ねぇ、兄さんを振った女、てどんな女だい?」
「別に振られたわけじゃない。
ただ、もう会うことが叶わない、てだけだ…」
酔っている所為か、いつもより饒舌になっている。
「会うことが叶わない、て…まさか」
「そのままの意味だ」
空になった椀の中に、酒を注いで口に運ぶ。
それを何度繰り返したか解らない。
あれだけ持ち帰った酒の大半が空になっている所を見ると、かなりの量を摂取しているのだろう。
「病気か何かかい?」
「…いや、強いて言うなら運命、だな」
そう、その言葉通り命を運んだのだ。
俺は失笑するしかない。
女はそんな俺を哀れむように見つめて、一度渡した筈の包みを返して寄越した。
「兄さん、やっぱりこれは受け取れないよぅ。
兄さんの大事な人に渡してやんな」
桔梗の簪は、包んであった和紙を破り、その姿を破り目から微かに覗かせていた。
渡してやりたくとも渡せないのだ。
突っ返された簪を何でもなく眺める。
「あたしなんかより、もっと相応しい場所があるだろう?」
女はそう言って、少し笑った。
俺は三度戻ってきた簪を眺めながら、これを受け取るはずだった妹を思い出した。
金色の髪に、この簪は映えるだろう。
その姿は容易に思い描けた。
「大事な人だったんだねぇ」
「…ああ」
女のしみじみとした言葉に頷いてから、俺は残った酒を煽った。
再び懐にしまわれた簪が、やけに熱く重く感じた。
そのまま酔い潰れて、板の間に倒れ込むように眠った。
申し訳程度の上掛けを羽織り、微睡んでいた。
夢現の中、不思議な、それでいて不快ではない音が耳をくすぐる。
重い瞼を億劫に開き、音の出所を確かめようと部屋を見渡すが、灯りの落ちた部屋は暗く、確かめようにも何も認識できない。
だからすぐに諦めて、俺は重い瞼を閉じた。
再び意識が戻ってくる。
あれから、ぐっすりと眠ったことなどない。
浅い眠りを何度となく繰り返し、夢を彷徨い、現実に微睡むのだ。
意識が戻ってくると、まだあの音が鳴っていることに気がついた。
辺りは、大分陽が昇ってきたのか差し込む光で随分と見晴らしが効くようになっている。
訪れた時にも散らかっていたが、今では更に空いた酒瓶で散らかり放題の荒れた板間や、あどけない顔で寝息を立てている女の顔も認識できた。
潮の音のような、稲穂が揺れるような、それでいてもっと軽く、もっと儚く、心の琴線に触れるような、そんな音。
それがずっと絶え間なく、聞こえている。
音の出どころを確かめるために、上体を起こし部屋を見渡すけれど、それは解らなかった。
外の音なのだろうと立ち上がり、玄関を少し開けて外の様子を伺うけれど、早朝の冷たい空気が流れ込むばかりで、人通りのない寂れた道は何も教えてくれなかった。
家の裏手かもしれないと見当を付け、俺は女を起こさぬように気を付けながらそっと外に出た。
気になる音と、陽と共に起きる鳥の声以外にはなんの物音もしない朝。長屋の住人達はまだ皆寝ているようで、気配はない。
俺は出来るだけ音を立てないように家の裏手に回ると、そこで息を呑んだ。
そこは一面、金色の世界だった。
……雪
その色は妹の髪を彷彿させた。
昇ってきたばかりの陽の光を反射して輝く、黄金色の薄の穂は風にさやさやと靡きながら、心地よい音を立てていた。
音の正体はこれだったのだ。
「…雪」
一番手近な穂に触れて、名前を呼ぶ。
なんとも頼りない感触が、掌の上に伝わる。
『兄さん、兄さん、姉さんがいなくなっちゃった』
字の練習をしていた自分の元に、楓が泣きはらしながら駆け寄ってくる。履物を脱ぐのも億劫らしく、そのまま俺の着物の袖に涙や鼻水をすりつけて、わんわん泣く。
俺は楓の足から草履を脱がしてやりながら、事情を問うた。
楓は泣いているため聞き取りにくい声と、支離滅裂な表現で事情を説明した。
要約してみると、雪と隠れんぼをしていたが一向に雪が見つからないらしい。そのうち怖くなって、駆け戻ってきたようだった。
俺は楓をなんとか宥めて、『雪を見つけてくる』と約束した。
そして楓達が隠れんぼしていた場所を聞き出すと、その場所にむかった。
そこは山の中の一角で、野原と薄野が茂った何時もの遊び場だった。
