08 「すれ違い」



 白い病室に、傾き初めた夕映えが伸びる。
 京はベッドに腰掛けて、包帯だらけの不自由な拳を、握ったり開いたりしている。
「痛むの…?」
 水を汲んできたコップをサイドボードに置き、ユキは尋ねた。病室には今、二人の他には誰もいない。紅丸と大門は京を病室まで送り届けた後、京と少し話をしただけで帰っていった。黙ったままでいたユキの目が、光を宿していることに気づいていたからかもしれない。
「いや…」
 京は答える。
「打撲と切り傷がほとんどなんだ。ご大層な包帯だけどよ、骨までイッてるわけじゃねえよ」
「うん」
 あっさりと言う京の言葉を強いて深く考えようとはせず、ユキは頷く。
 京は、先ほどからの高揚感がまだ続いているのか、
「明日で退院できっかなぁ」
 冗談とも本気ともつかないようなことを言いながら、軽く手を振ったりしている。
「京…そしたら、KOFに行くの…?」
 紅丸と大門がわざわざ揃って見舞いに来た理由を、ユキは感じ取っている。小さな声で、そう尋ねた。
「ああ」
 当たり前のように京は答える。
「もう申し込みは終わってるんだ。近いうち、日本を出てく」
「どうして…どうしてそこまでして、そんなのに出るの。そんな身体なのに…」
「? そりゃ強え奴と戦いてえからに決まってんだろ」
「そのためにあんな技を編み出して?」
「技って神拳のことか?あれは俺が編み出したんじゃねえよ。あれは草薙の古代の奥義で、草薙の神拳って呼ばれてたもんで…って言っても、お前には分かんねえよな」
「分からないわよ。分からないに決まってるじゃない」
「…ユキ?どうしたんだよ」
 普段と違うユキの様子に、京はベッドから立ち上がる。ユキの前に立った。
「何が言いてえんだよ、お前は」
「…だって」
 京の視線を受けかねるように、ユキは俯いた。
「怖いんだもの」
「怖い?あの技、俺の炎がか?」
 あの神拳は、草薙の炎の中で最も威力を持つものなのだ。ユキはそれに怯えたのかと京は思った。
「違うわ」
 ユキははっきりと首を横に振る。
「違う、炎が怖いんじゃない。ねえ、KOFって本当はどういう大会なの?格闘大会って言ってたけれど、それって本当は危険な大会なんじゃないの?あんなにすごい技を持ち出していくような大会なんて。私、それが怖い」
「危なくなんかねえよ」
 弾かれたように言ってから、違うか、と京は心の中で自分の言葉を否定した。
 危険なのだ。KOFは。
 これまで二度ほど参加してきた大会だが、その都度、常識を超えた出来事にぶつかってきた。
 最低でも、どことも知れぬ海の真ん中で、空母の爆発に数えて二度も巻き込まれかけた。
 冗談にしか聞こえない本当の話だが、それをユキに話すつもりは、京には無かった。
 ユキは京を疑わない。話せば素直に信じるだろう。そして、きっと気に病む。
 あの草薙の神拳を見ただけで、これほどまでに動揺しきっているのだから。
 確かに京は、ユキの気持ちも分かると思った。大怪我をして入院したそばから格闘大会に参加するというのだ、全くの一般人であるユキには理解できないものがあるのだろう。傷だらけの身体で何ができるのかと思っているのかもしれない。
 それでも京は、今回のKOFにはどうしても参加していくつもりがあった。
 理由があった。京自身の矜持にかけての。
「俺はKOFに参加する。決まってんだよ」
「イヤよ」
「イヤって、なんなんだよお前は。お前が言うことじゃねえだろう」
 ユキは激しく首を振った。
「だって絶対にイヤ。そんな身体で格闘大会に参加するなんて無茶よ。分からないよ、どうしてそんなに戦おうとするのよ。京、お願いよ行かないで」
「お前」
 普段の京なら、取り乱しているユキの様子に気が付いたのかもしれないが、今日の京はただその眉間に深い皺を寄せただけだった。1800年ある草薙の歴史の中で、自分だけが、あの神拳を再現することができたのだ。それは伝承者として最大の喜びに近いものだった。誰も到達できなかった、より高い場所にこの手が届いた。
 それなのに。
 なぜ?この子はこんなことを言う?
「何言ってんだよ、この前はお前何も言わなかったじゃねえか。頑張れって俺に言ってくれたじゃねえかよ」
 雨の日の帰り道、KOFに触れた会話のことを京は言った。
 ユキは唇を噛み締める。
「何言ってるのよ…。そんなの…だって」
 俯いたが、すぐに顔を上げた。
「…だって、そんなの!平気でいられるわけないじゃない、京がこんなぼろぼろになってるのに!」
 悲鳴のような声を上げながら、ユキは包帯が巻かれた京の腕を平手で張った。
「痛ぇ!」
「ほら見なさいよ、痛いんじゃない!どうしてまだ戦いたいなんて思えるのよ、こっちの気も知らないで…!何がKOFよ、今までに優勝したことがあるんでしょ!?だったらもういいじゃない、もう参加しなくったって!」
「何だと?!」
 京は色をなす。
「何よ、誰かに負けちゃったくらいどうしたっていうのよ、そりゃ悔しいと思ってるんでしょうけど勝負の世界だったらそういうこともあって当然じゃない!それより今は身体を休めるほうが…」
 激情を迸らせるユキの叫びに、
「…てめえ!」
 荒々しく京は怒鳴りつけた。
「お前今なんて言いやがった?負けたぐらいどうしただと?冗談じゃねえ!今の今まで俺は親父以外の誰にも負けたことがなかったんだ、その親父だって15の時に倒した、全日本異種の優勝も攫った。KOFにも毎回優勝してきたしよ、ルガールなんてヤベぇ奴と戦ったときもちゃんと両足で立ってたんだ。その俺が誰かに、どこの誰とも分からねえ野郎にズタボロにされちまったなんて許されることじゃねえんだよ!」
「京」
 凄まじい京の剣幕に、ユキの顔から血の色が失せる。
「悪いが、お前の言葉は聞けねえよ。世界中から強え奴が集まるんだ、きっとそいつはKOFにだって姿を現す。今度は負けねえ、絶対に俺が勝つ」
「…京…」
 掌に拳を打ち合わせ、独言のように続ける京に、ユキはなすすべもないように呟いた。
「お願いよ、行かないで…」
 震える瞳が光を零しそうになっている。
「私は、あなたが心配…」
「うるせえ!」
 京は怒鳴った。びくっと、ユキは身を竦める。
「お前には」
 昂ぶる、両目が輝いている。唇を開いた。
 思わずユキは耳を塞いだ。
 それは、この世のどんな恋人たちでもきっと互いに抱えるもの。
 禁じられた符牒。
 相手を切り裂くだけの言葉。
 しかし京は、言ってしまった。
「お前には関係ねえんだよ!」
 割れるような大声が、病室に響く。




(「09」へ続く)

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