下校時刻も近づき、クラブ活動に打ち込んでいた生徒たちも、徐々に運動場を後にしていった。 
 部室のロッカーで、ユキは手早く着替えを済ませた。 
 時計を見てから、やや慌てた様子で学生鞄を腕に抱える。 
 遅くなっちゃった。京はまだ待ってるかな? 
 外はまだ明るかった。春が過ぎ、夏を迎え始めたこの季節、日は一日ごとに長くなっていく。それがユキには有難かった。京といられる時間が、少しでも長くなるからだ。 
 やや早歩きに、部室を出て行こうとする。 
 着替えを終えてもまだおしゃべりを続けていた、三年生の先輩たちに挨拶をしてすれ違おうとした時、 
「あ、ユキちゃん今日も草薙君に会うの?」 
 唐突なその問いに、ユキは危うく、ロッカーの角に頭をぶつけそうになった。 
「はぁ?」 
 思わず聞き返すと、構えていたかのようにたちまち周りを取り囲まれた。ユキは目を白黒させる。 
「違った?結構噂になってるよ?放課後、クラスのあの草薙君が、ユキちゃんと一緒にいるのをよく見るって」 
「そうそう、授業出てない日にもだって?それまで草薙君がどこにいるのか知らないけどね」 
「っていうか、ユキちゃんと会うのがあの人の授業だったりして」 
「あるかもー」 
 どっと、笑い出す。勝手気ままに喋り立てる先輩たちを、ユキはこわごわ見回した。 
「あ、あの…噂って?」 
「え、知らないの?仲良くしてるって結構聞くよ、ユキちゃんと草薙君。草薙君よく目立つからね。クラスでも有名よ」 
「うん、いろいろさぁ、噂あるよねー。家が超大きな古い家だとか、何か格闘技やってるとか」 
「ヤバい友達もいっぱいいるって」 
「ユキちゃんよく付き合えるよね」 
「付き合ってるなんて、そんな」 
「でも会ってるんでしょ?しょっちゅう」 
「そうですけど」 
「ほら、やっぱりそうなんじゃないー」 
 的を得たようにまた笑う。 
「一度ユキちゃんに聞いてみたかったのよ、ねえねえ、そういう噂ってホントなの?」 
 好奇に目をきらきらとさせている先輩たちに、ユキは困った顔をした。 
「いえ、そんな、よく知りませんし…」 
 曖昧に答える。また、本当にそうとしか言えなかったのだ。京との会話で、そうしたことが話題が上ったことはなかった。そんなことより、話したいことは山のようにあったからだ。 
「知らないって、なんで?一緒にいるんだったらそういう話とかしない?」 
「どんな話してるの、いつも?」 
「普通ですよ、映画や音楽の話とか、授業のこととか」 
「何それー、つまんないなぁ」 
「つまらないって、先輩あのですね」 
「あ、そうそう、これ一番聞きたかったの!」 
 一人が手を挙げ、勢いよく尋ねてくる。 
「草薙君って手から炎が出せるとか聞いたことあるんだけど見たことある?それってホントなの?」 
「え」 
 草薙京は手から炎を出すことができる。 
 それは、ユキも聞いたことのある話だった。草薙京という名は、上級生の間でもそのようであるが、下級生の間でもよく知られている。友人たちも取り上げるせいで、その噂は、ユキのもとにも届いていた。 
 が、 
「いいえ、そんなの、ありません」 
 ユキは正直に答えた。それは京に関わりある噂で最もよく聞くものだったが、その話題に京自身が触れてきたことは一度も無かったし、実際にそんなことをしている姿も見たことがない。ユキ自身も、京が話してこないのならそれでいいと思っていた。深く考えたことはない。 
「ないの?なんだぁ」 
 先輩は大げさにがっくりする。その姿を見て、ユキはふと思ったことを口にした。 
「先輩、先輩と同じクラスでしたら本人さんに聞けばいいのに」 
「それができたらわざわざユキちゃんに聞いたりしないわよ」 
「あの人、なんだか怖いもの」 
「うんうん、何か目がヤバい。私らの知らない世界を見てるカンジ?」 
 思わずユキは笑ってしまった。 
「言い過ぎですよ。そんなことないです、あの人、普通の人なのに」 
「フツー?ほんとに?」 
「はい」 
 凛として答える。きっぱりと答える後輩に、上級生たちは顔を見合わせた。清冽なユキの態度に、意表を突かれた様子だった。 
「…そうよねぇ、やっぱり好きな人だもんね、庇っちゃうわよねぇ」 
 一人が、分かったような顔をしてうんうんと頷いた。 
「えっ…?!そっ……先輩っ!?」 
