梅雨の長雨がやっと遠のいた頃、思い出したように雨天が引き返してくることがある。
送り梅雨、戻り梅雨と呼ばれる現象だ。北上していくはずの梅雨前線が、また返ってきて空に居座るのだ。
ざあざあと降り続く往生際の悪い雨、やっと晴れると思ったのに、と、京はそのぬるい雨からユキを守るように、彼女の上へ傘をさした。
「なかなか明けねえよなぁ」
じっとりと漂う湿気が鬱陶しく、空を見上げながら京は言った。鼠色に曇っている。
「そうね…早く晴れたらいいのにね。やっとテスト終わったのに」
京の傘の下で幅を取らないように、自分の鞄と傘を腕に抱きながら、ユキは答えた。
「早く練習したいのに、この頃って外で走れないからイヤになっちゃう」
陸上部らしいことを言いながら、ユキは京と同じに空を見上げた。陰鬱とした空だった。降り続く雨音の他、どこかで遠雷が轟いているような低い唸りも聞こえてくる。だが、雷雨が去れば梅雨は明けるという。本当の梅雨明けも近いのかもしれないと、京は思った。
「そっか、お前、もうすぐ部活の大会あるんだっけ?」
京は尋ねた。ユキは頷く。
「うん。夏にね。頑張らなくちゃ!」
決意を固めるように、ユキは可愛らしく拳を握った。
「そっか」
頷いて、京は足元の水たまりをひょいと避けた。
夏。
ユキが言った夏という言葉。
その言葉は今の京にとって、KOFのことを想起させるものになっている。
今年もKOFが開催される、と、紅丸が告げに来たのが少し前。
今までと違って今年は一般企業も呼び込んだ開催だと紅丸が言っていたが、それは本当のようだと京は最近知った。TVなどでKOF開催の告知CMが流されているのを何度か見た。ずいぶん明るくアピールするもんだ、と、それまでのKOFがどんなものであったかを知っている京は、面食らったような複雑な気持ちになったものだった。
前回のKOF主催者であった闇の武器商人…あの、赤く光る隻眼を持った男は、優勝者となった京や紅丸、大門の前で自滅した。その最期に不吉な、髑髏の影を見せながら…。
あの時の髑髏の影を、京はたまに思い出すことがある。あの影の正体に心当たりがなくはないのだ。それは考えたくない方向の話だった。自分の家にまつわる話。
面倒臭い。
京ははっきりとそう思っている。
もしかして、今回わざわざKOFの名を引き継いで大会を開催した人間も、まさかあの力に関わる人間なのか。
そう思ったこともあったのだが、今年のKOFには、一般の、それも大企業のスポンサーが数多く広告を打っている。世界一の格闘大会として宣伝効果を期待されている証だろう。それほどオープンな大会に、暗い影が関わってくることなど京には考えにくかった。
今までと違う、メジャーな大会になっただけの話だと、単純にそう思うことにした。そう思いたかった。
自分は強い奴と戦えればそれでいいのだから、余計なことは考えたくない。
草薙の拳を証明する。それ以外に、理由は要らない。
「…京?」
「…え?」
呼びかけられて、京は我に返った。ユキを見ると、ユキは、どこか憂いを帯びた瞳で、京を見ている。
「どうしたの?難しい顔してたよ…?」
「あ…」
ユキがそばにいることも忘れて、KOFへと心を飛ばしていた。京は思わず頭をかく。
「悪ぃ、ちょっとぼっとしてた」
ユキは息をついた。
「そう?珍しいね」
「そっか?」
「でも最近多いよ、そういうこと?」
「え」
思わずユキの瞳を見る。ユキは鞄と傘を抱いて、降り注ぐ雨を見つめていた。
「ねえ京、京、この間からちょっとヘンよ。あの、金髪の人…紅丸さん、だったっけ?その人が来た日から、落ち着きが無くなったみたいな感じがする。テストの結果を気にしてるほど勉強に真面目な人には見えないし…」
「おいおい、ひでえな」
「じゃあどんなことを考えてたの?今から追試の心配とか」
「ひでえこと言うなよ。そうじゃねえ」
答えたが、次には、じゃあ何を、と聞かれてしまう、と京は思った。聡いユキは、人一倍に、勘が鋭い。
話すなら、今からのほうがいいか…?
