05 「背中」



 燕がひらりと、弧を描いた。
 初夏を過ぎ、梅雨を迎えた季節の空は、じっとりと、重い。
 だが、その空の下、駅近くの通りを歩く京とユキの足取りは軽やかだった。
 何か目的に向かっている訳ではない。ただ一緒にでいるだけで、どこまでも幸せなのだ。
 京が、己の操る炎をユキに見せてから、暫くが過ぎた。
 あれから二人は何事も無かったかのように、ともすれば以前よりも親密さを増したように、こうした時を過ごしている。
 駅前の人ごみを縫うようにして歩いていた二人は、揃って、通りに面したショーウィンドウの前で足を止めた。
 夏の模様に様変わりした、鮮やかな青空と白雲のディスプレイに、京は今更のように呟いた。
「もう夏なんだな」
 ユキは頷く。
「そうね。今年も暑くなるのかな」
「そうだな…」
 何気なく広いガラス板を眺めていた京だったが、その四角形の鏡像の中に、金髪の男が現れたのに気がついた。
 後ろを振り返る。
「よっ」
 その男は知った様子で、京に向かって手を上げた。ユキも振り向く。
「…紅丸、紅丸じゃねえか?」
 やや驚いたように京は言った。
 紅丸と呼ばれたその男は、白い歯を見せてにっと笑う。
 京に負けないほどの長身、金色の滝のような髪は長く美しく、抜けるほど色白な肌の中で、薄茶の瞳が、人なつっこく笑っていた。
「久しぶりだな京、元気だったか?」
 紅丸はそう言って、京に軽く拳を突き出した。
「当たり前だろ、そう言うてめーこそ派手にやってるみたいじゃねえか。見たぜ、雑誌に載ってんのを?」
 口をききながら京は紅丸の拳をいなし、同じく、彼に向かって拳を向ける。
「ハハッ、あんな大会、俺様にとっちゃ数のうちにも入らねえよ」
 格闘家同士の挨拶を、ユキはきょとんとして見つめていた。
 気付いた京は、ユキを振り向く。
「ああユキ、こいつさ紅丸ってんだ、俺の格闘仲間」
「格闘仲間…?」
「はじめましてユキちゃん、俺、二階堂紅丸っていうんだ、よろしくね。今まで京と何度かチームを組んで、格闘大会に出場したことがあるんだよ」
「大会…」
「君のことは京から何度か聞いたことがあったよ、でもオドロキだね、ハナシに聞いてたよりずっと可愛い!どうだい、そこの店で俺とちょっとのんびりお茶でもしよう…」
 女性に対して屈託が無さ過ぎる、というところがこの友人の愛嬌であり、欠点でもある。己の目の前でも気安くユキに話しかける紅丸に、思わず京は友人の頭を、力加減も忘れてはたいた。
「痛ぇ!フツーいきなり叩くかよ?!」
「てめえがふざけるからだろうが!ったく、そのクセどうにかしやがれ!おい紅丸、久々なのはいいんだけどよ、一体何しに来やがったんだ?」
 久闊の喜びも吹き飛ばし、本気になって怒る京に、紅丸はぐらぐらと頭を振ってみせた。
「おいおいご挨拶だな、今日はでっかいニュースをお前に持ってきてやったんだよ。さっきお前ん家に寄ったんだけど、まだ学校から帰ってきてねえって言うし、時間潰しにここらをブラブラしてたんだが…まぁ、会えて良かったぜ」
「でかいニュース?」
 訝しげに京は尋ねる。
「ああ。あー…」
 僅かに表情を硬くさせた紅丸は、京のそばにいるユキを憚るように、ちらと、彼女を見やった。それは一瞬のことだったが、
「京、私、ちょっとそこのお店見てくるね」
 ユキは、ひらりとセーラー服を翻した。
「ああ、そうか?」
 そう言って京が振り返った時、ユキの姿はすでに雑貨屋の窓の中に収まっている。
 紅丸は軽く口笛を吹いた。
「驚いた、可愛いだけじゃなくて本当にいい子じゃん」
「まぁな」
「こいつ」
 悪びれもせず、むしろ誇るような京に紅丸は軽いローキックを放った。
「で?紅丸、わざわざ何の用だよ」
 改めて尋ねた京の言葉に、紅丸はふいに真顔になり、声を潜めるようにして言った。
「KOFのことだよ」
「KOF…」
 その単語を聞いた瞬間、京の顔が曇った。
「…今年もあるってのか?」
「噂じゃな。また夏にだってよ」
「へぇ。また空母にまで呼び込んでおいて勝手に自爆しやがる、なんてことにならねえといいがな」
「そりゃあ勘弁してもらいたいね。しかし、今度は一般企業も呼び込んだ開催らしいぜ」
「へぇ…?」
「今までとは全くカラーが違う。安心していいだろう」
「なら、いいがな」
「それで、出るだろう?今日はその確認に来たんだよ」
「お前も大概暇人だな、答えなんざ確かめるまでもねえよ。俺は出るぜ。大門の奴もそうだろう?」
