春の風が、校庭に咲く桜の木々を揺らしていく。
昼休み、柔らかな陽光が降り注ぐ校舎の屋上で京は大きなあくびをした。
「あー…いい天気だなぁ…」
あたたかな空気は自然、眠気を誘う。安全柵につかまって、猫のような伸びをした。
「そうね…」
のどかな京とは対照的に、隣のユキの表情は浮かなかった。京はユキを見やった。
「ユキ…怒ってんのか?」
「何が?」
ユキの返事はそっけない。
「知らねえけどよ。なんか怒ってるだろ」
「別に怒ってなんかないけど…でも、そうね…。ねえ京、どうしてKOFに出ていってからずうっと帰ってこなかったの?そんなことしたら留年するの当たり前じゃない」
「いやまあ、ついな…」
京は言葉をはぐらかす。
去年の夏に開催されたKOFで、京は見事優勝した。かつて野試合で自分を負かした男に対しても雪辱を果たし、己にさらなる自信がついた。もっと自分を高めたい、とそのまま世界を回り、日本に帰ってきたのは先頃のことなのだった。旅の途中、ユキや母親には連絡は入れてはいたが、その都度日本に帰るように言われても、己の腕で確かめる手応えのほうに夢中になってしまっていた。出席日数が足りず留年となるのは、ユキの言う通り当然のことだった。
だが、ユキには留年の事実以上に納得できないことがまだあるようだった。細い眉を怒らせ、京に向き直る。
「ねえ京、去年のあの時、『帰ってくる』とか『世界のどこにいても』とか言ってくれたよね?あれは何?忘れてたの?それともウソだったの?」
去年の夏、KOF前のことを言っている。もちろん京は覚えている。お互いに深く傷つけあってしまった、初めての喧嘩。本音のぶつけ合い。そして仲直り。
「は?なんでウソになんだよ。ちゃんと帰ってきたじゃねえか」
ちゃんと、お前のとこに。
心の中で呟いた。それはKOFで日本を離れる前から決めていたことだった。必ず、ユキのところに帰ってくる。どうあろうとも、絶対に。
それをはっきりと言葉にすれば、きっと恥ずかしがりやのユキは調子を変えたかもしれない。だが、それは言わなかった。照れ屋なのは京も同じだ。KOFに行く行かないでもめてしまった去年のような土壇場ならともかく、このぬるい春の空気の中で、そんな甘ったるいことを口に出すことはできなかった。
もちろんそんな京の胸中を知らないユキには、京の言葉もただの詭弁にしか聞こえない。ほとんど叫んだ。
「何言ってるのよ、そういうことじゃないでしょ!ねえ、私たち2つも年が違うのよ?どうしておんなじ学年になっちゃうのよ。京、お願いだからもう留年なんかしないでよ?」
「さあ。なるようにしかならねえからな」
「もうっ!ばかっ!」
一声、ユキは叫んでむくれてしまった。
こうなったらユキは手強かった。照れくさくてもちゃんと言ったほうがよかったのかもしれないと、今更のように軽く後悔しながら、京は何気なく視線を下へ向けた。
その時、ふと、校庭にほど近いところに一人の少年が立っているのが目に入った。
「あいつは…」
京は呟く。見覚えのある少年だった。ユキが振り返る。
見た目は、他の生徒たちと変わらない。制服姿のその少年は、取り立てて身体が大きいわけでもなかった。ただ京は彼に見覚えがあったし、何よりも彼が繰り返す一連の動作が気になった。少年は手帳を片手に、何やら意味ありげな動作を繰り返している。幾度か同じ動作を反復した後、何か納得がいかないとでもいうように、空を仰いだ。
その時。屋上にいる京は、その少年と目が合った。遠くなので見えにくくはあるのだが、感じで分かった。
ぱっと、少年の顔が輝いた。…ように見えた。
「……!!」
少年は大きく手を振って、京に向かって何か叫んできている。遠目でも分かった。ものすごい笑顔だった。何を言っているのかまでは分からないが、口は大きく開いているし、大声を出していることには間違いない。ひょっとしたら京を呼んでいるのかもしれなかった。
校庭にいる他の生徒たちが少年を見、その視線の先にあるものを探そうとして屋上を見上げてくる。
京は柵から手を離した。
「ユキ、行くぞ」
ユキの手を引き、出入口へ歩き出す。
「どうしたの京、ねえ、あの子がどうかしたの?」
大人しく京に手を引かれつつ、ユキは言った。京と同じ少年をユキも見ていたようだった。
「なんでもねえよ」
ぶっきらぼうに言う。
「だって、京を呼んでる感じだったわよ。それもすっごい懐いてるみたいな…」
見るべきところをユキはよく見ていた。京は大仰に溜息をつく。
「矢吹真吾っつう」
いやいや、口を開く。屋内への扉を開いた。階段を降り出す。
「二年生。こないだ弟子入りさせてくれって言ってきやがったんだよ、テレビでKOF見て俺に憧れたとか言って」
「弟子入り?KOF見てって…何か格闘技をしてる子なの?」
「いいや。ちょっとスポーツやってる程度で、全然シロートなんだとよ。話にならねえ。すぐ断った。まぁ、例え何か経験があったとしてもそんなめんどくせえことはゴメンだけどな」