そう思い、京は、思い切ったように首を振った。
「…お前さ、夏に陸上の大会があるって言ったよな?」
「うん」
「俺も大会があるんだよ、格闘の」
「格闘の?…この間、紅丸さんが言ってた…?」
「まぁ、そうだな。KOFっていう格闘大会。最近CMとか流れてるみてえだけど…それに出場するつもりなんだ。多分、そろそろ申し込みしたっつー連絡が紅丸か大門から入ると思う」
ユキは瞬きもせずに聞いている。
「世界中から強い奴ばっかり集まってくる大会でさ、俺たちはそれに出場するたび優勝してきたんだ。今回も勿論、それを狙う。そのこと考えるとワクワクしてきてさ」
軽く拳を握った。
「俺の様子がお前から見てヘンに映ったんなら、そういうことだからだと思うぜ。お前も大会の前にはそうなるんじゃねえの?テンションが上がってきてどうしようもねえ、ってやつに」
京はユキを見たが、ユキは、少し分かりかねているように首を傾げていた。
「そう…ね。そう言われたら少し分かるような気がする。…でも、格闘大会って言われてもやっぱり私にはよく分からないわ。オリンピックみたいなもの?」
京は首をひねった。そう例えるには、少々いわくの多すぎる大会ではある。
「ちょっと違うな…、でもまぁ、似たようなもんか。世界中から選手が集まるって意味じゃ近いだろうな」
「ケガしたりするの?危なくない…?」
「何言ってんだ」
当たり前のことを尋ねるユキに、思わず京は笑ってしまった。
「ケガぐらいするに決まってんだろ、殴ったり殴られたりの世界なんだから」
「そんな…」
言葉を失ったように、ユキは黙った。京は気まずくなる。わざと声を大きくした。
「あのさあ、そういうことにびびってちゃあ格闘なんかできねえって。皆世界一を目指して参加してくるんだぜ?ちょっとやそっとのケガぐらい覚悟の上だよ」
「そうかもしれないけど…でも」
「ああっ、もう!」
京は、まだ何か言いたげでいたユキの頭を、ぐりぐりと撫でた。
「きゃっ?!」
驚いてユキは髪をかばう。
「そんな顔すんなよ、大丈夫だって!俺の拳、草薙の拳は強えんだからさ。世界で最高に、な」
そう、元気づけるように言った。
自信に溢れる京を見て、ユキは乱れた髪を直しながら、それでも頷いた。
「うん」
「ただ…」
京は声を曇らせる。
「KOFって、ちょうどガッコの夏休み中に開かれる大会なんだよ。それも世界のあちこちで試合が行われるから、それに合わせて選手たちも世界中を移動することになるんだ。だから夏の間は会えなくなっちまうんだけど…まぁ、日本に来た時には電話入れっから」
京は言う。ユキはそれにも、こくんと頷いた。
「それは、そういうのに参加するなら、しょうがないよね」
さっぱりと言う。
「いいのかよ?俺が出場しても」
「うん。私も大会あるし、京にどう言おうかなって思ってたの。大会が終わるまで、ちょっと会えなくなるかもしれない、なんて…」
「ああ、そっか…」
高校の課外活動と、格闘のプロフェッショナルばかりが集まる世界大会とでは、世界も規模も比べようもないものなのだが、ユキは自分の常識の範囲内で、簡単に考えているようだった。或いは、夏に会えないという意味では、それらは確かに同じ意味を持っているのかもしれない。
「お互い、忙しいよな」
それだけを京は言った。ユキは小さく微笑んだ。
「…京、ここまででいいよ。ありがとう」
いつも京が送って帰る道、ユキの家にほど近い辻で、ユキは立ち止まった。
「そっか?家まで送るぜ」
「いいよ、大丈夫だから。京が帰るのが遅くなっちゃうでしょ?」
言いながら、自分の傘を下向きにして開いた。ひらんと、京の傘の下から抜け出す。
「明日からテスト休みだね。また明日も雨かもしれないけど…そうだ、映画館行こっか?」