 ユキは拳を振り上げ、打つ真似をした。 
「ごめんごめん、あたしらもちょっと聞いてみたかっただけなのよ。気、悪くしないで」 
 その細い手をいなしながら、先輩たちはころころと笑う。 
「ねえねえねえ、でもユキちゃん」 
「はい?」 
「ユキちゃんいつもはおとなしいのに、草薙君のことになったら強くなるのね?」 
「ほんとに好きなのねぇ」 
 ユキの動きが止まった。 
 と思うと、みるみる、ユキの頬から額にまで、赤みが昇っていく。 
「先輩ーっ!」 
 悲鳴のように叫ぶ。 
「やだー、ユキちゃん顔まっかっかー」 
 ひとしきり、部室は気ままな笑いに包まれた。 
 
 
  
 遠くからチャイムの音が聞こえてくる。 
 ローファーの靴を高く鳴らせて、ユキは下校を急いでいた。 
 頬が熱い。しかしそれは、自分が急いでいるからだと、ユキは己に言い訳する。 
 先輩、あんなふうに言わなくても。 
 先ほどの会話を思い出している。先輩たちの語った噂話、そして、京のことを。 
 京にまつわる噂、それはユキも聞いたことがある。京と一緒にいることが多くなった頃、ユキは友人たちからそういう噂を聞かされることが多かった。 
 何でも草薙京という人は、大昔から伝わる不思議な武術の伝承者で、手から炎を出すことができるらしい。そのうえひどい乱暴者で、物騒な友人もごろごろいる。寄れば触れば、何をされるか分からない。 
 まるで不良か問題児、もしくはそれ以上の人間のように言う。京を知っているユキからすれば、突拍子も無い話だった。 
 友人たちは、ただ、ユキのことが心配だったのだろう。近づかないでいたらと言われたことさえあった。しかし、ユキはそれらをいつも、柔らかに笑って否定した。 
 そんなことはない、と、思っている。 
 京は決して、噂に言われるような人間ではない。確かに少々無愛想でぶっきらぼうで、積極的に人とのつながりを持とうとしない間口の狭い性格は、人からの誤解を受けやすいものだろう。だが、ユキといる時に京が見せる、人なつこい笑顔や清々しい笑い声を聞けば、そんな噂が嘘であることはすぐ知れる。 
 彼は面白いことがあればよく笑うし、頭にくればすぐ顔に出す。気が向いた時に自分勝手な我が侭を言い出す子どものような部分があるにはあるが、彼は決して、悪い人間ではないのだ。少なくともユキにはそう見える。 
 炎を出せるという話も信じられなかった。きっと、取るに足らない小さな話に途方もないような尾ひれがついて、そんな無茶なような話になってしまっているのだろう。気にするようなことではない。 
 そうした態度を最初から貫いてきたユキを、最近は友人たちも分かってくれたようで、京のことは噂の中の虚像の人間としてではなく、ユキと仲の良い先輩として理解してくれている。むしろ近頃は、真面目なユキをからかうためか、どこそこで京の姿を見ただの何をしていただの、報告めいて話してくれることが多く、そのたびにユキは、親切な友人たちに困って赤面してしまうことが多かったのだった。 
 そう、ユキは京と、仲が良い。ふとしたときにふとしたことで、会いたいと思う。京の声、京の笑顔。いつだってそばにいたいと思う。 
 彼のことが好きだから。 
(…あっ) 
 ユキは立ち止まった。 
 もう一度、胸の内に繰り返す。 
 京が好きだ。 
「…」 
 部室で先輩に言われた言葉が、甦る。 
『やっぱり好きな人は庇いたくなるわよねぇ』 
 立ち尽くす。 
 京が好きだ。 
 今まで、一度としてそういう言葉にして考えたことはなかった。 
 京のことはあくまで、どこまでも気の合う人というふうに思っていたのだ。 
 話をしているとどこまでも楽しくなれる。一緒にいたいと思う。離れていても気が付けば京のことを思っているし、何か興味の引くものを見つけたとき、京にも見せたいと思ってしまう。 
 ユキの頬がぽうと染まる。それは他でもない、京のことが、好き、だからではないか。 
 今まで思いもしなかった。だが、京に対してだけ抱く気持ちを、自分は確かに持っている。とても単純な…けれど、大切な、思い。 
 空の色が変わっている。 
 京を待たせていることも忘れて、ユキは暫く、その場から動けなかった。 
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