そう、断ったはずなのだが。あの真吾という少年はTV放映を録画でもしていたのだろうか。さっき見せていた一連の動き、あれは草薙流の型のようにも見えなくはなかった。てんでなっちゃいない、ひどいものではあったが。
「ヒーローごっこじゃねえんだから…」
うんざりしたように京は呟いた。できることならあまり接触したくないのだが、あんなことは…それも人目につくような場所であんなことをすることだけは、絶対にやめさせなければならない。何をしているのかなまじ分かるだけに、恥ずかしいといったらない。
「断るなんて…」
ユキは言った。
「せっかく言ってきてくれたのに可哀想じゃない。さっきのあれ、技の練習に見えたよ?熱心な子なんじゃないの…?」
「知らねえよ。感動したとか草薙の炎に憧れたとか、完全にファン感覚なんだよ。熱心っつーか確かにかなりタフそうだけど、それと才能とは別問題だ。だいたい草薙の炎ってのは…」
言いかけ、京は口を噤んだ。踊り場で足を止める。
「?」
ユキが首を傾げる。
『逃げられないわ』
京の脳裏に、ふいに一人の女性が浮かぶ。
長い黒髪。悠揚迫らぬ気品ある姿。神楽ちづる。その女性がKOFの主催者だった。KOFに優勝した京たちの前に現れ、自分は三神器の一人、オロチの封印を護る者だと名乗った。神代の昔、草薙、そして八神と共に、オロチに立ち向かった一族の末裔なのだと。
彼女は語った。長く神楽の一族が護り続けていたオロチの封印が解かれてしまった。再びオロチを倒すため、払う者草薙と、封ずる者八神の力が必要なのだと。遠い先祖がそうしたように、我らは協力してオロチを倒さなければならない、と。
京には訳が分からなかった。
かつて己の、草薙の先祖がヤマタノオロチという化け物を倒したのは知っていた。だが協力者が居たなどとは知らなかった。そればかりかその「オロチ」というものには魂のようなものがあり、蘇りをせぬように封印を護り続けていた一族があったことなども初めて知った。
それが突然、オロチが復活した、倒さなければならない、それが三神器の家に生まれた自分たちの宿命なのだと語られても、受け入れられるわけがない。その上、あの八神と協力しろだと…?
どうかしてるぜ。
京は思う。
俺は俺だ。俺はただ、強い奴と戦いたいだけだ。
オロチ。宿命。そんなもの知ったことじゃない…。
「ちっ」
舌打ちをした。いやなものを思い出した、というように。
「?」
ユキは京の瞳を覗き込んだ。京は我に返って、ユキを見た。蝉殻色のユキの瞳を京は見つめた。ユキの前では。そう、思った。
炎を見せても、草薙の猛火の技を見られてもなお、京はユキを巻き込みたいとは思わなかった。ユキにはそういうものから一番遠い、一番安全な場所にいてほしかった。自分のために面倒に巻き込まれることになるのは絶対に避けさせたい。傷ついてほしくない。何があろうと、それは京の中で決して変わらない。
俺が守る。…守っていたい。
強く思う。…やっぱり、照れくさくって言葉にはできないが。
惹きつけられるように手を伸ばす。ユキの柔らかな髪に、手を置いた。そのままそっと、髪を撫でる。
「…?どうしたの、京…?」
ユキは瞬きをした。澄んだ、瞳だった。
「いや…」
京は低く呟いた。
「…まぁ、いいんだよ。そんなことは…。そうだよ、あの矢吹ってヤツ。暇人じゃあねえだろうし、もう来ねえだろ。そんなことより…そうだユキ、花見行かねえか」
言ってから京は窓の外を見た。咲き揃う校庭の桜たち。今が盛りの、春の景色だ。じっとしているのは勿体無い。訳の分からないことなんか、頭の中から消してしまおう。
ユキは京の顔を見ていたが、京が無言で見つめると、うん、と頷いた。
「いいよ。いつ?」
「放課後。今日の」
間髪を入れず京が言う。
「今日?…んもう。いいわ」
呆れたように、それでもユキは頷いた。今日言い出して今日行くなどということは、強引な京には珍しくないことだった。
「でも京、何かおごってね」
京に続いて階段を降りつつ、ユキは言った。
「は?」
「はじゃないわよ、人にさんざん心配かけておいて…。そのぐらいじゃ全然足りないんだからね。ねえ、これからはちゃんと学校に来てね?今年はちゃんと卒業してよ?」
「…さぁ。約束はできねえな」
「もうっ!!」
ユキは頬をふくらませた。透き通るような色白の頬が、そうなるとまるでふくれた餅のように見え、思わず京は吹き出した。ユキは責めるような目を向けたが、笑っている京を見て、瞳を優しく和らげる。
「…もう」
ユキも笑った。しょうがない、と言うように。京は手を伸ばした。ユキは静かにその手を取った。柔らかい手だった。温かな手だった。京の胸が、ほっと安らぐ。
…守りたい。
自然に、そう思った。
いつもの日常。再びの高校生活。
留年が格好のつくことじゃないというのは分かっているけど。
もう一年、この子のこの笑顔のそばで高校生活を過ごすのは、決して悪いことじゃない。さ。
一人、京はそう思った。
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