涙も、とうとう出なくなった。 
 ユキは眼をこする。 
 …いい加減に、しないと。いつまでも、こうしてなんかいないで──。 
 そう思いながら、ユキは初めて空を見上げた。一度、この落ち込んだ心から距離を置いてみるために。 
 夜になっている。空には星が煌き出し、月は仄白く光っている。街灯の光はここから遠い。月の光が照らし出す、京が払った焼け焦げの原には、まるで黒い穴が開いているように見えた。ユキに見えない、京の心のように。 
 …京。 
 思った時、思い出したように右手の痺れに気が付いた。ユキは手をさする。包帯だらけの京の腕を、叩いた感触が蘇る。 
 ひどいことをしてしまった。ケガをしている相手を、いくら我を忘れてしまっていたからといって、叩いてしまうなんて…。 
 謝りに行かないと…京に、謝らないと。 
 でも。 
 痺れた手を、握った。 
 謝って…何と言う?きっと京は行ってしまう。自分を置いて、遠くへ。そんな京に何と言えばいいのだろう? 
 行ってなんかほしくない。もう傷つくようなことはやめて。それが、本音だ。 
 けれど、それでも京はきっと…。 
 風がユキの髪を撫でる。そのまま野原を、見つめていた。 
「…帰ってねえの?」 
 その声は、光のように静かに降った。 
 思わずユキは息を止める。背後から聞こえた。 
 声の主が誰であるかはすぐに分かったが、振り返りたいとは思わなかった。泣き顔を見られたくはない。 
「あなたこそ…行ったんじゃなかったの」 
 ぎこちなく言うと、声はおかしそうに笑った。 
「そんなにすぐに退院できっかよ」 
「それじゃどうして」 
 ユキは言った。 
「そんなけが人のくせにふらふらするの。それとも、月が綺麗だから落ち着かないの?」 
「猫みてえなこと言うな」 
「あなた猫と喋ったことがあるっていうの」 
「俺の目の前の奴がそう」 
「私は猫じゃないわよ」 
 苛立ちを隠せず振り向くと、すぐ側に京の顔があった。 
 驚きにユキは息を詰めたが、それでも言った。 
「…一体どっちが猫だっていうのよ。足音なんか忍ばせて」 
 鼻と鼻がぶつかるような距離で、ユキは京を強く見る。不敵に京は笑った。 
「お互い様だろ、夜中にうろうろしやがって」 
 ユキは京の胸に手を突き、向こうへと押しやろうとした。 
「散歩くらいいいじゃない。ひどい人を思い出して、腹が立ってくるんだもの」 
「その、ひどい奴の目の届くところでか?歩いてくの窓から丸見えだったぜ?」 
 頬を紅潮させ、ユキは京にくるりと背を向ける。 
「…ま、おかげで追いかけやすかったけどな」 
 独り言のように呟く。背を向けたままのユキを見た。 
「…泣いてたのかよ、お前」 
 赤くなっているユキの耳を見、京は言った。ユキは無言で頷く。 
「…悪…かったよ。ひでえこと言っちまって…驚い…たよな?」 
「…うん」 
 それには、ユキは素直に答えた。 
「本当にすまねえ。つい、カーッとなっちまって。大声で怒鳴ったりなんかしてさ…。俺を心配してくれてる、お前に…」 
 ユキは首を横に振った。一つのことに夢中になると、周りが見えなくなるのが京だ。京にはそういうところがある。心がすぐに熱くなる。知っている。分かっている。 
「…でもよ、やっぱり負けたままじゃ収まれねえんだ。意地なんだよ、俺自身の」 
「…」 
 半ば予想していた京の言葉に、ユキは目を閉じた。 
「お前には馬鹿なことにしか思えねえだろうけど、俺はガキの頃からそういうふうに生きてきたんだ。俺の草薙流が一番強い、俺は強いってよ。他の奴らとは歴史が違うんだ。草薙の歴史は、俺の誇りなんだよ。負けたままなんかじゃ終われねえ。そんなもん俺じゃねえ」 
「…分かるわ」 
 ユキは言った。そんなことはもうユキには分かっている。 
 負けず嫌いの京。意地っぱりの京。おそらく京は今、自分を負かした人間、その相手と再び戦い、そして勝つことのみを考えているのだろう。 
 きっと京は、それは普段でも…そんなふうに格闘や戦いのことを考えるとき、ユキのこともころりと忘れてしまっているのだろう。学校帰りに紅丸がやってきた時も、猛火の技を出した時も。京はユキを気にする様子を一度も見せたりはしなかった。薄情なようでも、京には確かにそういうところがあるのだ。集中していることの表れ。それはユキも理解した。 
 だからユキは、京の言っていることが分かる。 
 それが、京なのだ、と。 
 炎の技を出した時の、輝いていた京の顔。きっと、あれが本当の京だ。京が京らしく生きている瞬間なのだ。 
 邪魔をしてはいけない。 
 ユキは思う。例え、京がその時、自分のことを意識の外に置いてしまっているのだとしても。他の誰でもない、京に自分の存在を忘れ去られてしまうというのは、胸を握り潰されるように苦しく、寂しく、正直腹立たしくもあったが…それでも、ユキは強く思った。 
 京が生きる瞬間。それに向かおうとする時。邪魔をしては、ならない。 
「…KOF」 
 ユキは呟いた。京はユキを見る。 