「ああ、ゴローちゃんからは勿論二つ返事でOKを貰ってる。日本チーム、再々結成ってやつさ」
「準備万端か…へへっ…燃えてきたぜ!」
 嬉々として京は拳を掌に打ち合わす。ふと、紅丸は京の肩ごしに雑貨屋を見やる。
「それで、あの子はどうすんだ?」
 はら、と京の指から力が抜けた。後ろを振り返る。ユキは店内で、カントリー風の小さな雑貨などを手に取っている。どこか視線が落ち着いていない。寂しげな雰囲気である。
「…」
 京は黙った。京はユキに草薙の炎のことを語りはしたが、KOFについては、一度も話したことがない。KOFは、今年もそうなようだが、毎回真夏に行われる。期間中、選手たちは世界中に設置された会場を移動し、それこそ世界のあちらこちらを飛び回ることになる。大会中は、勿論、会うことができない。
 顔色の変わった京を見て、紅丸は、
「きちんと説明してやれよ。女はそういうの根に持つぜぇ」
 訳知り顔で、京の肩を叩く。
「じゃ、俺はこれで。また連絡するぜ」
 言い残し、紅丸は飄々と雑踏の波へと紛れていく。去り際、顔を上げたユキに、軽くウィンクを送るのも、忘れずに。
 紅丸が去った後も、京は暫く立ち尽くしていた。
 そんな京のもとに、雑貨屋を出たユキが小走りでやってくる。
「もういいの?」
「ああ」
 短く、京は答えた。駅に向かって歩き出す。ユキもその後をついて歩いた。
 二人の前を、燕が低く横切った。京は頭上を見た。暗く、そして薄光りした空だった。もうすぐ雨が降るのだろう。
 だが、憂鬱そのものの空の色も、京の目には入ってはいない。
 KOFが開催される。
 黒い瞳が輝いている。
 真夏に開催されるKOF。世界中から集まってくる、ハイレベルの格闘家たち。
 強者を相手に己の拳を存分に発揮することができるのだ。高みを目指し、全力で闘う興奮を思うだけで、京は体中の血が熱くなってくる。
 湧き上がってくる高揚感に、我知れず笑みを浮かべそうになった時、いきなり、後ろから服を引っ張られた。
「?」
 振り返ってみると、ユキが京の学生服の裾をつまんでいる。
「おい、いきなり何すんだよ」
 咎めるように言ったが、ユキはすぐには手を離さなかった。
「おい?」
 促すように京が再び声をかけると、やっとそれで、ユキは離れた。
「ごめんなさい」
「ったく…よく分かんねえことすんじゃねえよ」
 言いながら、京は内心、冷水を浴びせられたようになった。鋭いユキは、自分の態度の変化を、感じ取ったのかもしれない。
『女はそういうの根に持つぜぇ』
 親友の言葉がふいに甦る。
 確かに紅丸が言った通り、KOFに参加するなら、彼女に説明しなければならないだろう。夏中会えないということ、京がKOFに参加する理由、それらをきちんと理解して貰わなければならない。
 しかし、京はふるふると頭を振った。
 炎を見せても驚かなかったユキだ、そのへんの女とは出来が違う。話せばきっと分かってくれるはずだ。少し夏に会えないだけだし、そのくらいガマンしてくれるさ?勿論説明はするつもりだ。ただ今は、考えたいことが多すぎる。今じゃなくても、そのうちゆっくり話せばいいことだろう…。
 そう、京は思った。
 そして、いつまでも重たげでいる雲を追い払いたいかのように、京は、高く、空を見上げた。




 一歩遅れて、ユキは京の後ろを歩いていた。
 知らない人と話していた京。
 知らない、人のように見えた。
 何の話をしていたのだろう?
 疑問に思ったが、京の背中を見ていると、問い質すこともできない気がした。
 京は何か、他のことを考えている。それは何か、ユキの知らないことのように思えた。
 格闘仲間が話した話。それはきっと、京の格闘家としての一面に関わる話だったのだろう。
 格闘大会と、紅丸といったあの青年は言っていた。どこかで大会が開かれるのだろうか。それに京は出場するのだろうか?あの、赤い炎を操るという武術を使って?
 それは自分の知らない、京の話だ。
 茫漠とした不安がユキの胸に広がっていく。
 大丈夫よね?
 背中にユキは、祈るように呼びかける。
 何があっても、ちゃんと、話してくれるよね?
 炎を見せてくれた、あの時みたいに…。
 ユキは京の背中を見た。
 京の広い背中は、高い場所、雲よりも高い空の上を、見つめている。




(「06」へ続く)

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