あの上級生の草薙京は、手から炎を出すことができる。
通学する高校にとみに流れるそんな噂をユキは聞いてはいたものの、だからといって確かめたいと思ったことはなく。
当の本人も見せてこないし構わないと思っていた、そうした、恋の途上だった。
白い雲が光っている。
明るい、昼下がりだった。
陽光が新緑の上で鮮やかに弾けていた。街路樹の緑が眩しい通りを、多くの人々が行き合っている。
爽やかな初夏の午後の時間、待ち合わせに使っているファーストフード店で、学校帰りの草薙京はストローを齧っていた。
均整の取れた長身を窓側の席に収めさせ、雑誌を開いている。端正な顔立ちをしているが、手にしているものの中身は、その水際立った風貌からは、やや想像しがたいものだった。
だが京は、当たり前のように格闘技系の雑誌を読んでいる。
「…」
額にかかる前髪を払う。特に周りを憚るでもなく、見開きのページを眺めていた。
記事写真には、リングの中央でスポットライトを浴び、ガッツポーズを取っている金髪の男が写っている。彼の腕には優勝トロフィーが輝いていた。
紅丸のやつ、相変わらずハデにやってるな…。
口元に小さく笑みが浮かぶ。紅丸という名のこの男は、京と知人の間柄にあった。知人というよりは戦友と呼んだほうが近いのかもしれない。紅丸はシューティングという格闘スタイルを持っている。そして、この京もまた、自らの家系に伝わる、古代の武術を習得している。腕には相当な自負があり、この紅丸とも手合わせをした経験があった。
まぁ、紅丸なら優勝して当たり前か…大門はどうしてっかな?
連想するように、もう一人の戦友も思い出す。
二階堂紅丸と、大門五郎。
彼らとチームを組んで、京は、昨年、一昨年と、「The King Of Fighters」という格闘大会に参加し、連続優勝を果したことがある。通称KOFと呼ばれる3on3のチーム制のその大会は、毎年夏に世界規模で開催される。世界中から選りすぐりの強豪たちが参加する、過酷な大会だった。そのKOFで優勝を攫った京たちは、間違いなく世界指折りの実力者たちと呼ばれていい。
紅丸もきっと、誌面の大会でも十分に実力を発揮したのだろう。写真も記事も、歴戦の勇者の華麗な英姿を、余すことなく伝えている。
待ち合わせの時間潰しに買った雑誌ではあったが、仲間が活躍する姿を見るのは、友人として素直に嬉しかった。
前回のKOFから、半年以上が過ぎようとしている。彼らとはそれきり顔を合わせていなかった。
あのイカレた主催者はおっちんじまったし、今年もKOFがあるかどうか分かんねえ。あいつらと久々に連絡取ってみっかな…?
そんなことを思いながら、何気なく窓の外に目を向けた。
そろそろ帰宅時間も近い。通りに人が増えかけてきていた。穏やかな平日、日本の、日常そのものという風景だ。
今、京の手のひらの中で広がっている世界とは、全く異質なものだった。京は思わず、木々の向こうの空を見上げた。青空の遠くを見つめるような目を、した。
ふと、一人の少女を思い浮かべた。京が待っている少女の顔、彼女の生まれつき明るい茶色の髪や、色の白い顔を思った。
それで現実に引き戻されたように、京は店内に掛かった時計を見た。店に入ってから、大分時間が過ぎていた。少女はまだ来なかった。彼女の所属する陸上部の活動が終わってからだから、現れるのはもう暫くになるだろうか。京は何も学校の課外活動に所属していないので、いつも暇を持て余す。
ハイレベルな格闘家としての顔を持つ京も、その日常にあってはただの一人の男子高校生だった。留年して、やや、年齢にとうが立っているとしても。
無聊のままにぼうとしていた京だったが、不意に、通りに面した右頬に、人の視線を感じた。
京は窓の外に顔を向けた。人通りは変わらず足繁い。そんな中で、セーラー服の少女が二人、街路樹から、遠巻きに京を眺めてきている。
なんだ、あいつら?
京の通う高校の制服だった。少女たちは明らかに京を見やりながら、お互いの顔を見合わせて何か話をしている。時々、笑っているようだった。
あまり人を気にしない京でも、こうあからさまだと流石に意識せずにはいられない。待ち人がなかなか現れない苛々もある。短気な京は、きっと、少女たちをきつく睨んだ。
鋭いその目に驚いて、少女たちは目に見えて身を竦ませた。水でもかけられたように、そそくさとその場を去っていく。少女たちが消えたあと、京は何事も無かったように雑誌に目を戻した。
それから、気付いた。
…あいつら、ユキの友達だっけ?
顔を上げるが、その時にはもう二人の姿は消えている。確かに、京が今訪れを待っている少女、ユキの友人たちだったように思う。学校でユキとすれ違ったりするとき、軽く手を振ったりして彼女と挨拶をし合ったりすると、珍しいものを見るような目で京の姿を追ってくる。
悪ぃことしちまったなぁ。
少女たちにではなく、ユキに対してそう思った。
学校内で何かと己が目立つ存在であるらしいということは、京もうすうす感じている。
一年、学校を留年していることもあるだろうが、その他に、京が格闘技をやっていることも噂になっているようだった。どこの高校にも一人はいる格闘好きが流した話か、校舎にいる時、特に休み時間等には、京は先ほどのような不躾な視線を感じることが多い。
どこの雀がさえずろうが京には知ったことではないのだが、ユキのことは、気になった。何かと噂の絶えない自分と一緒にいては、彼女までが、おかしな目で見られるようになりはしないか、と。睨みつけられたあの少女たちは、京のことをどう思ったろう。
やや意識過剰な部分もあるのだが、それというのも、留年や格闘家というだけでなく、輪をかけて京の存在を異様たらしめていることがあるからだった。京のみが成せる、とある一つのことがある。それは京の家、血筋に深く関わっていることだった。
もしかしたらそのことも噂となり、ユキも聞いていることなのかもしれない。そしてそれは噂などではなく、真実であるのだからユキにも聞かせるべきなのだが、京はそれを、はっきりとユキに話したことはなかった。
勇気が出ないのだった。何しろそれは、とても普通のことではない。異端視されて当然なような現象だ。KOFの戦友、紅丸や大門は平然として受け入れてくれているが、ユキもそうだとは限らない。もしかすると自分を恐れ、或いは奇異だと気味悪がって、離れていってしまうかもしれない。
それを京は恐れている。今までにも何度か、ユキに話そうと思ったのだが、拒絶されてしまったときの恐怖を思うと、京は、己でも情けないと思うほど、踏み込むことができないのだ。あの笑顔が二度と見られないようになってしまうなどと、京は、想像するだけで背筋が凍るように思えてしまう。
それを隠したままユキと接していくことも、ひょっとしたらできるかもしれない。だが、京にとってそのことは、物心ついたときから京と一体になっている。文字通り、京の体の一部だった。黙っているのは欺いているようで嫌だった。
だからいつかは、彼女に話さなければならない。
いつか…いつとは、いつだ?
思考は堂々巡りとなる。今まで幾度繰り返したか分からない。瞳は宙に向かっていく。
はた、京は意識して、雑誌に向かって目を戻した。
もうすぐ彼女がやってくる。余計なことは考えないことにしよう。
そう思っても、記事を目で追っても、文章の意味が頭に入ってこないことに、京は確かに、気付いている。
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