「行くんでしょう?京が言っていることを、証明するために…」 
「…ああ」 
 京は低く答えた。ユキは、こっくりと頷いた。 
「うん。それなら…行って、きなさいよ」 
 意外に思ったのか京は顔を上げ、ユキに聞き返した。 
「…止めないのかよ?」 
「それは…」 
 ユキは唇を噤んだ。 
 止めたって、京は行ってしまうじゃない。 
 叫びたかった。本当は。見栄も恥も無く、子供のように。 
 本当は行ってほしくない。ケガしてるのにどうしてそんな無茶をするの?もう傷ついてなんかほしくないのに。 
 行かないで。 
 ユキは唇を噛み締めた。 
 私を置いていかないで。忘れたりしないで。私はここにいるのに…京のそばに、いたいのに。 
「…ユキ?」 
 黙りこんだユキに京が呼びかける。ユキは京に振り返った。 
「だって」 
 叫びを上げそうになる心を必死に抑え込み、ユキは、言った。 
「そんなの、勿論、京がケガするのなんか嫌よ。そんな身体で格闘大会に出るだなんて…。…でもきっと、私が何を言っても京は行ってしまうんでしょう?だってKOFに出なかったら…戦うことをやめてしまったら、京は京じゃなくなるって言うんだもの」 
「ユキ」 
「でも、私もそう思う。あの、草薙の拳…?を出した後の京の顔、すごく輝いてた。あれが本当の京なんでしょ?あんな顔見ちゃったら…何も言えないよ」 
「…ユキ」 
「だから…行ってきて。京…」 
 京はユキに歩み寄った。枯れ草が、かさりと音を立てる。 
「ユキ、お前…いいのかよ?」 
 ユキは、ゆっくりと頷いた。 
 京は、手を伸ばす。俯くユキの頭を撫でようとした。 
 その髪に触れた瞬間、京はぎくりとして手を止める。 
「…なんだよ、お前、震えてるのかよ」 
「違う、震えてなんかないわよ」 
 ユキはぶんぶんと首を横に振る。しかしユキの細い肩は、寒くでもあるかのように震えている。京はユキの肩を掴む。 
「どうしたんだよ、おい」 
 顔を覗き込んでくる京に、長いまつげをわななかせ、ユキは目を伏せる。 
「…京……京、ちゃんと、帰ってくるよね?」 
 震える唇から、ユキは言葉を滑らせた。 
「…え?」 
 肩に触れられた京の手を、ユキは自らの手で押さえる。どんな時でも、京の手は日のようにあたたかい。そのぬくもりがユキの心を溶かしてしまう。閉じ込めた心が、たやすく綻んでしまう。 
 ユキは目を閉じた。この手が遠くへ行ってしまうことに、私は耐えられるのだろうか? 
「…だめだよ…京、私、やっぱり怖い」 
「何がだよ?」 
「だって私は京に何もできないもの。私は格闘のことはよく分からない。紅丸さんが来た時も、今日のことだって…京が遠くに行ってしまうみたいで、置いていかれるような気がして怖かった。そのまま京が離れていってしまって、私のことも忘れて、どこかに行ってしまうんじゃないかって」 
「何言ってんだ。ユキ」 
 京は語気を強めた。怒ったようにユキの両肩を掴む。 
「そんな訳あるか。情けねえこと言うんじゃねえ。そりゃあ俺は格闘のときには格闘のことしか考えられねえような人間だけどよ、そりゃお前にもバレちまったみてえなもんだけど」 
 痛いほど強い京の手の力に驚き、ユキは京を見た。 
「けどよ、お前を忘れるなんてことは絶対にねえ。お前が病室から出てってから分かったけど…お前には分かってもらえねえかもしれねえけど、お前と格闘は別のことなんだ。どっちがどうだってハナシじゃねえ。勝手なこと言っちまうけどよ…どっちも俺なんだよ。お前がつらいままじゃどこにも行けねえ」 
 ひたむきなまなざしで、京はユキを見つめる。 
「なあユキ。怖えなんて思うなよ。俺は絶対帰ってくるから。例え世界のどこにいたとしても」 
 潤んだ瞳でユキは京を見つめた。 
「お前のところに」 
 夜風が、渡る。 
 一歩、ユキは足を踏み出る。京はユキを掴む力を緩めた。腕を広げる。 
 枯草が散る。しっかりと、胸に抱きとめる。 
「…ごめん」 
 言って、ユキは額を押しつける。 
「…京、ひどいこと言って、ごめんなさい…。それに、ケガしてるあなたを叩いちゃうなんて…。痛かったよね…?」 
 京は小さく笑った。 
「どうってことねえよ、そんなこと…。俺のほうこそ…悪かったよ」 
「うん…。ねえ京、本当に帰ってきてね?」 
「ああ」 
「絶対よ、そうしたら」 
「?」 
 ユキは顔を離し、京を見上げた。 
「ちゃんと卒業できるように、私がつきっきりで勉強に付き合ってあげるから」 
 思わず、京はユキを見た。 
 星を幾つも抱いた瞳が、京を見つめている。柔らかな笑顔がそこにあった。 
 温かい。 
 京の瞳が和らぐ。この笑顔。心が、ほどけていく。 
 いつもの、いつも自分と共にあった、ユキの笑顔だ。 
 京は、微笑む。 
「おっかねえよな、お前…」 
 その言葉とはうらはらにそう言いながら笑って、ユキの髪を優しく撫でた。 
 ユキは、かすかに涙の光を浮かべた瞳で、笑った。 
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