「そうだな…でもよ、お前も少しは休んだら?俺と違って真面目にテスト勉強してたんだろ?成績優秀のユキちゃんは」
「勉強するのは当たり前じゃない。京が真面目じゃなさすぎるのっ。…本当に追試を受けそうで心配だわ。その前に補習なのかな…?」
「まぁその時はその時だろ」
「もうっ」
悪びれない京にどうしようもない、というように、それでもユキは微笑む。
「じゃあね。また電話するね」
「ああ」
ユキに手を振って、京は歩き出す。
「京」
ユキは呼びかける。京は振り返った。
「なんだ?」
暫く、何か言いたいことがあるかのようにユキは京を見つめていたが、少し笑って、口を開いた。
「難しいのかもしれないけど、できるだけ、ケガをしないように気をつけてね。頑張って…ううん、頑張ろうね」
京は、にっ、と笑った。
「ああ。お前も大会、頑張れよ」
「うん。じゃあ」
にこりと、最後に笑って、ユキは踵を返していく。
ユキの傘が辻の向こうへ消えていくのを見送ってから、京は歩き出した。
ほっと、息をつく。
KOFの参加について、格闘の知識を全く持たないユキが抵抗や拒絶を見せてくるのではないかと思っていたのだが、ユキはすぐに分かってくれたようだった。
やっぱり、ユキだよなぁ。
理解の早さが人とは違う。表情が緩みかけるのを必死で抑えた。
ぴちょんと、水滴が水に落ちる音がした。京は顔を上げる。
雨が弱まりかけている。傘から垂れる水滴も、静かなものになっていた。このくらいならと、京は傘を収めた。
空には黒い雲のひとかたまりが、見ているうちに東へ東へと流されていく。よほど強い風らしかった。
京はばらつく前髪を押さえた。めまぐるしく姿を変えていく雲を見ていると、心が知らずざわめいてくる。このまままっすぐに帰るのは、勿体無いような気がしてきた。
少し歩いてから帰っか。
気の向くまま足を向けることにした。わざと歩いたことのない道を選ぶ。
歩きながら、京は、思った。
ユキに話せた。あとは仲間からの連絡、KOFが開催される日を待つだけだ。
ユキには…八神の野郎とかのことは話さなくていいよな。
過去の宿縁。髑髏の影。そんなものが自分にまとわりついていることを、京はできるだけユキには知らせたくなかった。京を疑うことを知らない、炎を見せても驚かなかった…彼女だから余計に。京自身さえが知らないうちに背負わされている宿業とは、彼女には無関係でいてほしい。巻き込みたくない。
ユキを傷つけたくはない。
「…」
京は立ち止まった。
いつの間にか、見たことも無い道の中央に立っていた。
目の前には雑木林の入口が開いている。どうしてこんな陰気なところに来てしまったのか、京自身にも、よく分からない。
鴉が鳴いた。姿は見えないのだが、どうやら林の中にいるらしい。不吉なものを感じ、京は顔をしかめた。
帰っか…さすがに。
そう思って林に背中を向けた時、木々の間から京を追うようにして一陣の風が駆け抜けてきた。
京の背筋がそそけ出つ。
蒸し暑い梅雨にも似合わない、ぞっとするような冷たい風だった。
なんだ…?
京は、風の方向を振り返った。
この奥に何かいるのか。
鬱蒼と茂った林の内部は昼間であるのに光が射さず、闇夜を覗いているかに思えた。
何者かの視線を京は感じ取った。
闇の中から、誰かが自分を凝視している。さきほどの風と同じような、冷たいものを京は感じた。ざらついたような嫌な気配…。
…誰だ?
林に向かって足を進めた。何者がいるのか確かめたかった。
この先で何が起こるのかなど、何も考えもしなかった。ユキのことも、仲間からの連絡のことも。
生まれて初めて、自らが敗北するということも。
地に這う下草を京は踏みつけた。林の奥へと潜っていく。
雲が征矢のような速さで天空に千切れて飛んでいく。
強い風が吹いている。
|