俺は雪の名を呼びながら、胸元まで生い茂った草を掻き分けて探した。
確かにこれだけ草が伸びてしまえば、隠れんぼはしやすいだろう。
また逆に、見つけにくいだろう。
何度も名前を呼ぶが、返ってこない返事と、だんだんと傾いてくる陽に焦り出した。
たかが隠れんぼと甘く見ていたかもしれない。
もしかすると本当にいなくなってしまったのではないだろうか。
不安に急かされて、だんだんと乱暴に野を掻き分けて、叫ぶように名を呼び続けた。
気がつくと、葉で手を切ったらしく血が滲んでいる。
しかしそれも気にならなかった。
何度も名前を呼んで、駆けるように草を突っ切る。
そしてやっと、妹の姿を見つけた。
薄野の中で、金色の穂に溶け込むようにして妹は眠っていた。
楓がなかなか見つけられなかった所為だろう。
隠れている間に眠くなってしまったのだろう。
あどけなく眠っているその寝顔に、焦りや不安や怒りみたいなものは一瞬で昇華して、俺は自然と微笑んでいた。
自分の髪の色とよく似た、薄に抱かれることで本当の父母に抱かれているような気分になったのかも知れない。
その安心しきった寝顔を眺めながら、そんなことも考えた。
『雪、起きろ』
身体を揺すると、確かに暖かい体温が感じられて、更に俺は安心した。何度か揺すると、とろんと溶けた青い瞳が瞼の隙から覗いて、俺を写した。
そして雪は、にっこりと笑った。
幼年期の思い出に取りつかれるように、俺は薄野を駆けた。
口の中で何度も何度も妹の名を呼ぶ。
この薄野のどこかに、隠れ疲れた妹が抱かれている。
そんな馬鹿げた妄信を、それでも信じようとして駆けた。
駆けて 駆けて 駆けて、そして立ち止まった。
いるはずがないのだ。
そんなことは解っている。
解っているのだ。
朝日は大分上りきり、その光は薄野を金色から煤けた色へと暴いていこうとしていた。
力なく、薄野の中で立ち止まり、息をついた。
知らずに、失笑が浮かぶ。
そして、ふ、と懐の中に仕舞込んでいた簪のことを思い出した。
女は言った。
『もっと相応しい場所があるんじゃないか?』と。
一面の薄野を見渡して、その何処までも続く金色を目に納めて、俺はその、雪の髪の色のような黄金をただ放心したように眺めて、そして決心した。
ここは、きっと相応しい場所だろう。
俺は懐に入れたままの簪を取り出すと、それを薄野の真ん中へと放り投げた。包みは放物線を描いて直ぐに見えなくなる。
すぐにそれは、薄野に抱かれて視界から消えた。
薄野が風に揺れるさわさわという音にかき消されて、簪が落ちた音は聞こえなかった。
俺はもう一度妹の名を呼ぶと、瞳を閉じた。
瞼裏に、あの簪を付けて微笑む妹の姿を想い描きながら。
あの、幼い日のように、実父母と同じ、そして自分と同じ黄金色に抱かれながら、微笑んだ妹の姿を想い描きながら。
「もっとゆっくりしていけばいいのに」
女の誘いを断って、昼になる前に暇した。
目的がある旅ではない。
急ぐ旅でもない。
ただ宛てもなくふらふらと、気儘に歩き続ける。
歩き続けていれば、いつか道の果てに何らかの答えが見出せるかもしれないと、それだけを思って立ち止まることを許さない旅を続けるのだ。
帰る場所はない。
築く場所もない。
待つ者もない。
しかしそれでも、刻むものはある。
刻んだものもある。
だから俺は歩き続けるのだ。
耳の奥に、薄野の揺れる音が聞こえた。
<終>
「こないだ月華の夢を見たよ。できたら小説にしてご披露するよ」
そうかめさんが言ってくれたのは2004年9月19日月華オンリー当日のこと。
スタッフとしてお手伝いしてもらってました。
とても責任感のある方で、普段は別ゲームで活動されているのですけど
その日近くは頭が月華に侵食されていたそうです(笑)
なんでも夢を見るときはストーリー仕立で見ることが多いのですって。
だからってなんて切ない内容のを!!
悲しい、悲しいけれど、とても綺麗な夢をこちらも見せてもらった心持ちです。
アラーさん、本当にありがとうございました!
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